ガエル記

散策

『三国志』横山光輝 第四十九巻 その2ー檄文ー

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

孔明成都に凱旋してから数か月後。

五虎将軍の一人馬超が病に倒れあっけなく息を引き取った。馬超この時四十五歳であった。

 

そしてこの年の五月。蜀の建興四年。魏の皇帝曹丕も病に倒れ重体となっていた。

曹丕曹叡を跡継ぎにと願い曹真、陳群、司馬懿仲達の三人に力を合わせて助けると誓わせた。

大魏皇帝曹丕もあっけない最期であった。在位七年、四十歳だった。

 

後年クーデターを起こし晋王朝の基礎を築いた司馬懿仲達はこの時驃騎大将軍に任ぜられた。

仲達は皇帝に「西涼の守りをお命じください」と願い出る。西涼は辺境の地であり望んでいく場所ではなかった。

が仲達は「西涼馬騰馬超などが現れた乱の多い治め難いところです。ここをしっかり治めることは魏にとって大切なこと」とあえて辺境の土地を希望したのだ。

それは蜀に対する備えでもあった。

 

曹丕死すの報は蜀にももたらされた。

孔明は魏の体制を密偵に確認するとともに司馬懿仲達が西涼に望んで任地したと知る。

この情報を聞いて顔色を変えた人物が蜀にふたりいた。

一人が孔明で一人が馬謖であった。

 

孔明のもとに馬謖が訪ねてきた。

馬謖孔明に会い「私は司馬懿仲達は魏一国の人物というより当代の英雄と見てございます」これに孔明も同意した。

馬謖西涼で兵馬の訓練をするつもりであろうと続ける。孔明は「今のうちに討つか」と問うと馬謖は「我が軍は南蛮平定で疲れております。それよりも曹叡をあざむき兵を用いず司馬懿を滅ぼすべきでございます」

孔明は「ほう」と促した。

馬謖は「仲達は権力争いから身を避けたのでしょうが重臣たちはなぜ仲達が辺境の地へ赴いたのか薄気味悪く思っているはず。そこで仲達は謀反を企み西涼へ向かったと噂を流すのです。さらに檄文を作ってあちこちの城門に貼ります。若い曹叡はたちまち仲達を疑うでしょう」

「よしやりたまえ」と孔明は認めた。

「早速噂から始めます」と帰る馬謖

「ふふふ切れる」と孔明は満足げである。

嬉しい台詞なのに孔明の表情がなんとなく切なげに描かれているように思われるのは気のせいだろうか。

孔明には実の子はいなかったようです。そのためもあって後継者を求めたい気持ちが常にあったのかもしれない。

馬超の死を悼んだのも彼は勇猛なだけでなく智者でもあったから彼の知性に期待していたんかもしれない。

馬謖こそ自分の後継者になりうる、と願った孔明の切ない表情なのでしょうか。

(この思いが後の孔明の行動に結びついてしまったのか、というのは少々先走り)

 

馬謖は間者を使って仲達謀反の噂をひそやかに流させた。

その噂は魏の重臣たちの間でもささやかれるようになった。

 

そんな時突然城門に「打倒魏朝」の檄文が貼られたのである。

曹操様はもともと曹植様を跡継ぎにしようと思われていたのに曹丕様の側近の策謀で曹植様は追放されてしまった。まだ幼い曹叡様を帝位につかせるのは曹操様の意志に背く。したがって司馬懿仲達は曹植様を新帝として都へ向かう」という内容がそこに書かれていた。

この檄文は曹叡に届けられた。

曹叡は自分で判断することはできない。

重臣たちは最初から司馬懿仲達は油断ならぬ人物だったと言い出す。

曹操様はそれを見破られて書庫の文書を整理する閑職につけていたのだが今帝が幼いのをいいことに野望の牙をむきだしてきたのだ。

重臣のひとりは帝の行幸を進言した。

その時の仲達の動向で判断すればよい、という案だった。

曹叡は十万の御林軍を引き連れ安邑に向かった。

 

帝の安邑行幸の報が入った仲達はお出迎えをせねばという思いで数万の軍勢を率いて向かった。

その様子を見た斥候は「ただいま仲達数万の軍勢を率いて城を出ました」と報告する。(そのとおりだけどもw)

「やはり謀反だったか」と重臣たちは青ざめ帝は怯えた。

曹休は先陣として仲達に向かった。

何も知らない仲達は「帝のおこしじゃ」と下馬して跪く。

曹休は「そのほう先帝にあとを託されながらその重任を忘れ叛心を抱くとは何事か」と檄文を見せた。

その檄文を読んだ仲達は驚き自ら帝に説明したいと曹休に頼む。仲達は率いてきた軍勢だけを引き返させひとりだけで曹叡に会うことになった。

 

司馬懿仲達は曹叡の前に平伏した。「仲達に叛心などございませぬ。西涼を望んだのは蜀に備えたいがためです。檄文は呉か蜀の計略にちがいありませぬ」

曹叡は決めかねた。

仲達はさらに「まだお疑いならばそれがしに一軍をお貸しくださいませ。まず蜀を破り呉を討って先帝とのご恩に報いとうござる」

「どうしよう」という曹叡に「陛下、仲達に兵馬の権を握らせてはなりませぬ。ここは直ちに役目を説き郷里に追い払うべきです」「それがしもそのように考えまする。仲達に兵馬を持つ地位を与えたのがこのような騒ぎになったのです」

曹叡は「ではよきにはかろうてくれ」と頼むしかなかった。

司馬懿仲達は官職をすべて剥がれ直ちに郷里に立ち去るよう命じられたのである。

良い絵だなあ。惚れ惚れ。

 

孔明はこれで安心して義を討ちに出られる、と思いをはせた。

孔明は人を呼び今日よりわしがよしというまで門を閉ざし客も断れ。それからわしが呼ぶまで我が居間に近づいてはならぬ、と命じ閉じこもった。

「臣亮もうす」に始まる前出師の票を一句一章心血をそそいで書き始めたのである。それは国に対する忠誠と国家百年の計を述べんとするものであった。

 

蜀に来て国を興した玄徳と孔明であったがその目的は魏を討ち漢室の復興と還都の二つであった。孔明は今それを実行に移すべき時と決断したのである。

 

泣きそう。孔明はずっと玄徳との誓いを遂行することだけを考えていたのだな。

玄徳のほうが義兄弟の仇討の方へ流れてしまったのだけど。孔明は「呉より魏討伐」という思いでいたのだ。しかし玄徳に義兄弟への情を示され折れてしまった。優しい人なのだ。でも玄徳の死後も孔明は最初の誓いを忘れなかったのだねえ。

 

孔明劉禅に出師表を渡した。

これには居並ぶ重臣たちも驚きを見せる。

劉禅は南蛮から戻って一年足らずの孔明を心配する。

孔明は「魏を討ち漢室を復興し旧都に帰ることは先帝の悲願でございました。私もはや五十路前。今その任を果たさねばそのうち老いて先帝のご遺託を果たせなくなります」

重臣には孔明に反対する者もいたが孔明は「なぜ今北伐かといえば魏は大国の態を整えだしたからです。早く討たねば魏を討つなど不可能になる。それは蜀の滅亡を意味するからです」

重臣らはうなり「たしかに魏は幼帝が即位したばかり今しかない」

劉禅孔明に兵を預けると告げられ孔明は「すぐに三軍の編制にかかります」と申し上げた。

孔明は軍の編制を読み上げた。

これに趙雲が待ったをかける。

自分の名前がなかったからだ。

孔明趙雲に留守をお守りしていただくと告げる。

これには趙雲怒りの声を発した。「それがしが先帝と生死を共にしてきたは魏を討ち漢室を復興させるためでござる」

孔明は「お気持ちはわかるが将軍も夜風が身に染みるお年。もしものことがあってはと名前をはずした」

年を取ったので連れていかないと言われた趙雲は南蛮での働きは若い者に遅れをとったのか、と詰め寄った。

孔明は将軍を褒めながらも趙雲の身を案じた。

趙雲はさらに「戦場で死ぬは武士の誇り。枯れ木のごとく朽ちて死ぬならここで自害する」と激論した。孔明は「それほどまでに言われるなら」と趙雲が加わることを認めた。

鄧芝が副将となり五千の兵を授けられ先鋒を命じられた。

 

建興五年春三月。孔明は三十万の大軍を率いて北伐に向かった。

 

五虎大将軍は今や趙雲ひとりとなった。その趙雲も「年寄あつかい」に憤慨する様子を見せる。

かつての華々しい英雄たちは去ってしまった。

玄徳がその勇姿を誉めそやした馬超もいない。

若き軍師と言われた孔明もまた今は自らの老いを案じ時の経過を恐れているのだ。

 

これが完全なフィクションであればこのような展開には編集者もしくは読者のクレームがつきそうだが現実は致し方ない。

しかしだからこそ『三国志』は多くの読者を引き寄せ続けてもいるのだろう。