ガエル記

散策

『三国志』横山光輝 第五十八巻

司馬懿仲達おっと惜しい0・5回目。魏延二分の一プラス二分の一で一回目。やはりこの数え方は間違っていたかも。今更wこの表紙、欲しがる人はいるのかしらん。(失礼)

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

馬岱孔明に報告をする。「丞相、いくら挑発しても魏軍は動こうとはしません」

孔明には仲達の腹はわかっている。蜀軍の食糧がそこを突くのを待っているのだ。

「よし明日このあたりの地形をもう一度調べてみよう」

上方谷または葫蘆谷とも呼ばれているという。

孔明は中に入っていった。

「おおっ」中は広く千人は野営できる。

「さらに奥には四五百名は野営できる平地がございます」と兵士が説明した。

孔明はそちらにも入っていく。

「これはよい。山は城壁。まさに天然の城じゃ」

「ここに兵を伏せまするので?」

「いやここを秘密の作業場とする」

良い場所を見つけたわ、孔明は満足気だった。

 

陣に戻った孔明は杜叡と胡忠に大工千人をつれて葫蘆谷へ入りこの図面のものを作れ、と命じた。「よいか出来上がるまでは誰ひとり谷から出てはならぬ」

さらに馬岱を呼び五百の兵をもって葫蘆谷の入り口を固めよ。この作業、魏に気づかれてはならぬ」

なんかかわいいのができてる。楽しそう。

 

「蜀から運輸されてきた兵糧は剣閣で山と積まれていますが剣閣からこの祁山まで道が悪く牛馬も倒れ車も壊れる始末で輸送が思うようにはかどりませぬ」という愚痴に孔明は「心配いたすな。その手はもう打ってあるもうしばらく待て」と答えるのであった。

 

それから数日後、孔明は側近たちを葫蘆谷へ連れて行った。

「そこに兵糧運輸の問題を解決するものを作らせている」

側近たちはきつねにつままれたような顔で孔明に導かれるまま谷の中へ入っていった。

「おおっ」

「こ、これは何を作っているのでございます」

「木牛流馬だ」

孔明は説明した。「我が軍は常に食糧輸送に苦労をしてきた。動物を使えばその食糧も必要となり病気にもかかる。だがこの木牛流馬ならば大量の者を積んでしかも食うこともなく疲れることもない。一輪車であるためどんな細い道でも通れる」

「たしかに」「それにしても驚きました。こんなところでこんなものを作っておられたとは」

こうして孔明の発明した木牛流馬が動き出した。

楽しい~~~~可愛くて力持ちだwしかし実際に使うとなるとかなり大変そうでもあるなあ。果たして運送問題解決にはなったのか???

横山先生はこれがしっかり役だったとされているのが優しい。

 

魏陣の司馬懿にもこの報告がなされた。

「なにっ。蜀軍は剣閣よりどんどん食糧を運び込んでいると」

「はい。それが新しい運輸車を使って楽々と運んでいます」

「新しい運輸車じゃと」

「はい。木牛流馬と申す一輪車でございます」

「むむむ。それでは蜀軍の食糧難を待つというわしの作戦は根底から覆る」と司馬懿はうなった。

司馬懿は張虎・楽綝を呼び五百の兵を率いて斜たにの道に潜みその「木牛流馬」とやらを四、五台奪ってまいれ、と命じた。

 

夜道、張虎と楽綝は蜀軍が木牛流馬で食糧を運んでいる一隊を見つけ後ろから襲い掛かり目的の四、五台を奪った。

木牛流馬は司馬懿のもとへ差し出された。司馬懿はそれを見て感心する。

そして大工に命じこれとまったく同じものを造らせた。魏軍も隴西からの食糧運輸に役立つのだ。

 

蜀陣の孔明のもとに「木牛流馬を奪われた」という報告がされた。

しかし孔明は「それはよい。それを待っていた」と笑った。「仲達め。わしを追い越すほど成長したかと思うたがまだ我が手の中にあった」

孔明が喜ぶのを見て側近は訝しむ。「敵がそのまま作れば敵も有利となりましょう」

「敵は木牛流馬の仕掛けを知らずにそのまま作る。敵が動かぬうちは策も通用せぬがこれで策が立てられる」そして「間者を放ち敵が木牛流馬を使い始めたらすぐに知らせよ」と命じた。

 

まもなく間者から魏軍が木牛流馬で運輸を始めました、の報が入る。孔明王平を呼び二千の兵を魏兵に変装させ北原を通って隴西の道筋に向かえ、そして魏の木牛流馬を奪って北原へ引き返せ。おそらく郭淮が急を聞いて飛び出してくる」

王平は「しかし兵はそれだけの木牛流馬を押すだけで手いっぱい。とても戦えませぬ」と答える。

「心配いたすな。木牛流馬の口の中に手を入れ舌を左に回せ。すると車止めが働き木牛流馬は押せども引こうとも動かなくなる。そして木牛流馬を放り出して逃げるのじゃ」と命じた。

 

張嶷には千の兵に腰に硫黄硝煙を詰めた瓢箪をぶら下げ煙を出しながら化け物のような変装で魏軍を襲え、と命じる。

そして敵が怖がって逃げ出したら木牛流馬の舌を右に回すと車止めが外れていとも簡単に動き出す。

魏延姜維はそれぞれ一万の兵を率いて北原の敵陣口で張嶷軍の後詰めとして戦え。

廖化張翼にはそれぞれ五千を率いて司馬懿の退路を断て。馬岱馬忠はそれぞれ二千の兵で渭水南岸の敵に挑め、と命じた。

「よいか、この作戦は木牛流馬と食糧を奪うことではない、司馬懿をおびきだすことにある」

 

夜道、まずは王平軍が魏の輸送隊に襲い掛かる。王平は輸送隊の将をあっけなく討ちとると魏兵は怯え逃げ出した。

王平軍は魏兵に変装して取り残されている木牛流馬を押し始めた。

 

郭淮のもとに木牛流馬を奪われたとの報告がされる。床に入っていた郭淮は起こされ鎧を着て出陣した。

 

木牛流馬を押していた王平軍は郭淮軍の襲撃に気づくと口の中の舌を左に回して逃げ出した。

蜀軍が荷物を放り出して逃げてしまったのを見た郭淮は「追うに及ばず」として「まずはこの荷物を砦に運べ」と命じた。

しかし魏兵たちが木牛流馬を押せども引けどもまったく動かない。

郭淮様。動きませぬ」

「そんな馬鹿なことがあるか」と苛立つ郭淮

しかし魏兵たちがどんなに力を入れても微動だにしない。

そこに現れた一隊があった。

「なんだあれは」「魔人だ」と叫ぶや魏兵たちはいっせいに逃げ出した。

「木牛流馬が動かぬのはそのせいだ」

魏軍があっという間に逃げていくのを見て張嶷は木牛流馬に近寄り今度は舌を右に回して動かし始めた。

「おおっ木牛流馬が動き出した」「やはり妖怪だ。魔力で車を動かぬようにしたのじゃ」と魏兵たちは怯えて見ているだけだった。

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「ええい、目の前で食糧が奪われるのを見過ごすことはできぬ。取り返すのじゃ」と叫んだ。

しかし魏兵たちは「魔人軍と戦えと」と怯え切って動かない。「わしの命に背くものは打ち首だ」と怒号され魏兵たちは「なるべく近づかぬようにして追う方がいい」とびくびくしながら追い始めた。

この時である。

銅鑼の音が響き岩陰から魏延姜維軍が襲い掛かった。

木牛流馬を捨てて逃げ出した王平軍も引き返してきた。郭淮軍は三方から攻め立てられおびただしい犠牲者を出し始めた。

郭淮は「本陣と司馬懿大都督に知らせるのじゃ」と命じた。

 

司馬懿のもとに報告がされる。

「このままでは北原は蜀軍の手に落ちまする」

司馬懿は出陣した。

その様子を見ていたのが廖化軍だった。

廖化はまず矢の雨を浴びせた。

さらに「狙うは司馬懿の首」と襲い掛かる。張翼もこれに続いた。

司馬懿は部下に「お逃げくだされ」と促され少数の兵と共に逃げ出した。

これを見つけた廖化は「逃がさん」と追いかける。

廖化司馬懿の護衛を討ち取るとひとり走り去る司馬懿を追い詰める。

「待てっ仲達」

司馬懿に振り下ろした槍は側の木にめりこんでしまう。その隙に司馬懿は逃げ去った。

司馬懿の前に分かれ道があった。

司馬懿はかぶっていた冠を脱ぎ反対の道へ放り投げて逃げていく。

やっと槍を抜いた廖化が追いかけてきた。

道が東西に分かれている。片方の道に冠が落ちている。「おおこれは司馬懿の冠」

そうか、仲達は東へ逃げたか、とつぶやき廖化はその道を走り出した。

と前方から姜維がやってきた。仲達はいなかったという。

「ともかく大戦果だ。引き揚げよう」「うむ残念なことをしたわ」

 

だがこの夜の戦は蜀軍の大勝利であった。蜀軍は意気揚々と引き揚げた。

 

翌日孔明は何万石という食糧と魏軍が作った木牛流馬も手に入れた。

孔明は各将に褒賞を与えその労をねぎらった。そして仲達の冠を差し出した廖化を第一の功とした。

蜀軍はこの戦果にわきにわいた。

 

しかしその夜孔明は「魏延廖化を第一の功としたことに不平を言い出しているそうにございます」と聞かされ「無視せい」と返すしかなかった。

 

孔明は内心さびしかった。この程度の戦果で大喜びする将たち。

分かれ道の片方にこれ見よがしに捨てられた冠を見てそちらへ逃げたと判断した廖化

「将がみんな小粒になってしまった。魏や呉が羨ましい」

(わびしいけどそれを言っちゃいけないよお)

(でも思っちゃうよね。わかる)

 

その頃、洛陽の魏帝曹叡は「呉が三路から北上を始めた」という報告を受けた。「蜀呉条約の発動によるものと思われまする」

「魏の一大事じゃ」と曹叡は「よしすぐに司馬懿の元に使者を出せ」と命じた。

「陣を固めて決して蜀軍とは戦うな。もしそちらが崩れたら魏は一大事となる。呉軍は朕自ら守るとな」

今どちらが突破されてもそこから敵の侵略を許すことになる。重臣たちも青ざめて評決を重ねた。

そして劉卲を大将として夏口方面へ救援へ向かわせ田予を襄陽へ曹叡自ら満寵を先陣に合肥へ向かった。

 

巣湖。

先陣の満寵は呉の水軍を目の当たりにして無傷でいた呉の成長を見せつけられ青くなっていた。

しかし満寵の報告を受けた曹叡は反論した。「呉は我らが蜀と戦い続けている間ずっと平和だった。確かに国力は増大したであろうが兵士はなまっているはずじゃ」と笑った。「よいか。呉の兵士達は我らが急いで駆け付けてきたのを見て戦は明日からくらいに考えているであろう。備えも充分ではないはず。それゆえ今夜戦をしかける」

そして張球に五千の兵で湖の口より攻め立て火を放て。満寵は東岸を攻めやはり火を放つのじゃ。呉の得意とする火計を今夜はお前たちが見せてやれ、と命じた。

 

その夜、張球・満寵の兵はそっと呉の水陣にちかづいた。曹叡の読み通り呉陣はまだ警戒を強めていなかった。

張球・満寵軍はいっせいに斬りこんだ。

呉陣に火を放つ。呉軍は「このままでは船も焼き払われる」と船に乗り込み帆をあげ漕ぎだしていった。が魏軍が放った火は多くの船を焼き払っていく。

この船団の将は孔明の兄・諸葛瑾であった。「やむをえん。沔口まで引けっ」と命じた。この夜襲で呉は莫大な武具、兵糧・船舶を失った。

 

翌日曹叡は満寵を引き連れ呉の惨状を見やった。

「呉は平和になれすぎている。戦っている者と戦っていない者の差が出たのよ」

 

陸遜のもとに「諸葛瑾が夜襲を受け沔口まで退いた」との報告がなされた。

陸遜は「魏を甘く見すぎた」と思案した。

序戦の大敗は呉に大きなショックを与えた。三路より攻め入り蜀と力を合わせて魏を数か月で滅ぼすという目算は大きく狂ったのである。

 

諸葛瑾だったのかあ。

ここで諸葛瑾の敗北という筋立てはなんだか陰謀を感じてしまいますなあ陰謀論者。

 

孔明のほうは大勝利しても心は浮かない。

関羽であったら司馬懿を捕縛するまで追い詰めたはず、と思っても詮無いことを考えてしまうのでしょう。

しかしその役を廖化にしたのは孔明でもある。そこに姜維だったらどうだったんだろう、とか思ってしまう私もいます。