ガエル記

散策

『三国志』横山光輝 第五十七巻

孔明表紙絵・・・と横に小さく魏延君があ。というわけで孔明表紙絵11回目。魏延0・5回目となりました。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

司馬懿は駆け付けてくれた孫礼に感謝の意を表した。

孔明を討てると聞き喜び勇んで参りました」

「よし」と司馬懿「そちの連れてきた兵とここの兵を二隊に分け一隊は蜀境の剣閣を攻め、一隊は鹵城を攻める。これで孔明は孤立する」

そして郭淮に「そちも孫礼と共に剣閣へ向かえ」と命じた。

 

一方、鹵城。

楊儀は魏軍が増加した折に困った事態になりました、と孔明に伝えた。「軍の百日交代の時期になっておりますが」

孔明は「法令化したものは違えてはならに早々にこちらの兵は漢中に戻すのだ」と答えた。

兵士たちはこれを聞いて大喜びしそれぞれ帰り支度を始めた。

がここで剣閣に郭淮・孫礼の率いる魏軍がそして司馬懿軍が鹵城に向かって押し寄せてきているという報が入る。

楊儀は再び「こうなっては交代どころではありません。ただちに兵を備えにつかせましょう」というが孔明は「いや定めたことは守らねばならぬ」と言い切った。「約束も守れぬ人間に人はついてこぬ。家族も百日交代を待っていよう。それゆえいかなる困難が待ち受けようともわしはこの信義を捨てることは出来ぬ」と兵の交代を促した。

楊儀は重い足取りで兵士たちに会いにいく。

兵士たちは「魏の大軍が押し寄せてくると聞きましたがどうなるのでしょうか」と問う。楊儀は「丞相はそち達の家族が待っているであろうと申されどんな難儀に会おうともこの信義を捨てたくないと申されてのう」と告げる。兵士たちは「丞相はそこまで我らのことを」とうなだれ「敵の大軍を目の前にして引き揚げるなど男としてすたります」と返した。

「我らは命を捨てて戦いまする。丞相にそうお伝えくださいませ」

 

孔明はこのことを楊儀から聞き「わしから話そう」と兵士たちの前に立った。

孔明はもう一度「法令化したものを容易く変えるわけにはいかない」と言ったが兵士たちは「丞相なにとぞ戦えとご命令ください」と答えた。

「よし。この城は守るにふさわしくない。城外に出て戦え」と命じる。

兵士たちはオーッと雄たけびをあげた。

 

蜀の四万の兵は勇んで城外に出、魏軍の現れるのを待ち受けた。

 

魏軍は明日の戦に備え野営を始めた。

魏兵たちはたっぷり食っておけ、いやあんな小城は半日で落とせるとにぎやかに食事を摂っている。それを眺めていた蜀兵たちは「よし叩くのは今だ」と突撃を開始した。

魏軍は不意を突かれて混乱のうちに次々と倒されていく。

孔明は新手を繰り出してきた。

さらに魏軍は混乱の度を増して収拾がつかないほどになっている。

「いかん。いったん上邽に引き揚げよ」と叫ぶ将までもが矢衾となり倒れ落ちた。

こうなると命令も伝わらなくなり魏軍は右往左往するだけである。その結果むくろは野を埋め血は河となった。

孔明の徳に感じて奮い立った蜀軍は魏軍を完膚なきまでにたたいたのである。

関興の活躍。

 

戦いが終わり孔明は兵士たちに充分の恩賞を取らせた。

思いもよらぬほどの大きな戦果であった。

ところがここに永安城李厳から早馬が送られ手紙が届けられたのである。

その中に「呉が魏と組んだ」と書かれてあった。これは容易ならざることである。

呉の陸遜が兵を繰り出し蜀に攻め込めば防げる者はおるまい。これは早々に引き揚げねばならぬことであった。

「よし全戦線に総退却の伝令を飛ばせ」と孔明は命じた。「よいか。わしがここにいる間、魏はうかつには追撃すまい。乱れず騒がず漢中に帰れと伝えい」

伝令は各戦場に飛び総退却の命を伝えた。

 

魏軍において蜀の総退却の報があり張郃は疑問を感じた。ともかく司馬懿の指図を仰ぐしかなかった。

上邽にいる司馬懿はこの報を聞き「孔明が我らをおびきよせる策かもしれぬ。軽々しく動くな。敵の兵糧が尽きて退却するのを待つが一番の上策だ」と返した。

これを聞いた張郃は「手遅れになります」と反論した。

なおも司馬懿は「守りさえ固めていれば蜀軍はいずれ食糧難となって退却せねばならなくなる」と答えるのみだった。

 

孔明は祁山の軍勢が陣払いしたと聞き自らの退却方法を講じていく。

楊儀馬忠を呼び一万の射手を率いて剣閣の木門道の左右に潜めさせ孔明の合図で丸太や大石を投げ落とし退路を断って左右より一斉に射おろせ、と命じた。

魏延関興しんがりを務めさせた。

「他の者は城壁に旗を並べ城内に薪や草を積んで煙をあげ軍勢がたてこもっているように見せて引き揚げよ」

 

蜀軍が城を出ていく様を魏の斥候が目撃し司馬懿に報じた。

司馬懿は自分の目で確かめる。

煙が上がり旗が立ち兵が残っているように思えたが司馬懿は空城だと言い切った。

その通り城はもぬけの殻であった。

司馬懿は「これで蜀軍の引き揚げが策ではないとわかった。よし誰か追手に出る者はおらぬか」と呼びかける。これに即答したのが張郃であった。

しかし司馬懿張郃の気が勝ちすぎるのを案じた。「用心深い男が適役だ」

これに張郃「用心に用心を重ねて追撃しますゆえなにとぞ」と強く求めた。

 

司馬懿張郃に五千の兵をあずけ孔明を追わせることとなった。

孔明の伏兵に備え賈詡・魏平に二万騎をつけて後から続かせさらに司馬懿自身も三千の兵を率いて後より助勢する、とした。

 

張郃は喜び勇んで追撃を開始した。

がすぐに前方を魏延が立ちはだかる。

大将同士の一騎打ちとなった。

ところが張郃の鋭い一突きを受けた後魏延は「引けっ」と走り出す。

張郃は「逃げるか」と追いかけようとした、その時背後から「この関興が相手だ」と声があがる。

関羽の子せがれか」と張郃は向き直り関興と打ち合う。

今度は関興もすぐに背を向けて走り去っていく。

どうもおかしいと思った張郃は伏兵を探させたがなにも見えなかった。

そのまま進むとまたもや魏延が現れる。

張郃は「もみつぶせ」と突撃した。

だがここでも魏延はまたも逃げ出し勢いに乗って追撃するとまたしても関興が現れる。そして十数合打ち合うと関興もまた逃げ出すのだ。

「そうかこうやって孔明の逃げる時をかせぐつもりか」と張郃は走りだした。

しかしまたも魏延関興が邪魔に入り同じことを繰り返して追撃の速度を鈍らせた。

 

ふと気づくと張郃は木門道まで来ていた。

「周りは高い崖で見通しもきかず危険です」と部下が忠告をしてくる。張郃は「ひとまずここで兵士が追いつくのを待とう」と言ったその時銅鑼の音が響きまたも魏延が現れた。

「逃げ上手め」という張郃魏延は「逃げているのではない。逆賊と戦う刃の穢れを恥じているのだ」と答える。

「ぬうっそのような口二度ときけぬようにしてやる」と張郃魏延に襲い掛かる。

またも打ち合いとなり張郃の槍が魏延の槍を弾き飛ばし魏延は「引けっ」と逃げ出した。

「ぬうう、またか。今度こそは逃がさん」と追い詰めていく張郃に魏軍は「それ以上深入りはなりませぬ」「将軍をお止めしろ」と追いかけた。

 

張郃はついに槍を魏延に投げつける。

張郃に追いついた兵たちが「日も暮れ始めました。ここはお引き揚げください」と声をかけた。

と崖上から何かしら火の手が上がる。

「怪しい火だ」

よし引き返そうと張郃が号令をかけた、とたんに崖上から人影が現れ前方に材木や大石が投げ込まれ退路を断たれてしまった。

「逃げ道を探せ」と向きを変えるがこの時楊儀馬忠率いる一万の射手が一斉に矢を射かけた。

雨のように降り注ぐ矢に張郃はじめ部下たちは身を隠すすべもなくハリネズミのようになって息絶えた。

 

追ってきた魏軍は木門道が塞がれているのを発見し張郃将軍の安否を気遣い名を呼んだ。

しかし崖上に現れたのは

「魏兵よ。張郃は我が策にはまって死んだ」

「さあ早々に立ち去れ」と孔明が言うと魏軍は我先にと逃げ出していった。

 

張郃の死は司馬懿に伝えられた。

「あれほど見どころのあった男を・・・」と司馬懿はその死を悼んだ。

とその時司馬懿ははっとした。「そうか。孔明の作戦の根本を見たぞ」

孔明は常に敵を嶮に追い込み味方を安全な地におき、そして刑を動かして敵を殲滅する。考えてみればわしも渭水から上邽へ上邽からこの剣閣へといつの間にか次第次第に危険地帯に誘い出されている。

「追撃は中止じゃ、引き揚げい」と仲達は命じた。

背筋に寒さを覚えた。

 

上邽に引き揚げた司馬懿はただちに要所に諸将を配しただよく守れと命じた。

自身は洛陽へ戻り張郃の死を奏上した。魏帝をはじめ群臣はその死をひどく悲しんだ。

 

漢中に戻った孔明は魏と呉が手を組んだ気配はない、と知ることになる。

戸惑う孔明のもとへ成都から費褘が訪れた。

彼らの方は孔明が突然理由もなく戻ってきたので陛下から問うて参れと訪れたというのである。

孔明李厳より呉と魏に秘密条約が結ばれた形跡があり万一に備えてくれとの手紙がきたので引き返してきたのだと説明した。

費褘はこれに「李厳は兵糧を調え終わったのに丞相が理由もなく漢中へひきかえした、訝しいことだと言いふらしておりますが」と返したのだ。

孔明は驚き費褘に李厳からの手紙を見せた。

費褘は最初敵の策略ではと言ったが孔明との話し合いのうちに「兵糧が五日遅れると斬罪という厳しい掟があります。李厳は期日を間に合わせることができず苦し紛れにそのような手紙を出したのでは」ということになった。「書いた覚えはないと言い張ればそれまでです」

孔明は「すると自分の都合で国家の大軍をないがしろにしたということになる」

食糧が調えられなかったといって軍を引き返させるなど首をはねてもたらぬ大罪、と孔明は自ら調査するため成都へ向かった。

 

孔明の調査により結果やはり李厳の責任逃れの弄策とわかった。(何これーあまりにも酷い)

孔明は費褘に「首をはねても足りぬ。すぐ李厳を呼べ」と言うと「丞相、打ち首だけはおやめくだされ」と返す。「李厳も先帝が陛下を託された重臣であることもお忘れなく」

これに孔明も「そうであったな」と目を伏せた。「ではどうする」

費褘は「官職をはぎ、庶民に落とします」

孔明はこれに同意した。費褘は感謝した。

 

こうして李厳は庶民となり梓潼郡に流された。

そして李厳の息子李豊を長史(官房長)に取り立て食糧集めを任せた。

 

孔明は費褘に「しばらく内政の拡充に力をそそごうと思う」と伝える。

「では北伐は」と問う費褘に「魏を討ち漢朝の復興は先帝のご遺志じゃ。これは果たさねばならぬ。だがその前に国内を固めねばならぬ」と孔明は言った。「わしは国を空けすぎた。まずは国を固め安心して出陣できるようにしてから北伐をおこなう」

「我らがいたりませぬゆえに」と費褘は答えた。(ほんとだよ孔明体が幾つあっても足りん)

 

それから孔明は内政に力を入れ始めた。農民を労り灌漑に力を入れまた悪徳官吏には庶民よりも厳罰でのぞみ宮中の空気の一新をはかった。

こうして三年間で蜀の国力を見違えるほど充実させたのだ。

 

漢中にて、関興は「こう平和だと体がなまってしまう」と側近にこぼしていた。「魏を討たずしてこの平和は続かぬ。機が熟したとなれば魏は蜀になだれこんでこよう」

と話していると突然関興は咳きこみ血を吐いてしまった。驚き医師を呼ぶ。

「長い間の戦場での明け暮れで体もむしばまれたのでございましょう」と薬を渡し安静を求めた。

関興にこのことを伝えると「先帝と我が父と張飛将軍は若い頃桃園で誓いをたてたのだ。漢朝のために共に働こうと。だがそれはまだ果たされておらぬ。その遺志を継ごうとしておられるのが丞相だ。わしもまた父の遺志を継ぎたい。この目で漢朝の再興を見ぬうちは病などしておれぬ」

 

その頃孔明は蜀帝・劉禅に北伐を申し出ていた。

「しかし魏も呉も攻めてきておらぬ。どうして太平を楽しまぬのじゃ」

「魏を討たずして蜀の安泰はあり得ないのでございます」と孔明は申し上げる「それがしは先帝のご遺志を継ぎ陛下のために中原を取り戻すことが先帝のご恩に報いることだと考えています」

これに譙周は反対した。

「それがしは司天台をつかさどるが役目。吉事凶事の前兆がある時は申し上げぬわけには参りませぬ」

孔明は「申してみよ」

「近頃、幾万とも知れぬ鳥の群れが南より飛んできて漢水の川に落ちてしにましたがこれは不吉の前兆、さらに天文をみましたところ、盛んなる気は北方にありこれは魏を討つのは不利との知らせでございます」

孔明は答えて「だが天文はわしとて見る。たかが災いが起るかもしれぬというだけで国の大事をやめるわけにはいかぬ」と言い陛下に向かい「今度は孔明、魏を討つまでは帰っては参りませぬ。それゆえなにかあれば重臣の言葉に耳をお傾けくださりませ」

劉禅は「よくわかった。そなたの言葉を忘れぬ」

 

建興十二年春二月、孔明成都を出発した。

 

蜀道の嶮、蜀水の危険を踏みわたり、まず漢中で勢ぞろいしその総勢三十四万。だがこの時一つの悲報が届いた。

関興が死んだのだ。使者は「最期まで北伐に参加できぬは無念だと」

「忠義の人に天が齢を与えぬとは」と孔明は泣いた。

 

関興の死は孔明にとってショックであった。

孔明の作戦上関興は欠かせぬ将のひとりであった。

 

 

あああ、蜀がどんどん先細りになっていくのがわかる。

たしか玄徳が行った夷陵の戦いは蜀軍は七十五万だったのではなかったろうか。

前回の戦いでも四十万をふたつに分けるとしていた。

それが今回は三十四万となっている。勢ぞろいしていた華々しい英雄たちはとうにいなくなり張苞関興までもが死んでしまった。

 

いまや反抗的な魏延に頼らざるをえなくなり目ぼしい若手は姜維のみとなっている。

もはや孔明だけで魏と戦っているような気さえする。

 

その恐ろしい出陣をせねばならない孔明