ガエル記

散策

『三国志』再び 横山光輝 五十四巻

 

 

ねたばれします。

 

 

魏の将費耀は姜維の寝返りを疑っていたものの事の成り行きで姜維を信じて進むとそこに姜維が現れ「曹真と思っていたら費耀か。鶴の罠に鴉がかかってしまったか」と言い放つ。

ここでやっと費耀はやはり姜維の寝返りの手紙は罠だったと知る。

費耀軍は狭い山道に追い込まれ岩石で行く手を塞がれそこへ火のついた柴を盛った車を落とされ兵士たちは焼かれていく。

「もはやこれまでか」費耀は自害した。

ここで蜀軍は崖の上から縄を降ろし生き残った半数の魏兵を救った。

 

度重なる曹真の対孔明戦の敗北に魏の重臣の間にも曹真への非難の声が高まっていた。

曹一族である魏帝は司馬懿に相談する。

司馬懿の目算では「どんな挑発にも乗らず守りに徹し長期戦に持ち込めば蜀軍は兵糧が尽き総退却せざるを得ない。この時に大軍で追撃すれば曹真は大勝できるはず」と答える。喜びながらも「なぜ自分の手柄にしないのか」と問う曹叡司馬懿は「呉の動きを見ております」と答えた。

 

この考えは魏帝の考えとして曹真に渡されたが側近の郭淮は「これは司馬懿の考えでしょう」と見破る。

曹真は感心しながらも都にいる司馬懿が戦局を見通し自分は何も考えきれないことに落胆した。が、郭淮はそれを見事に仕上げるのも重大な役目でございます」と励ます。

思い直した曹真は郭淮司馬懿の作戦を実行させる。

 

ここで曹真に豪傑・孫礼が柴に硫黄と煙硝を混ぜた車を兵糧と見せかけ蜀軍に襲わせるという火計を進言する。これまで孔明に負け続けてきた曹真はこれで孔明を捕えることができる、と喜んだ。

 

孔明軍では守りを固めて出陣しない曹真軍に手を焼いていた。

そこへ魏軍の数千台の兵糧運送隊が通ると言う報告が入る。

蜀軍の将達は色めいたが孔明は任じられた孫礼という将軍がいかなる人物かを聞いて「これは罠じゃ」と見破った。

孔明は火計が得意である。その孔明に火計を仕掛けてくるのは無謀であった。

孔明はただちに作戦を皆に言い渡す。

 

まずは孫礼が運送する偽兵糧に馬岱軍が火をつけた。

これから兵糧と見せかけて蜀軍を引き寄せて討ち取るための「餌」がすべて燃えてしまった。

慌てる孫礼の前に蜀軍が押し寄せる。逆に魏軍を火の中に追い込む。

 

しかし別動隊の魏軍は火の手が上がったのを見て作戦が決行されたと思い誰もいないはずの蜀陣を奪わんと突撃した。

が、出払ったはずの蜀軍が背後から襲ってくる。やむなく自陣へ逃げ戻るとそこは逆に蜀の関興張苞によって奪われていたのだ。

魏軍は大混乱した。

この作戦の失敗で魏軍の死者は計り知れないものであった。

 

曹真はまたしても孔明にしてやられたのである。

 

そして勝った孔明は退却を命じたのである。退却をするのは今だと。

 

曹真は二度と打って出ようとはせずひたすら守りを固めていた。ここに洛陽から使者・張郃が到着し仲達から「もし我が軍が敗れたならば敵軍はすぐにも退却するに相違ない。これこそ兵法の極意である」との伝言を言い渡した。

曹真は驚いてすぐに蜀陣を探らせる。結果蜀軍は退却した後だった。

張郃はすぐさま追撃を開始したが時はすでに遅し。蜀軍の影を見ることもなく引きあげたのである。

曹真、悪い人じゃなさそうで気の毒だ。

 

さらに・・・孔明は別動隊である魏延に退却の方法を伝えていた。

魏延軍には曹真が見込んだ武者王双が対峙していた。

王双は魏延軍が退却し始めたと聞き勇んで追撃する。

 

ところが王双が兵を率いて出陣したところで自陣に放火されたのだ。慌てて戻ろうとする王双を魏延は一刀両断。

魏延が率いていたのはわずか三十名ほどだった。

むろん孔明の策略である。

こうして魏延はひとりの使者も出さず悠々と漢中へ引き揚げたのだ。

 

が、この報を聞いた曹真は青ざめる。

自らその武力を見込んで引き入れ魏帝に自慢したのが王双だったのだ。

曹真、壊れてしまった。

こうして軍は残したまま曹真も洛陽に引き揚げたのである。

 

魏と蜀の長い戦いの間に呉は着々と自国の力を蓄えていた。

西暦229年、孫権は年号を黄龍に改め魏や蜀にならって皇帝を名乗ったのである。

そしてこれを国際的にも承認させるため蜀に特使を送った。

 

劉禅はじめ蜀の重臣たちは突然のこの申し出に戸惑うが漢中にいる孔明に相談した。

孔明は「やむを得ん。認めることだな」と言う。「認めねば呉は魏と手を結ぶであろう。今は蜀呉が両国の共栄を考えねばなるまい」

これを聞いた劉禅は納得し呉へ祝賀の礼物を贈り魏への出兵を願い出た。

孫権陸遜に相談し「多くは蜀に働かせ呉はもっぱら隙を伺いいよいよと言う時に孔明より先に洛陽へ入城するのが最上である」ということになった。

 

孔明を苦しめた陳倉の郝昭が重病だという報が入る。

孔明魏延姜維のふたりを呼び、五千の兵を率いて三日のうちに支度を整えて向かえ、と命じた。

陳倉では重病の郝昭がこの報を聞き「二日後たった五千の兵ならば病床でも指揮はとれる」と再び横になったがその夜突然蜀軍が城を襲ったのだ。

驚いた郝昭は血を吐き倒れ死んでしまう。

突如現れたのは孔明率いる軍だった。

後日魏延姜維が襲撃するという知らせを流し自ら速攻で陳倉に到達したのだ。

孔明は自分を苦しめた郝昭を手厚く葬り二日後にやってきた魏延姜維を迎えた。

魏延姜維、遅いぞ」驚く二人を城に入れ説明をした。ふたりは恐れ入った。

そして孔明はふたりをそのまますぐに先の散関へ向かわせ手に入れさせた。

直後、魏の張郃軍が押し寄せてきた。が、すでに蜀軍の旗が翻っているのに気づき逃げ出した。

それを見た魏延は追撃。張郃軍は大勢の死者をだして長安へ逃げ帰ったのだ。

 

かくして蜀軍は斜谷を通り建威を攻め取り、祁山へ向かった。孔明にとっては三度目の祁山出兵である。

 

魏帝曹叡の周辺は騒然となっていた。

蜀だけではなく呉の陸遜も武昌に大軍を集結させて魏を伺う素振りを見せていたからである。

ここでも頼みの綱は司馬懿しかいなかった。

困惑する魏帝に司馬懿は悠然と答えた。

呉の動きは孫権が帝位につく為の見せかけにすぎません。一方、蜀の襲来は事実。ゆえにまず事実に全力を注ぎその後、呉を始末すべきと考えます。

曹叡孔明に互角に戦えるのは司馬懿そなただけだ。しなたを大都督に封じ全軍総司令の総兵の印を授ける、と言い渡す。

しかし司馬懿はこれを辞退する。皆の嫉妬を危ぶんでの行動だ。

 

司馬懿は自ら曹真の邸へと向かう。

そして呉と蜀の進出を伝えると曹真は自ら立ち上がり「総兵の印」を手渡した。

 

司馬懿は直ちに将兵を召集し祁山へ向かった。

兵力は精鋭十万。

孔明司馬懿はここに初めて正面切って対峙したのである。

孔明はすぐに動かない。

司馬懿は「おかしい。これはなにかある」と考えた。

司馬懿孔明の知恵比べが始まった。