ガエル記

散策

『三国志』横山光輝 第六十巻

姜維、表紙絵二回目。もう最後です。見れば五十巻が初の姜維表紙絵で二回目の姜維が六十巻で最終巻となる。

英雄たちが次々といなくなった最終章でただひとり英雄的な存在の姜維。彼がいなかったら玄徳亡き後のパートはかなりきついものがあったと思っています。

横山先生もすべての英雄の穴埋めにしなきゃいけないとばかり最高に美しく描かれているように見えます。

その姜維の姿もこの巻をもって見納めです。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

楊儀は酒びたりの荒れた生活をしていた。

蜀軍を無傷で漢中まで引き揚げさせさらに謀反人魏延を討ったというだけでも大変な手柄なのに丞相を任じられたのは彼ではなく蒋琬であったのだ。

楊儀蒋琬よりも前から陛下にお仕えしているという自負があった。後輩の蒋琬の下で働けるものかと酒を飲んでしまうのだった。

「元魏延の将達も今は降伏したが不満を持っていようし彼らと語らって魏に走れば魏はわしをもっと重用してくれよう」

 

費褘邸にて。楊儀の側仕えの男は主人の言葉が恐ろしくなり費褘に報告した。

楊儀が今度の待遇に不満を持ち、不平分子を集めて魏に走る」と言ったという知らせは費褘にとっても恐ろしいことだった。

酔ったうえの言葉とは言え今ここで魏に内応する者が現れたら蜀は滅亡する。陛下にご報告すべきと考えた。

 

劉禅はこの話を聞いて怒った。「丞相亡き今一致団結して国を守らねばならない時に昇進が不服だから魏に走るとは」

費褘もまた不満が大きくなっていくのを恐れた。「魏延に叛骨の相ありといえど魏延を謀反に追い詰めたのは楊儀に原因があったと思われます。楊儀魏延の小さな落ち度まで見逃さずに丞相に報告してございました。これが謀反の引き金になっております」

劉禅は「よし楊儀を討て。その調子で国内の不平不満分子を扇動されては国が危なくなる」

これに蒋琬は待ったをかけた。

楊儀は丞相に従って多くの手柄を立てて参りました。なれば切手はなりませぬ。官職をはいで庶民になされませ」

これには劉禅も納得し「楊儀の官職を剥奪して庶民に落とせ」と命じた。

 

こうして楊儀は漢嘉郡に移され庶民に落とされた。楊儀はこれをこの上もなく恥じ自害して果てた。

支柱を失うと必ず内争が始まる。蜀もその例外ではなかった。

その後、蜀は北伐を延期し、国の固めに入った。

 

孔明の士は魏にも大きな影響を与えた。

魏帝・曹叡孔明の死で安心したのか宮殿造りに力を入れ始めた。

洛陽に朝陽殿、太極殿、総章観を築きさらに崇華殿、青霄閣、鳳凰楼と大工事を始めた。すべて黄金珠玉で飾り立て出費をいとわぬ建物であった。

かりだされたのは天下の名工三万人、人夫三十万人、それらに昼夜わかたず造らせたのである。

人での足りぬ時は公卿大夫にまで土や石を運ばせた。

万民の嘆き悲しみ怨みの声は国内に充満した。この暴政を諫める者も続出した。だがそれらの者はことごとく首をはねられた。

さらに曹叡は大きな鼎を造らせそこに油をたぎらせ諫める者があれば煮殺すと触れた。

心ある者は司馬懿仲達に事の次第をつぶさに告げた。

司馬懿は嘆いた「蜀に孔明がある間、こんなことはなさらなかった陛下じゃが」

孔明死すと聞いただけで天下を統一できたと思われたのかもしれぬ。

司馬懿は臣下たちに「よいか、そち達のように国を思う者があればこそ国は栄える。これからは陛下に意見をして命を失うな」と言った。

「ではこのまま何もするなと」

「魏はまだ天下を統一しておらぬのじゃ。命を大切にせい」

去っていく臣下を見て「これでは魏の運命も尽きた」と司馬懿はつぶやいた。

 

国に怨嗟の声が高まると謀反を起こす者も現れてくる。遼東の公孫淵もその一人である。

公孫淵は遼東十五万の兵を集め押し寄せ始めた。孔明が死んで三年目のことである。

 

曹叡司馬懿に相談した。「呉蜀の国境を守る兵は動かせぬ。どうすればよい」

司馬懿は「ご心配なされますな。四万の兵があれば公孫淵は討ちとれまする」

「相手は十五万じゃぞ」という曹叡司馬懿は「孔明も我らが百万の軍勢で守る渭水に三十万で押し寄せて参りました。戦は兵の数ではなく奇計智謀の手並みが第一です」

「よしすぐに反乱を押さえてくれ」

こうして司馬懿は出陣したちまち公孫淵の軍勢を蹴散らした。孔明と戦い続けた司馬懿にとってこの程度は軽いものであった。

司馬懿は意気揚々と凱旋した。

その時曹叡は重態であった。

一か月前急に倒れそれから日ましに悪くなり今日明日もわからぬご容態という。司馬懿はすぐにお目通りを願った。曹叡司馬懿の帰りを待っていた。

司馬懿の勝利を讃え自分の死を告げるのであった。心配なのは跡継ぎの曹芳がまだ八歳であること、そこで司馬懿と曹爽で曹芳を盛り立てて欲しいと願った。

司馬懿はこれを引き受けた。

それから数日後曹叡は息を引き取ったのである。

 

司馬懿と曹爽(曹真の子)は遺言により曹芳を即位させた。

 

その後、「司馬懿から兵馬の権を取り上げよ」という進言が曹爽になされた。

司馬懿に大きな力を持たせると魏を乗っ取る恐れさえある。息子たちも切れ者で見過ごせない。ここは曹一族でしっかりと兵馬の権を握っていた方が安全である。

しかしそれでは遺言に叛くことにならないかという不安に対し司馬懿を太傅の地位につけることで解決するという。太傅は今の位より上だが仕事は陛下の教育をするという何の権限もない名誉職でしかない。

最初は躊躇していた曹爽もこの進言に賛同した。

 

曹芳の印が押され司馬懿は名誉職の太傅に封じられた。

司馬懿はこれを受けた。

帰途につきながら司馬懿は誰かがわしを恐れて兵馬の指揮権を取り上げたのであろう。これからは用心せねばと考えていた。

 

司馬懿は帰宅し息子たちにも気を配れと注意した。

老いてますます冴えゆく司馬懿である。

 

兵権を手にした曹爽は弟の曹義を中領軍、曹訓を武衛将軍、曹彦を散騎常侍に任じ一族で身の守りを固めた。

そして天下の政治をほしいままに動かしだした。

 

各地から届く貢物はまず自分が一番好い品を横取りしたのち天子に献上し屋敷ないには美女があふれ酒池肉林の世界を繰り広げた。

 

曹爽は李勝が荊州に向かう際に暇乞いに訪れて仲達の様子を探って参れと命じた。

 

司馬懿は李勝が来たと聞き寝間着に着替え髪を乱して床で迎えた。

李勝が「これから荊州に参ります」というのを何度も聞き間違え問い返すのを息子が「実は父は耳が遠くなってございまする」と言い訳したので李勝は紙に書いて説明した。

侍女が「お薬を」と持ってきた薬湯をだらだらとこぼしてしまう。司馬懿は「わしも病には勝てぬ。そう長くはないじゃろう。わしの死後二人のせがれを導いてやってください」と横になってしまった。

李勝はそれを見て「お大事に」と去っていった。

 

「李勝がこの有様を報告すれば曹爽はわしへの警戒心を解き安心して好きな狩りに出かけるだろう」

 

案の定李勝はすっかり騙されそのままを曹爽に報告した。「あのおいぼれがくたばればわしも枕を高くして寝られるわ」「はい、もうこの魏で大将軍に逆らえる者は一人としておりませぬ」

 

それから数日後、曹爽は天子を誘い弟たちも引き連れて城外へ狩りに出かけた。

 

司馬懿のもとに「曹爽兄弟たちが狩りに出かけた」との報告がなされた。

城内に曹爽兄弟とその息がかかった者は誰もいない状況だった。

「師・昭よ。わしもたいした千両役者よ」と司馬懿は息子たちに告げた「行動開始じゃ。城中の要所を押さえよ」

 

たちまち司馬懿の旧臣が動き出した。あっという間に曹爽の本営を乗っ取り、曹義の本陣を押さえた。

 

司馬懿は先帝(曹叡)の夫人である郭太后に「世直しのため」と申し上げる。「我が国にはまだ蜀呉という敵がおりますが曹爽のように敵に備えず好き勝手な政治を行っていれば蜀呉の餌食となりましょう」

「しかし陛下は曹爽と狩りに出ている。どうすればよいのじゃ」と困惑する郭太后司馬懿は「郭太后が我らの行動をお認めくだされば兵士たちも従いまする」

なおも陛下・曹芳を案じる郭太后に「陛下に手を出すようなことがあれば曹爽一族はこの魏には住めませぬ。また城内には曹爽一族の家族がすべて住んでいます。無茶なことをすればその家族たちがどうなるか、そのくらいのことは曹爽もわかっておりましょう。ともかくあの強大な権力を取り上げてしまい陛下の威光を取り戻さねばなりませぬ」

太后は「わかりました。先帝はそなたにも後々のことを頼まれたのじゃ。そなたの納得するようになされるがよい」と認めたのである。

「では世直しさせていただきまする」

司馬懿は城門を閉じ守りを固めさせた。仲達自身は兵を率いて城外に陣を構えたのである。

 

その頃曹爽兄弟たちは狩りを楽しんでいた。

そこへ「司馬懿が兵を起こしました」の報告がされた。

「郭太后司馬懿の行動を認められ兵は司馬懿の指揮下に入りました。城はすべて閉じ、司馬懿は陣を敷きましてございます」

「兄上、こうなれば我らは天子を擁して許昌に移り司馬懿と戦いましょう」

しかし曹爽は「あの孔明でさえ司馬懿を打ち破ることができなかったのだぞ」とこぼした。「それに城内には我らの父母妻子ことごとくいるのじゃ。それを見殺しにするのか」

そこへ太傅(司馬懿)の使者が曹爽にお会いしたいと近づいてきた。

曹爽が名乗ると手紙を渡し去っていった。

 

曹爽は狩りを中止し幕舎で弟たちと相談した。

司馬懿からの要求は「すべての権限を陛下にお返しすればとがめぬ」というものだった。

それは今曹爽兄弟の今の地位をすべて剥奪されるという意味である。

弟は拒否を示し「司馬懿と戦うべき」と進言した。

曹爽は「本気で言っているのか」と話し出す「司馬懿には二人の息子がいる。それだけでなく渭水で共に戦い続けた旧臣も多い。我らがどこかの土地へ移ったとしても寝首をかかれる恐れもあるのじゃ」

そこへ「兵士や小者たちの姿が見えませぬ」と報告が入る。

曹兄弟が外へ出ると狩り場の陣幕に人影がまったくない。残っているのは陛下をお守りする僅かの貴族だけであった。

 

曹爽は弟たちに「これでもまだ戦うと申すか。これでは許昌に行く前に皆殺しになってしまう。司馬懿は兵馬の権を陛下に返上せよと言ってきてるのだ。返上すれば我らは皇室の血を引く曹一族、手出しすまい。それにわれらには今までにためた巨万の富がある。司馬懿はもう年じゃからな」

「では時期が来るまでおとなしく言いなりになりますか」ということになった。

 

こうして曹爽は洛陽に引き返し。大将軍の印綬を返上した。

司馬懿は「曹爽殿、では屋敷で謹慎なされい」と命じた。

曹爽が退室するのを見て司馬懿の息子たちは「あの兄弟そのままお許しになるのですか」と訊ねる。

司馬懿は「いや」と答えた「今までにためた巨大な富、それに皇室の血を引くという立場から謀反を企もうと思えば充分できる。わしとてそう長生きはできまい。この機に禍の種は刈り取っておく」

曹爽兄弟の財産は没収され参謀たちもふくめことごとく処刑することにした。(あっさりだったあ)

今まで曹爽にないがしろにされていた魏帝はこれを喜び司馬懿を丞相に任じた。

こうして司馬一族の時代が訪れた。

 

その後、雍州の夏侯覇が曹爽の処置を不満として謀反を起こした。三千の兵を引き連れているという。

夏侯覇は曹爽の親類である。しかし三千の兵では何ができる、と司馬懿郭淮に出陣させた。

孔明の戦い鍛えられた郭淮の兵たちに夏侯覇軍はあっという間に蹴散らされた。

夏侯覇はかろうじて逃げ出したものの魏に住む土地はなくなり思案のすえ蜀の姜維のもとに走ったのだった。

 

この報を受け姜維は驚いた。夏侯覇は魏の曹一族なのだ。

うわー物凄い美形に描かれてる

「追い返しますか」という家来に姜維は「ともかく会ってみよう」と答えた。

 

夏侯覇は経緯を伝え「いまそれがしの心は司馬懿を討つことでいっぱいでございます」と言う。

姜維は「待て。蜀が魏を討たんとするは漢朝再興が目的じゃ。私怨ではない」と返す。

だが夏侯覇じゃ「司馬懿を討てるのなら蜀に忠誠を誓います」と跪いた。

これを見た姜維は「よしわしからも陛下にお願いしてみよう。だが魏に攻め入る時、そちが道案内をするのは承知であろうな」

「はっ喜んで」

こうして姜維夏侯覇を連れて成都に向かった。

 

劉禅夏侯覇を受け入れた。

姜維は「これも漢朝再興せよとの天意かもしれません。北伐の兵をお輿しとうございます」と申し上げる。

費褘はこの言葉を制した。「それはせっかちすぎるのでは」

「ここ十数年我が国は兵を鍛え国力も富みました。もう行動を起こしてもようございます」

費褘は蒋琬董允殿が相次いで亡くなり内政にこれという人物が出来ないことを案じ時期を待ちたいという。さらに諸葛丞相さえできなかったことが我らにできるわけがないと説いた。

姜維は丞相ができなかったのは魏の地理がよくわからなかったからだといい今夏侯覇殿がいるのならその苦労はなくなった。さらに自分は羌人をよく知っていて羌人と結んで助けを借りれば魏を討つことも可能だと説得した。

「陛下、なにとぞそれがしに軍勢を賜り北伐をお許しくださりませ」

これに劉禅は「よし出兵を許可いたす」とした。

「先帝のご遺志、必ずや果たしてみせまする」

姜維は急いで漢中に引き返した。蜀は再び動き出した。

 

姜維夏侯覇と協議し始める。

「羌人と手を組み我らは西平関より出て雍州に迫ろうとおもう。だがその前にこの麴山のふもとにふたつの城を築き守りを固めて我らの食糧を国境まで運び出す。

「はい、しかしこのあたりの山路は険しく、できるだけゆるゆると進まれた方がようございます」

こうしてまず麴山のふもとにふたつの城が築かれた。また羌人に出兵を促すため使者がとんだ。

この年の秋八月、準備整い蜀軍は動き出した。

まず句安・李歆の二大将が一万五千の兵をもって先発した。

そして句安には東の城、李歆には西の城を守らせた。

 

姜維の虚しい戦いが始まった。

姜維はもともと魏の人だったのになぜこうまで漢朝再興の使命を律儀に守ったのだろう。

さらにもともと玄徳の思いを孔明が引き継ぎ「大恩に報いるため」と言って命を縮めるほど働いた。

いわば玄徳の呪いのようにさえ思える。