ネタバレしますのでご注意を。
郭淮は「蜀軍が動き出した」という報告を受け司馬懿様に伝え自らは出陣した。
五万の兵を引き連れ姜維軍が造ったふたつの城を包囲した。
郭淮は城を眺め笑い出した。その城が高い地形の上に築かれていたからだ。「あれならば城門の水路もたいした水は流れていまい。我らが川上をせき止めてしまえば城はたちまち水に困るだろう。となると城外へ水を求めて出てくる。そこを叩くのだ」
魏軍はただちに川上をせき止めた。案の定城門の水路はたちまち干からびてしまった。
李歆自ら城外に水を求めて出た。
すると川上がせき止められているのを見つける。「魏軍が川を堰き止めていたか」と李歆はせき止めている石を取り除けと命じた。
が、命令に従って兵士たちが石を除き始めると矢が飛んできて兵士たちを襲う。
魏軍だった。「それっ皆殺しにしろ」と号令をかけ突進してきた。
「ぬうう蹴散らせ」李歆も応戦した。
東の城では西の城で戦闘が始まったとの報告が入った。
句安は出陣し西の城の加勢にと走った。
そこへ郭淮軍も襲い掛かってきた。
戦闘のなかで李歆は句安の城も水が止まったと聞き姜維将軍の援軍を急いでもらうよう駆け付けることにした。
だが敵の包囲を突破するのは容易ではなく味方の兵は次々と倒れ敵中を突破した時は李歆一人となっていた。
李歆は間道を三日間駆け抜けた。
ついに前方に姜維将軍の軍勢が見えた。彼は羌軍と合流しようと待っていたのだった。
李歆は二城とも水を断たれ五万の魏軍に包囲されていると告げそのまま倒れこんでしまった。
夏侯覇は魏軍五万といえば長安の城は殆ど空だと思うと言い「この際まっすぐ牛頭山に進めば雍州の背後に回ることになります。そこから長安に攻め入れば郭淮は慌てて引き返しましょう。そうなれば自然に二城の包囲は解けさらに将軍は雍州をも手にいれられまする」
姜維はこれに賛同した。
麴山の二城では城兵たちがしぶとく頑張っていた。
ここで郭淮と陳泰は姜維軍がまだ救援に来ないことに疑問を感じていた。姜維は羌軍と共に行動を起こす気ならばここよりは雍州攻略に向かうだろう。そして牛頭山を回り込み我らを背後から襲うに違いない。
ふたりは協議し郭淮は敵の糧道を断ち陳泰は牛頭山へと急行した。
姜維軍は牛頭山に到着した。
進もうとすると銅鑼の音が響き魏軍が現れた。崖上から大勢で矢を射かけてくる。
姜維は号令をかけたが今度は岩石や材木を落としてきた。たまらず姜維は引き揚げを命じる。
牛頭山のふもとに陣を構えた姜維は連日戦を挑むが魏軍の守りは固く勝負はつかなかった。
この時「郭淮が味方の糧道を断った」という報告がされた。
姜維は明朝洮水まで退き糧道を確保することにした。
魏軍はそれを見逃さず蜀軍に襲いかかる。なんとか防ぎながら洮水にたどりついたもののそこには郭淮軍が待ち受けていた。
蜀軍は前後に敵を受けて大苦戦となる。姜維はやむなく陽平関まで退くこととなった。
さらに前方に立ちはだかったのが司馬師軍だった。姜維は猛然と司馬師に突進し槍を跳ね飛ばした後将兵らもなぎ倒した。
逃げだした司馬師を見て「今のうちに陽平関に入れ」と命じた。
司馬師は振り向きながら「さすが姜維。凄い使い手だ」とつぶやく。が「将軍いかがいたします」と問う将に「わかり切ったことを問うな。追撃だ」と突進してきた。
姜維は「来たぞ。急げ。急いで入れ」と叫んでいる。
「連弩じゃ」
これは孔明が死ぬ直前姜維に伝えた「連弩」であった。一度に十本の矢が飛び出し矢じりには毒が塗ってあった。
司馬師軍は今まで体験したことのない弓矢に驚愕した。
あっという間に大半の兵を失ってしまったのだ。「いかん退けっ退けっ」
司馬師と魏軍は命からがら逃げだした。
一方麴山の城に立てこもっていた句安は援軍がこないため、ついに城門を開いて降伏した。
夏侯覇は姜維に我が軍も数万の兵を失いました。ここは一時引き揚げて軍を立て直した方が良いと思われまする、と進言する。
姜維はやむを得ず漢中に兵を引き揚げた。
蜀軍の引き揚げを見て司馬師もまた洛陽に引き揚げた。
その頃司馬懿仲達は本当の病気にかかっていた。
息子の師・昭を呼び「わしもどうやら寿命がきたようだ」と告げる。そして遺言と思って聞けと話し出した。「わしは用心深く生きてきた。孔明との戦いでも必要以上に用心深かった。それが結果的には孔明の挑発に乗らず侵略を防ぎ切った。
わしはお前達に言い残しておきたい。権力をてにするとそれを妬む者も出てくる。くれぐれも慎重に生きよ」
そしてしみじみと言った。
それから間もなく仲達は静かに息を引き取った。
魏帝・曹芳は仲達を手厚く葬り司馬師を大将軍にそして昭を驃騎上将軍とした。司馬兄弟の権力は揺るぎないものとなっていた。
後に昭の子司馬炎が魏に変わって新国家晋を造っていく。
それから二年後新年の宴会の席で費褘が突然魏の降将郭循に刺殺されたのである。
玄徳・孔明の遺志を継ぎ漢朝再興を考えていた者は蒋琬・費褘・そして姜維の三人だったと言っていい。そのふたりを失い今や蜀の運命は姜維ひとりの双肩にかかった。
その年姜維は再び北伐の兵を興した。だが戦は一進一退。延熙十六年鉄籠山へ出兵。十八年狄道へ出兵(この年司馬師死亡)
十九年祁山へ出兵、二十年駱谷と戦い続けた。
だが孔明をしても北伐を果たせなかったのである。姜維ひとりではしょせん無理な話であった。それだけ蜀は人材に乏しかったといえる。
時に蜀は景燿六年(西暦263)を炎興元年と改めた。成都には厭戦気分が広まり劉禅は日夜酒と女の生活を送っていた。
魏では「劉禅日夜酒浸り」の報がなされた。司馬昭は「ついに時は来た」と言い「蜀を討つのはこの時だ」と鄧艾・鍾会に出兵を命じた。
数十万の兵を与え漢中へ進撃させた。
この頃姜維は沓中にあった。
すぐに劉禅に表文を出した。
成都で姜維の表文を受け取った劉禅は驚いた。だが側にいた宦官の黄皓が「それは姜維の作り事でしょう」と言い出した。「姜維はここしばらく手柄を立てておらず夏侯覇も失っています。おそらく何か手柄を立てたくて申しているのでしょう」と言い吉凶を占う巫女に占いを立てさせましょうと申し上げた。
(正しくはある)
巫女が呼ばれ劉禅は跪いて占いを待った。
巫女に西川の産土神が乗り移り「数年のうちには魏は蜀の領土となろう。決して思い煩うには及びませぬ」と言うと気絶した。
姜維は何度となく使者を成都に送った。だが成都からは何の連絡もなかった。
その間に魏の大軍は漢中になだれ込んだ。陽平関はあっという間に落とされ漢中は魏の手に落ちた。
漢中が落ちると楽城の王含、漢城の蒋斌などは城を明け渡して降伏した。
この報は姜維に届いた。姜維は漢中を取り戻そうと兵を率いて漢中に向かった。
だが沓中もすでに魏の大軍の包囲を受けていた。
姜維は漢中を奪い返すどころではなくなった。
敵の包囲を突破するだけで精一杯であった。
駆けていく姜維は張翼に出会った。姜維は陛下がなぜ出兵されないのかと問うた。張翼は巫女の言葉「魏は蜀の領土となる」を信じて何もなされないと答える。
張翼は漢中が落ち姜維も危ないと聞いて駆けつけてきたのだという。
この角度かっこよすぎんよ
「これからどうなされます」という張翼の言葉に姜維は口ごもりながらも「よし剣閣に行こう。あそこを落とされたら蜀の運命も決まる」
姜維と張翼軍は剣閣に向かった。途中で駆け付けてきた廖化軍もそれに合流した。
今や蜀を守れるかは剣閣を守れるかどうかにかかっていた。
剣閣はそそり立つ断崖絶壁に守られた要害である。
そして道には崖崩れで落ちた巨石が転がり大軍でもって一気に進めぬようになっていた。二十万の魏軍はここに殺到した。ここを落とせば蜀を落としたも同然である。
思ったより険しい剣閣を見て魏軍はたじろぐがこれだけの軍勢で押しまくればそう長くはもつまいと攻撃をかけた。
崖上でこれを見ていた姜維は敵を引き付けて岩石を落とした。魏兵たちがつぶれていく。
「ええい怯むな。登れ登れ」と号令がかけられ魏兵たちは登っていくが今度は材木が落とされ魏兵たちは大量に死んでいった。
やむなく魏軍は引き揚げを命じるしかない。
しかし逃げゆく魏軍に姜維は連弩を用いた。魏軍は矢の届かぬところまで退くしかなかった。
それから魏軍は何度となく攻撃を繰り返した。
がまたも岩石を投じられただ犠牲を増やすだけであった。
魏陣では鄧艾・鍾会が協議していた。
鄧艾はこのままでは犠牲者が増えるばかり。陰平から攻め入ってはいかがかと提案する。しかし陰平の道は険阻な山々とても進めるものではないと鍾会は反対した。
鍾会はあくまでも大軍の数で攻めまくるという。
「ならば」と鄧艾は「それがしに陰平から攻めることをお許し願いたい」と申し出た。
鍾会は「陰平から先は食糧も満足に運べない道じゃ。兵士が飢死する」と言っても鄧艾の覚悟は変わらなかった。
鄧艾は剣閣は落ちぬと見ていたのだ。
二将は別々の方法を取ることとなった。
噂にたがわず陰平からの道は言語を絶する険しい地形であった。
兵士は鎧を脱いで崖を登り橋を作り山を切り崩して進んだ。通れぬ場所には崖に穴を開け桟道を作った。その間崖から落ちる者は数知れなかった。
また食事も満足に得られなかった。だが魏軍は歯を食いしばって前進した。
兵士が鄧艾に報告した。「お礼状は進めませぬ・この先はそそり立つ断崖にございます」
鄧艾は断崖を見て唸った。
「もはや食糧もほとんどない。だがこの崖を越せば蜀の江油城は目の前。そこは守りも薄く食糧もたっぷりある。飢死覚悟で引き返すか、それとも江油城を奪い成都になだれ込むかじゃ」
「しかしどうやって向こうの崖にわたりまするか」
「縄をつなぎ合わせて崖を降りそしてまたあの崖をよじ登るのじゃ」
兵士たちは縄をつなぎ合わせ崖を降りていった。
そして向こうの崖をまたよじ登っていったのだ。
江油城では「魏軍が城壁をよじ登り侵入しました」という騒ぎになった。魏軍は剣閣で姜維と戦っていると思い込んでいた太守は驚愕する。
鄧艾は「おとなしく城を明け渡すか。皆殺しか」と問う。
太守はいとも簡単に城を明け渡した。蜀に厭戦気分の強かったことも原因していた。
これから鄧艾の破竹の進撃が始まった。涪城も魏軍の出現に驚きあっという間に降伏した。
鄧艾はさらに綿竹へ進んだ。
ここには諸葛孔明の子諸葛瞻が守っていた。さすがに諸葛瞻は良く守った。だがここも両軍の士気が大きく左右した。魏軍は敵国の中で死に物狂いで戦い蜀軍は厭戦気分にある。その差がはっきり戦に現れた。
諸葛瞻とその子尚は討死。綿竹も鄧艾の手に落ちたのである。
成都では魏軍の進撃の報が次々となされ劉禅はどうすればよいのじゃと怯えていた。
臣下たちは次々と案を出すが劉禅の思いは「戦いたくない」という一点だった。
そこで「魏に降伏すれば陛下は大名として領地を分けてもらえましょう。人民も戦果をまぬがれ安心しましょう」という提案に劉禅は賛同した。
しかしそこに「それはなりませぬ」と言い放つ者がいた。第五子の劉諶であった。
「父上、降伏して天子が名乗れましょうか。それに我が蜀の精鋭はまだ剣閣で健在にございます。ここで頑張れば剣閣の精鋭が駆け付けましょう。内外から攻めれば勝利はこちらにございます」
劉禅は「勝てるわけがない」と怒鳴り返した。
が劉諶は「運尽きて敗れましても潔く戦って死ぬならば陛下の先帝(玄徳)も許してくださりましょう」
「黙れ、そちのようなこわっぱに天の時がわかるか」
「父上、この国を皆がどれほど苦労して造ったかお考えくだされ。多くの将兵たちが詩をかけて築いたものでございます。それを」
それでは国のためにしんでいった将兵があまりにも哀れでありまする。なにとぞ最後の一兵まで」
しかし劉禅は「ええい目障りじゃ」と第五子劉諶を追い出した。
劉諶は家に戻り父上が降伏を決められたと妻に話した。
「だがわしは降伏はせぬ。死んで先帝にお目にかかりお詫びする」と言った。妻もまた「わらわもお供します」と言い子供たちを呼び両親が自害することを話した。
子どもたちもお供したいと言い劉諶の一家は次々と命を断っていった。
その頃剣閣ではまだ激しい戦が続いていた。
姜維の戦意は失われていない。剣閣に立てこもる蜀の精鋭はさすがに強く魏の大軍に一歩も譲らなかった。
そこへ軍使が訪れた。
劉禅皇帝の使者であった。
「勅使でござる」姜維たちは謹んで迎えた。「勅命。成都はすでに魏に降伏いたした。剣閣に立てこもる諸将も武器をすて魏に降ることを命じる」
「馬鹿なことを」という姜維に勅使は「鄧艾率いる別の魏軍が陰平より成都に侵入いたした」と告げる。「諸葛瞻父子は討死。劉諶殿下は自害。もしここでいたずらに抵抗すれば陛下およびその一族に害が及ぶ。すみやかに武器を捨てなされ」
姜維は勅書を確かめた。勅使は「早々に魏軍に降りたまえ。勅命に逆らうと反逆罪となりますぞ」と伝え去っていった。
姜維から勅命を聞いた兵士たちは嘆き「我らだけでも戦えまする」と叫んだが「それはならぬ」と姜維は命じた。
しかし「こんなバカなことが会っていいのか」と兵士たちは泣きながら剣を岩に叩きつけた。
翌日蜀軍は武器を捨てて魏軍に降った。
定軍山に眠る諸葛孔明はそれをどのような気持ちで眺めていただろう。
劉禅は洛陽に参内し安楽公に封じられた。
だが国を滅ぼす元となった宦官の黄皓は打ち首となった。
洛陽にて劉禅は再び穏やかで楽しい生活を続けていた。
宴席で「どうじゃな蜀が恋しいと思いませぬか」と言う問いかけに劉禅は「いやいや、ここは楽しい。蜀が恋しいとは思いませぬ」と答える。
この言葉に劉禅の家来も魏の将もさすがに唖然とした。
「ハハハ楽しいのう。泰平に乾杯」
劉禅の家来はそっと近寄って「あのような質問をされた時はもう少し悲しそうな顔をしてくだされ」と申し上げた。
劉禅は安楽公として魏から捨て扶持をもらい何の野心も抱かず六十五歳までのんびり暮らしたという。
ここに諸葛亮孔明の考えた国を三つに分け力の均衡をはかり国を成り立たせるという「天下三分の計」はもろくも崩れ去った。
全知全能を使って国造りに励んだ英雄たちの夢も消えた。あとに聞こえてくるのは新しい王朝の足音であった。
完
終わりました三国志。
結局なにも残らなかったという悲しみだけがあります。
横山光輝氏はもちろん英雄たちの魂と共に描かれているのでこの最期の悲しみは胸に迫ります。
特に姜維のまだ戦えるという中で無理やりに武器を取り上げられた無念さは筆舌に尽くしがたいものです。
とはいえ、現在に生きる我が身。輝かしい英雄たちに憧れながらもどうしても劉禅に共感してしまうのです。
劉禅が戦争を放棄したことは最善の決断だったとしか思えません。
作品でせめてもの慰めと描かれる第五子一家の悲劇こそ虚しいものに感じられます。子どもたちだけは道連れにしてほしくなかった。
ともあれこの偉大なマンガ作品を自分なりに写し取ったのは少しでも記憶に残したかった一念でありました。
すでに前の記憶は薄れつつありますがw
さてもう一度読み直したいと言い出したいところですが、横山光輝マンガ沼にはまったばかり。次からは氏の別作品を読んでいきもう少し間を置いてからの再読になることでしょう。今から楽しみです。