ガエル記

散策

『三国志』再び 横山光輝 五十三巻

 

ネタバレします。

 

趙雲が殿を務めたと聞きその帰りが遅いのを案じていた孔明は到着の報を受けて喜び迎えた。

黄金と絹を贈ると言う孔明趙雲は「やがて冬ともなればなにかと物不自由になりまする。諸軍勢に少しずつでも分かち与えてほしい」という。これを聞いて孔明は今は亡き玄徳が趙雲を厚く重用していたことを今あらたに思い出した。

 

そして同時に馬謖の罪もおだやかにはすまされないと感じたのである。

 

司馬懿は「孔明はその高い智謀に対して人を観る目がない」と言った。人を観る目、とまでは言えないかもだが(そうなのだろうか。たとえば荊州関羽に任せたのは孔明だった。趙雲だったらとよく思う)今回の北伐で最も重要だったはずの「街亭の守り」を馬謖にしてしまったのは孔明である。王平の怒りはもっともだ。なぜそれほど馬謖を信用してしまったんだろう。趙雲魏延ではいけなかったのか。

やはり孔明馬謖に対して特別な愛情もしくは贔屓があったのだろう。そしてその感情を受け止めていた馬謖の思い上がりがあった。

と、横山光輝氏は描いているように思う。(つまり史実は知らないが本作横山『三国志』ではそう描かれていると思う)

この馬謖の甘えるような表情の描き方に横山氏の馬謖評があると思える。

街亭で王平を罵った馬謖とは別人のようだ。

馬謖はあえて孔明の命令に反しても許してもらえるし自分の考えが孔明よりうまくいって褒めてもらえる、と思ったのかもしれない。

孔明馬謖の首を斬るという過剰な刑を与えたのは他の者へとは違う感情があったからなのではないだろうか。

そのことはこの作品で孔明自身が明言している。

孔明がかわいそうでならない。

 

孔明は斬り落とされた馬謖の首を見て泣き崩れその遺族は孔明の保護によって不自由なき生活を約束された。

 

魏では曹叡が洛陽へと戻り司馬懿は蜀討伐を取り止め国境の守りを固めて国力の充実を図ることとした。

 

孔明は丞相の位を辞し右将軍として三軍を指揮することとなった。そして数に頼らず軍律を厳しくして将兵を錬磨し真の精鋭を作ることにした。

 

これを聞いた魏帝曹叡は魏の危機を案じる。重臣たちは今こそ蜀を討伐すべきと騒ぐが司馬懿はこれを止めて陳倉に頑丈な城を築くべきと進言した。

かくして魏は陳倉に城を築き郝昭に守らせた。

 

さてここからしばらく呉と魏の物語となる。なにしろ『三国志』だから。

鄱陽の太守周魴が魏に寝返ったのだ。

これは呉による計略だった。

魏の曹休周魴に対して「信頼できぬと申す者をいる」と言うと周魴は髪を切って決意を見せる。

現在の感覚では「髪の毛を切る」ことに意味は殆どないに等しいが儒教の世界では親に与えられた髪を切ることは「死にも匹敵すること」だったのだろうと考えながら読む。

こうして周魴曹休を動かした。

賈逵が周魴を怪しみ曹休を援護し司馬懿曹休軍が撤退したと聞いて引き揚げたが呉軍は魏の軍需品降伏の兵五、六万を戦果としたのである。

 

同盟国である呉が魏に大勝したと報告を受け孔明は蜀帝から賜られた酒で祝宴を開いた。

そこへ病に伏せっていた趙雲の逝去が息子たちによって伝えられる。

五虎大将軍の最後のひとり趙雲が去っていったのだ。

 

孔明は蜀帝に後出師の表を奏上した。

劉禅はこれを許可。

孔明は四十八歳。再び出陣した。

司馬懿の読み通り蜀軍は陳倉へと向かう。

 

魏帝は曹真を出陣させる。

 

 

孔明の陳倉城攻撃ははかどらなかった。

衝車・雲梯・井蘭など様々な戦車が意味をなさず城内に続く坑道を掘っても水を流しこまれてしまう。そこへ曹真軍の先鋒隊が到着し孔明軍はいっそう難しい局面に入り込んでいく。

そこで孔明に声をかけたのが若き姜維だった。

姜維孔明に「この陳倉城にこだわりすぎるのではありませぬか」と呼びかける。

「離」こそが大事ではないかというのである。

いそぎ魏延らに指示を与え自らは再び祁山に出向いた。

 

曹真は孔明の行動を笑った。「もう往年の力はないとみえる」

そこへ姜維から蜀軍の食糧を焼き払うという手紙が舞い込む。その代わりに魏に戻りたいというのである。

魏の将費耀はこれに疑念を感じて蜀軍を追い夕刻陣を張った。

 

この様子を眺めていたのが孔明である。

 

馬謖はいなくなったけど姜維がいるんだよなあ。