ガエル記

散策

『三国志』横山光輝 第五十四巻 その2ー王双を討つー

ネタバレしますのでご注意を。

 

魏延は使者から本軍は漢中に引き揚げたと聞き疑問を口にした。

我が軍勝利を重ね魏軍は青くなって陣に閉じこもっているからだ。

使者は「原因は食糧にございます」と答える。そして孔明から預けられた撤退のお指図を手渡した。

それを見た魏延は「わかった。すぐに撤退しよう」と答え陣中に命じたのだった。

 

一方王双陣に魏延の撤退の報が告げられる。

「優勢の蜀軍が何故」と王双も信じられないでいる。

が使者が間違いなく繰り返したために王双は「この機を逃してはならぬ。追撃だ」と出陣太鼓を鳴らさせた。

王双は馬にまたがり走り出すと前方に去っていく軍勢が見えた。

「いたぞあれだ」と全速力で追いかけだす。

歩兵たちはとても追いつけず倒れこんでしまった。

と後方をみると自分らの陣が燃えている。

兵士は駆け抜けていった王双将軍を必死で呼び止める。

喘ぎながら「て敵はまだ後方に・・・いるようです」「陣が・・・我が陣が燃えています」

王双は驚き後方を見やると確かに火の手が見える。「しまった引き返せ」と戻ろうとするところに一騎が駆け付けてきた。

「誰か?」と問う王双に「蜀の魏延」と答えるやいきなり槍を振り下ろし王双を切り裂いた。

「さて次は誰かな」

「だ、だまれ」「て、敵は一人だ」という魏軍に魏延はにやりと笑い「そうかな」と手をかざした。

銅鑼が鳴り響き「わああ」という掛け声が響いた。

「伏兵だ」と魏軍は慌てて逃げ出した。

魏延は笑い「もうよかろう」ともう一度手を振ると岩陰から出てきた兵士は三十名ほどだった。

「ふふふ。王曹軍もわずかこれだけの兵で空になった陣に火を放ちそして帰りを待ち受けていたとは思わないだろう」

こうして魏延は一人の死者も出さず悠々と漢中へ引き揚げた。もちろんこれは孔明の策であったことはいうまでもない。

 

魏の本陣にいる曹真に「王双が斬られた」という報が入った。「魏延の一刀のもとに」

うわ完全に壊れとる。

曹真は「うーん」と唸るとドタと倒れてしまった。周囲にいた者はすぐ医者を呼び曹真を床に寝かせた。

医師は薬湯を飲ませ安静にと告げて陣幕を出た。

外で待っていた将たちに「ご心労が重なっての発病と思われまする」と伝えた。

 

曹真は三人の将を呼び「蜀軍も引き揚げた故余も洛陽に引き返して養生しようと思う」と告げた。「後の守りはそち達に頼む」

 

こうして曹真もまた洛陽に引き返した。

 

蜀と魏の戦いが長引き両国の力が消耗していたのをひそかに喜んでいたのは呉であった。

(三国、というのはそういうことなのだよなあ)

(なんとなく呉はいつも得をしている気がするのだけど・・・結局は結局なのだから歴史はわからない)

その間に呉は着々と力を蓄え国力は日を追って兄弟なものとなっていった。

黄武八年(西暦229年)孫権は年号を黄龍元年に改め魏や蜀にならって皇帝を名乗ったのである。そしてこれを国際的にも承認させるために蜀に特使を送った。

これを聞いた蜀皇帝・劉禅は家臣たちと話し合うため返事は後日とした。

 

家臣たちは口をそろえ「陛下は漢朝の血を引くお家柄ですが孫権は家臣の分際、皇帝を名乗るのはもってのほか」「魏もまた漢朝を滅ぼしたにっくき敵だからです。我らの目的は天下統一、漢朝の再興です。ここで皇帝を認めては筋がとおりません」

(確かにその通りだ)

しかしここで声が上がり「待たれい。これは孔明殿に相談したほうがようござる」

劉禅は「そうであった」と陳震に漢中へ向かわせた。

 

横向き座り。珍しいのでは。ややぞんざいなかんじする。

孫権が皇帝を名乗り天下を蜀呉で分けようと申して参りました」という使者のことばを聞き孔明はふむうと考えた末「やむを得ん。認めることだな」と答えた。

「今は蜀呉が手を結び両国の共栄を考えねばなるまい」

 

戻ってきた陳震から孔明の考えを聞いた劉禅は「たしかに」と賛同した。

陳震はさらに「陸遜に魏国討伐の軍を起こし魏軍の力を分散させるように頼み込め。おそらく魏は司馬懿仲達に命じて防がせるに違いない。司馬懿が南下して呉と戦えば孔明は再び祁山に出て長安を奪うと申されました」

劉禅はそれを聞き陳震に祝賀の使者として呉に向かうよう命じた。

 

陳震は財宝を携え呉に向かった。孫権に謁見し祝賀を申し上げ礼物を届けた。

孫権は喜び酒宴を開いた。

陳震は目的であった魏への出兵をお願いした。孫権は呉蜀共栄のためにも必要だ、として陸遜を呼び相談すると聞き入れた。

後日孫権陸遜を呼び相談をした。陸遜は「約束は守らねばなりません、が、多くは蜀に働かせ呉はもっぱら隙を伺いいよいよという時に孔明より先に洛陽に入るのが最上でしょう」

孫権も年を取りましたなあ。


漢中にて。

孔明は「陳倉の郝昭が重病」という報を受ける。

「ならば陳倉を落とすのは今しかない」といそぎ魏延姜維を呼んだ。

ふたりはそろって現れた。

孔明は「五千の兵を引き連れ陳倉を攻めよ」と命じる。

良い感じのコンビである。

孔明は「三日のうちに支度を整え早々に向かえ」と続けた。

魏延は「よく命令の意味が解らん」と言い姜維も「しかし命令ならば攻めるより仕方ありますまい」と外へ出た。

続いて孔明関興張苞を呼び計略を伝えた。

一方長安郭淮にも「郝昭重傷」の知らせが届き張郃に陳倉へ向かうよう命じた。これを聞き孔明が動き出すと案じたのだ。

 

陳倉では重病の郝昭に「蜀の魏延姜維が五千の兵を率いて二日後に到着する模様」という報告がされる。

軍勢がたった五千と聞いて郝昭は「それくらいなら病床でも指揮はとれる」と決意した。

が、その夜蜀の間者が潜入しあちこちに火をつけて開門したところで蜀軍がなだれ込んできたと言う騒動が起きる。

郝昭は到着は二日後と報告されていたため驚き慌てて他人の肩を借りて起き上がった。

外を見ると蜀軍が溢れているのを見、郝昭は「うぐぐぐ」と呻いて倒れこんでしまった。そしてそのまま息を引き取ってしまったのだ。

それを見た兵士たちは「もうだめだ」と逃げ惑った。

城前には孔明がいつもの四輪車に乗って待ち構えていた。

敵を追い散らしたという将の報告を受け「敵将郝昭はいかがした」と問うと「血を吐いて死んでいました」孔明はその場に向かう。

遺体を見て孔明は「惜しい人物だった」と言い「敵ながらその忠魂は見上げたもの。死すとも朽ちさせるものではない。手厚く弔え」と命じたのだった。

 

二日後、魏延姜維は五千の兵を引き連れ陳倉に到着した。

が城の様子がおかしい。

姜維かわいい。

そんなこと言っても~~~

「もうこの城は落ちたわ。安心して入るが良い」

 

「これはどういうことなのか。我らにはよくわかりませぬ」

「三日で支度して二人に陳倉へ向かえ、と伝えたのは敵の間者にの目をそち達に向けるためじゃ」と孔明は説明した。「それらは郝昭に伝えられるからな。その間にわしは関興張苞を引き連れ間道を通って陳倉についたのだ」

そして孔明魏延姜維に「すぐにこの先の散関を落としてもらいたい」と命じた。「ここが落ちたと伝われば次は散関が固められてしまうだろう」

 

散関の城には大した兵力が置かれていなかった。陳倉の守りが固いためである。

そのため散関の兵たちは陳倉が落ち蜀軍が向かってくると聞いて慌てて逃げ出したのである。

魏延姜維はやすやすと散関を手に入れてしまった。

が、すぐさま魏軍が押し寄せてきた、との報が入る。

見やるとたしかに張郃の旗が翻る軍勢が押し寄せてきていた。

魏延はすぐに周りを固めさせた。

 

張郃の軍も到着した散関の城に蜀の旗が翻っているのを見て驚いていた。

率いてきたのは三千の兵のみ。張郃はそのまますぐ引き返した。

魏延はそれを見て追撃をかけた。

戦は追われる方が不利になる。そのため撤退の仕方が難しいのだが案の定張郃軍は手痛い打撃を受け大勢の死者を出し這う這うの体で長安へ逃げ帰った。

孔明のもとに魏延姜維が散関の周りを固めたという報がはいる。

孔明は「皆の者機は熟した。これより総兵力をあげ斜谷を進み建威を攻め取って祁山へ向かう」とした。

 

言葉通り蜀軍は進み祁山へ向かった。孔明にとって三度目の祁山である。

「わしの考えでは魏は我が軍が雍城・郿城を狙うと考えそこを固めるに違いない。それゆえわしは敵の裏をかき陰平・武都のふたつの城を攻め落とす。誰か陰平武都を攻める者はおらぬか」

この求めに姜維王平が答えた。

孔明はそれぞれに一万の兵をあずける。

 

長安には「陳倉・散関が落ち郝昭が死んだ」の報が入る。郭淮張郃長安を守らせ、雍城を孫礼、郿城は自ら出向くと命じる。

さらに事態の重大性を洛陽に伝えて至急援軍を請うのだと命じた。

 

長安からの急使は連日洛陽に駆け込んだ。洛陽は騒然となった。

というのは呉の陸遜が武昌に大軍を集結させ魏を伺うそぶりを見せていたからである。

曹叡は「皆の者、孔明がまたも祁山に現れた。呉もまたこの魏を伺うという。蜀一国でも手こずっているのにどうすればいいのじゃ」

これに答えきれる者はいない。司馬懿に相談することとなる。

陛下の要請に司馬懿は参上することとなった。

あたふたとする曹叡司馬懿は超然と答える。

「迷われるほどのことではございませぬ。呉軍の集結は蜀との条約のためであって動く気はございませぬ。ゆえにまずは蜀に全力を注ぎその後呉を始末すべきと考えまする」

曹叡は迷ったことを恥ずかしく思い司馬懿を大都督に封じ「全軍総司令の総兵の印を授ける」と告げたのだった。

司馬懿は「大都督と総兵の印は御一族の曹真様が授かったもの。それはお受けできませぬ」

曹叡は「曹真は病気で動けない。他に誰がいると言うのじゃ」と言い「よし勅命をもって曹真に総兵の印を返させよう」とまで言い切った。

これには司馬懿「勅命で総兵の印を取り上げられては曹真様の面子がありませぬ。それがしが自ら頂戴してまいります」と申し上げた。

 

司馬懿仲達は曹真の病床へ参った。

曹真は「そちが訪ねてきたのは病気見舞いだけではあるまい」

司馬懿は呉が大軍を集結させて洛陽を伺う素振りを見せ孔明が陳倉を落とし祁山に進出したと報告した。今や我が国は呉に洛陽を、蜀に長安を狙われてございます、と。

曹真は魏の危機を知った。

自ら立ち上がり総兵の印を携えて仲達の前に差し出した。

「この総兵の印をそなたに預ける」

驚く仲達に「わしは孔明と何度も戦ったが一度として勝ったことがない。とてもわしの歯の立つ相手ではない」

なおも司馬懿は辞退したが曹真は「才ある者が国を救う。身分の上下を論じている時ではあるまい。さあ受け取れ」と印を渡した。

 

司馬懿は最初からこの大任を引き受ける気持ちがあった。しかし一度重臣の讒言で謀反人扱いされた。重臣たちの非難や妬みを考え固辞し続けたのである。

 

仲達は直ちに将兵を召集し、祁山へ向かった。

兵力は無傷の精鋭十万。

仲達は孔明と正面切って対峙するのは初めて。以前は陽平関まで追ったものの孔明がひとり琴を弾いているのを見て伏兵ありと考え引き下がったのだ。

「だが今度は堂々と正面からの知恵比べじゃ。わしが勝つか、孔明が勝つか」

祁山に到着し仲達は孔明が三か所に陣を構えているのを見やった。

仲達は疑問を感じていた。孔明は即戦即決を望んでいるはず、なにの守りを固めて動こうとしない。「なぜ孔明が動かないのか探ってみよう」

 

今ここに魏の名将司馬懿仲達と諸葛亮孔明の知恵比べが始まった。建興七年四月祁山夏の陣である。

 

うわあああ、恐ろしすぎるし期待しまくる。

なんだろうこの恐怖。

デビルマン軍団とデーモン軍団みたいな。