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『史記』横山光輝 ⑨ 再読 第3話「劉邦亭長」第4話「馬と鹿」

やっぱりどうしても劉備玄徳のご先祖様と思いながら読んじゃうよねえ。

そっくり、そっくりだから。

 

ネタバレします。

 

最初から面白い。そろそろ三十歳なのに家業の農業は大嫌いで酒と女が大好き。

ん、いや玄徳はそこまではなかったかも。さすがご先祖様だ。

父親にどやされて仕方なく亭長となる。宿場の役人で階級としては最下位であった。

しかし勤めはいい加減で相も変わらず女と酒の毎日であった。

ところが仕事に落ち度があっても周りの人々が庇ってくれる。劉邦は男にも女にも好かれるところがあった。

この「誰からも好かれてしまう」という特技を持って劉邦は乱世を駆け上がっていく。

 

ご祝儀を包むための金などないのにお偉方の宴会に入り込み一万銭の席を求めて座ってしまう。

劉邦のファン(男)たちは亭長がどうなるかハラハラしながら観ているという具合。

が、その宴会を開いた呂公は一目見て劉邦が吉相をしているとすっかり気に入りなんと娘を嫁にもらってほしいと言い出す。

この娘が後に悪名高い呂后と呼ばれる呂血雉である。

しかし呂公の人相観は本物だったのは確かだろう。娘が幸せになれたかは別として。

 

さてその後、呂雉は貧しい農家に嫁ぎ(入り婿したんじゃないのか)よく働き劉邦は相変わらずのんきに暮らした。

 

さて亭長としての劉邦は囚人を驪山に届けよという命令が下る。土木工事をさせるためだ。期日までに到着しないと死刑という規則がある。

ところが劉邦が囚人を伴って旅をしていると途中で一人逃げ二人逃げるという有様でついには十人もいなくなっていた。

あきれた劉邦は「いいや、お前らも逃げろ」と言い出す。

「亭長様は?」と問われ「俺も逃げる」と答える。「どうせ駆り出されたものは生きては帰れない。おれも囚人に逃げられた罪で死刑だ」

ところが逃げ出さない者たちがいた。どうせ行く所もないから劉邦についていく、というのだ。

こうして十数人は劉邦に付き従って進んでいると大蛇がとぐろを巻いているのに出くわす。怖ろしがる男たちを尻目にその時も酒に酔っていた劉邦はあっさりと叩き切ってしまった。

酔った劉邦が眠ってしまうと男たちも休憩しようとして見ると一人の老婆がしくしくと泣いている。

男たちが問うと「せがれは白帝の子で大蛇に化けて道をふさいでいたら赤帝の子が現れ斬り殺されたのじゃ」と答えふっと消えてしまったのである。

劉邦達一行は険しい山岳地帯に身を隠した。

だが大蛇の話が広まると劉邦の家来になりたいという者が続々と集まってきたのだ。

 

こんな時に陳勝が反乱を起こし各地の反秦勢力が呼応したのである。

 

さて沛県では県令が部下を集め話し合っていた。

反乱軍が次々と郡や県を落としている。ここにも攻めてくるだろう。我らも反秦の旗を上げようか。

これに部下たちは県令様は秦の役人なので沛県の人々がすぐに従いはしないでしょう。誰かを立てて睨みを聞かせればいいのですが。

ここで名が挙がったのが劉邦だった。

県令は大ぼら吹きの亭長にそれほどの人気があると聞いてあきれるが背に腹は代えられんと劉邦を呼ぶことにした。

ここで名乗り上げたのが樊噲である。

樊噲は呂雉の妹を娶っていたので劉邦とは親戚だった。

 

樊噲は山の中に潜んでいる劉邦を訪ね経緯を話して子分を連れて沛県へ戻った。

 

ところがこの間に県令の気が変わってしまったのだ。

やはりあの大ぼら吹きを立てるのが不安になってきたのだ。子分たちも逃げた囚人で今野盗のようなことをしていると聞く、として城門を閉めて仲間である蕭何と曹参は殺せと命じた。

これを聞いた蕭何、曹参は身を隠す。

 

沛県についた劉邦一行は城門が閉じられ中に入れないでいた。

夜になり、城門の前で野営することにした劉邦たちの前に蕭何曹参が現れた。

そして県令の気が変わったことを話す。山に戻ろうとする劉邦にふたりは城内の者に県令を討たせ門を開けさせるのだ、と言い出す。

劉邦たちは矢文で城内の者らに事の次第を伝えた。

このままでは反秦軍がやってきてこの城は落とされてしまう。早く県令を殺ししかるべき指導者を立て諸国の反秦軍に呼応すべきだ。

さもなければ沛の人々は反秦軍に皆殺しにされる。

この矢文は長老に渡り長老は若者たちを集め県令を襲ったのである。

若者たちは県令の首を城門の上から放り投げた。

そして城門を開け劉邦らを城内に入れた。

 

そして指導者を立てることになった。誰もなりたがりはしない。

やむなく劉邦は皆に担がれ沛公(県知事)となったのである。

そこに楚の項量が楚王の子孫を王として国を興したという報が入る。

それで各地に潜んでいた楚の将兵が続々と楚に集結しているという。

劉邦も三千の兵を集め赤い旗をなびかせ(赤帝の子なので)沛県を発進した。この時劉邦、四十歳だった。

 

途中蜂起郡に加わろうと百騎また百騎と劉邦軍に合流してきた。

始皇帝を暗殺しようと馬車を襲った張良もこの時現れたのだ。

飲んだくれで女好きの劉邦が天下人になる最初の出陣だった。

 

 

農民陳勝の叛乱がきっかけとなり天下は大乱となる。

燕、趙、斉、楚、韓、魏ではそれぞれ王を立てて独立し始めた。

 

だが二世皇帝胡亥はそんなことにはおかまいなしで後宮に入りびたり遊ぶ毎日だった。

宦官趙高がそうするよう差し向けたのだ。

趙高は若い胡亥が朝廷に出ると諸大臣から軽んじられると言って姿を見せないように進言した。すべての上奏文が趙高の手に渡るようにしたのである。

これに心を痛めたのが李斯である。

李斯は今もなお生真面目に政治を考えていたが趙高にとって目の上の瘤であった。

趙高は生真面目な李斯と自堕落な胡亥が話し合うことができないように取り計らっていく。そして李斯がやむなく上奏文で趙高への不満を書き綴ると趙高を信頼しきっている胡亥はそれを趙高に告げついに李斯は謀反を企んだとして投獄し拷問の末腰斬の刑に処せられたのである。

一族も皆殺しとなった。

趙高は李斯の後を継ぎ丞相となる。しかし趙高の野心は留まらず秦帝国乗っ取りを狙っていたのだ。

だがそれにはまず誰が敵か味方かを確かめる必要がある。それを確かめる方法が

「馬か鹿か」だった。

ある日、趙高は胡亥と大臣たちが居並ぶ場に「みごとな馬を見つけました」と告げ鹿を連れてこさせる。

胡亥が呆れて「これは鹿ではないか」というが趙高は「いいえ、これは馬です」と答え側にいる者に「そなたにはどう見える」と尋ねた。

その男は「それは鹿です」と答える。

趙高が別の者にも問うと「う、馬でございます」と答えた。

また「馬にも見えますし鹿にも見えまする」という者もいた。

「馬です」「鹿です」

「面白い余興でございましたでしょう」と趙高が胡亥に申し上げると胡亥は「余興だったのか」と言った。

しかし趙高はその後正直に鹿と答えた者は直ちに逮捕し自分に同調せぬ者として罪を着せて処刑したのだ。

 

「馬鹿」という言葉はこの時生まれた。

権力を怖れ「白」を「黒」という意味で使われたのだが現在では別の意味になっている。

 

その頃、反秦軍はますます勢いを強め秦の名将章邯と二十万の秦軍が項羽軍に降伏した。

 

二世皇帝は望夷宮でのんびりと暮らしていた。

その時初めて秦軍が各地で敗走しているという報せを聞き驚く。

大臣は「咸陽宮で話すとただちに趙高様の耳に入り処刑されます。それゆえに皆黙っていたのです」と告げた。

胡亥は慌てて趙高へ使者を送った。

 

使者から事の次第をきいた趙高は「二世皇帝に死んでいただこう」と考えた。

その跡継ぎに公子の子嬰を選ぶとした。

 

数日後趙高は釈明のために多くの警備兵を連れて望夷宮へ出向いた。

そしてその警備兵をもって二世皇帝を取り巻いたのだ。

警備兵隊長は胡亥に剣を渡して自害を求めた。命乞いはかなわなかった。

二世皇帝は二十三歳で死んだ。

 

趙高は諸大臣に二世皇帝誅殺の弁明をした「我が諫めも聞かず人民に厳しい使役と重税を課して苦しめたからである」と。

そして諸国が帝の地位を欲しがっているという理由で帝号を廃し扶蘇様の子・子嬰を秦王とすると発表した。

諸大臣はこれまでの趙高の悪行を恨みながらも子嬰様なら秦を立て直してくださるかも、と期待した。

 

子嬰は五日間斉宮にこもり身を清め秦の祖廟で即位することとなった。

そして五日目子嬰は我が子を呼び趙高はすでに秦を見限り関中の王になれるならば協力すると楚に密使を送っていると話した。その協力とは秦王の首を差し出す。つまり即位した子嬰の首を打ちとって楚になびこうとしているのだ。

子嬰は趙高を討ち取る計画を練る、

 

まず仮病を使い即位式に出ないことで趙高が苛立ち子嬰のいる斉宮に乗り込ませる。

そこを子嬰の子供たちが討ち取ってしまうのだ。

この計画は速やかに運んだ。

早く身の安全を図りたい趙高はひとり斉宮に駆けつけてきたのだ。

子嬰の子らと服臣によって趙高は誅殺された。

趙高一族はことごとく処刑されさらし首となった。

子嬰は昔のように諸国同列として秦王と名乗ったのである。

 

案外あっさりとした趙高の末路であった。

それにしても「馬鹿」のエピソード、怖いのである。