魏の信陵君・無忌は七代目安釐王の腹違いの弟である。身分を問わず人を大切にしたので人望があり食客の数も三千を数えた。
魏には頭痛の種が一つあった。
それは魏の宰相・魏斉が范雎が斉と通じていると勘違いし拷問の末便所に放り込んで辱めたことである。
その後范雎は秦に脱出し秦の宰相にのし上がりその恨みを晴らさんと機会を狙っていた。
だが十数年、秦は魏に手を出さなかった。聡明な信陵君がいるのでうかつに手が出せなかったのである。
魏王が信陵君と碁を打っていると「北の国境から次々と狼煙が上がっておりまする。趙の来襲と思われまする」という報が入る。
左側信陵君、かっこいい。
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はたして・・・通報は誤報で趙王の狩りだと判る。
王が不思議に思って問うと信陵君は「私の食客のひとりが趙の情報源を握っており、趙王がなにかすればそのたびに知らせてまいります」
王は驚き「他の国の情報も手に入るのか」と問うと信陵君は「はい」と答えたのである。
魏王は信陵君を怖れてそれ以来政治の場からはずしてしまった。
信陵君は城門の門番をしている老人を賢者として敬い酒席に呼ぶ。老人は迎えに来た信陵君を待たせて肉屋の朱亥と立ち話を始めた。信陵君はその間も笑顔で待っていたのである。
町の人は信陵君を待たせている老人の悪口を言い合い笑顔で待っている信陵君はほんとうによくできた方だと感心し合った。
酒席に集まった大臣・将軍・王族たちはみすぼらしい老人が信陵君に「先生」と呼ばれ上席を勧められたのに唖然とした。
そして町のうわさを聞いた人物が老人に「なぜそんなことを?」と問う。
老人は「その話は人の口から口へと伝わり国中どころか諸国に伝わりましょう。私を大切に思ってくださる信陵君さまへのお礼です」と答えた。
そして今もなお語り継がれているというわけである。
その後、信陵君は肉屋の朱亥にも贈り物をした。
さてその頃、趙攻略にかかっていた秦は長平で趙軍四十万を打ち破りその勢いで邯鄲を包囲した。
趙は魏に援軍を求めてきた。
しかし秦もまた魏に手出しすれば次は魏に攻め入ると脅してきたのだ。
魏王はやむなく将軍を国境に留め置いて日和見する。
ここで趙の平原君が信陵君に手紙を送ってきた。
信陵君の姉が平原君の夫人だったのだ。
平原君は「私があなたと姻戚を結んだのはあなたが仁義に厚い人だと見込んだからです。仮にあなたが私を見捨てるのはよいとしても血を分けた姉まで見捨てるのですか」
信陵君は魏王を説得したが王はなびかない。
信陵君は己のみでの援軍を起こした。
食客三千人を連れて向かったのである。
この時門番の老人が信陵君に知恵を与えた。
「何の方針もなく出陣しても無駄なことです。趙を救うには国境にとどまっている国軍を連れていかねばならない。
その為には軍令の割符が必要。その割符は王の寝所に置かれている。
王の寵姫・如姫様はかつて父の仇を信陵君様にとってもらい深く恩を感じられたとのこと。王の割符を如姫様に頼みなされ。そうして趙を救うのです」
老人の言った通り如姫は割符を手に入れ信陵君へ手渡してくれた。
さらに老人は「国軍の将軍はその割符を観ても魏王に確認を出すかもしれません。そのために肉屋の朱亥を連れていき打ち殺させるのです」
これを聞いた信陵君は涙した。
「必ず将軍は確認の伝令を飛ばすはず。ということは将軍を殺さねばならないと思うと涙が出るのです」
信陵君は覚悟を決めて肉屋の朱亥を連れて国境へとむかった。
やはり将軍は確認をしようとし朱亥に打ち殺された。
信陵君は丁重に葬らせた。
信陵君は兵士のなかで一人っ子の者と兄弟で従軍した者は兄を都へ帰し十万の軍で発進した。
楚軍も加わり、魏楚趙の連合軍は秦軍に襲い掛かった。
なかでも信陵君の働きはみごとであった。
秦軍は信陵君に負けたと言ってもよかったのである。
信陵君は軍を帰したが自分は魏の法を犯したとして趙に残った。
趙では信陵君に五城を与えて報いようとした。信陵君も受け取ろうと思っていたがこれを食客のひとりが「人の道に踏み外すことになる」と説いてとどまらせた。
信陵君は五城を固辞し客分として暮らした。
またもや。
ここまではなんとなく美談ですむのだがこの後も信陵君の名は高まる一方なのである。
それなら良いばかりのはずなのだがなぜかそうはいかない。
信陵君は趙でも崇められついに魏から求められて帰国し上将軍に任命されて秦軍と戦い撃破していくのである。
向かうところ敵なしの状態だが秦は信陵君がいる限り天下制覇ならずと考え間者によって信陵君と魏王の仲を裂くよう画策する。
信陵君謀反のうわさを流させ再び魏王の不信を呼び覚ましまたも信陵君は政治の場から外された。
信陵君は失意のためそれ以後病気と称して参内せず酒と女に溺れる日々を過ごし四年後酒毒でこの世を去った。
それは魏滅亡の足音でもあったのだ。
メチャクチャかっこよすぎた信陵君。
最期だけが悲しい。
待ってました「奇貨居くべし」最高に面白い話。
主人公は呂不韋。将軍ではなく商人の活躍ご覧あれ。
呂不韋は陽翟の人で諸国を歩いて商売する大商人であった。
この日も商用で趙の都・邯鄲へきていた。
呂不韋はここで秦の人質・子楚に出会う。
身分のある人に見えるのに着てるものは見すぼらしかった。不思議に思った呂不韋は同行者に尋ねると「秦の太子安国君さまのお子で人質として送られてきたのですが秦と趙の仲が険悪になってからは粗末に扱われ今では食事にもことかくありまさとか」というのだ。
呂不韋は「これは奇貨(将来値が跳ね上がる商品)かもしれぬぞ」とひらめく。
呂不韋は陽翟に帰り父親にそのことを話した。
「安国君様は秦の太子、そのお子様は二十数人。安国君が即位すればその中から太子を選ぶ。私はその子楚を太子にしようと思うのです。そうすれば子楚はいずれ秦の王となる」
呂不韋の父親は息子の壮大な計画に驚く。
「父上はよく‶奇貨居くべし”と言われたでしょう。私の奇貨はその子楚なのです」
父親は「可能性のある投資だ」として全財産をつぎ込んで賭けることにした。
物凄い商人魂だ。
呂不韋は再び邯鄲へと戻る。
商人として一世一代の大勝負だった。
呂不韋は貧しく暮らしている子楚に会い五百金という大金を私高価な衣服を着て趙にいる賓客と交友を深めてくださいと申し上げる。
子楚が驚くと呂不韋は自分の考えを話した。
「子楚には二十数人の兄弟がいるが後継者はまだ決まっていない。これを決められるのは子楚の父・安国君が今一番寵愛している華陽夫人なのです。ところが華陽夫人には子がない。あなたがその夫人の養子になればよいのです」
そうすれば華陽夫人はきっとあなたを太子に薦めるはずです。
子楚はこれを聞き「もし私が秦の王になれたらその恩には充分報いるぞ」と答えた。
「はい。私は商人ゆえその投資資金は回収させてくださいませ」
こうして呂不韋は子楚に用意した金で交遊を深めさせ自分は子楚の宣伝に尽力した。こうすれば趙にいる秦の間者が噂を運んでくれるのである。
(ものすっごい考え。おもしろい)
そして呂不韋は高価な品物を買いあさり秦へと向かう。
まずは華陽夫人の姉に接近したのである。(いちいちすごい)
そして贈り物をわたして華陽夫人に取り次いでもらった。
呂不韋は華陽夫人にも贈り物をし子楚をご存知かと問う。「今は趙の人質ですが聡明で評判の良い方です。その子楚様はあなた様を心から敬慕なされておられます」
華陽夫人はこれを聞いて嬉しいと答えた。
呂不韋はまたも華陽夫人の姉に会って「華陽夫人にお子様がいないのは残念です」と問いかける。そして「安国君さまにはお子様が多いのですからその中から聡明な方を養子にもらい世継ぎにされるべきです」と続けた。「そうすれば何かあってもその容姿が王位を継げます。そうなれば姉上様も華陽夫人も勢力を失わずにすみましょう」
更に念を入れ「華陽夫人は今は若く美しいがいずれその色香は失われご寵愛を失うかもしれません今のうちに手を打つべきです」
呂不韋の言葉に戸惑う姉君に「趙の人質になっている子楚さまは聡明で華陽夫人を慕っておられます。」と持ち掛けた。
「しかし人質ではいつどうなるかわからない」と不安がるのを呂不韋は「どんな危険が来ても私がお守りします」と言ってのけた。
姉君は「わかりました。妹に話してみましょう」となったのである。
こうしてこの話は姉から華陽夫人へ夫人から安国君へと渡った。安国君も間者から子楚の高い評判を聞いていた。
安国君は愛する華陽夫人の願いを聞き「よし。子楚を華陽夫人の養子にして世継ぎとして認めよう」と約束したのである。
華陽夫人が証拠が欲しいというと安国君は割符を渡して「これを持つ者がわしの世継ぎだ」とした。そして呂不韋を子楚の後見人とした。
割符が楽しい。
呂不韋はその割符を趙にいる子楚に渡す。女性の舞を見ながら食事をする席でのことだった。
ここで子楚は呂不韋にねだった。
「私もそろそろ妻が欲しい。舞を舞っている女を私にくれぬか」
これに呂不韋は慌てる。
実はその舞をしている女性は呂不韋の囲い者だったのだ。
二日前その女から身ごもったらしいと言われたばかりであった。
しかしここで断り子楚の機嫌を損ねれば計画は壊れてしまう。全財産を賭けた商売を壊すわけにはいかなかった。
こうして遊女は呂不韋の子を身ごもったまま子楚の妻となったのだ。
そして子供を産んだ。
この子が政つまり後の始皇帝となるのである。
紀元前257年、秦は趙の邯鄲を包囲。趙では人質・子楚を殺すことになった。
呂不韋にとってそれは決して黙っておけないことだった。
呂不韋は六百金を投じ城門の警備兵を買収し子楚を逃がす。
妻子はある豪家で匿ってもらうようにした。
前251年秦の昭王が在位56年で死去。
太子安国君が秦王となる。華陽夫人は王妃となり、子楚が太子となった。
これに震え上がったのが趙である。子楚を粗末に扱ったからだ。
いにしえの覇者重耳も放浪中に粗末に扱った国は全て滅ぼしたのだ。
せめてもの償いに子楚の妻子は丁重に送り出した。
政はこの時十歳。用心深く人を信用しない子に成長していた。
それから間もなく秦王が死去。老齢で即位し多忙を極めた疲れだったのだろう。
こうして子楚がついに秦王となったのだ。呂不韋の囲い者だった遊女は今や強国秦の王妃となった。
そして政が太子となる。
呂不韋は多大な功績により黄河南部の土地十万戸を与えられさらに秦の丞相に任命された。
呂不韋はこれで投資資金を充分に取り戻し権力の座まで手に入れたのである。
呂不韋にとって子楚はまさに「奇貨」であった。
こんな話ある???
さすが中国。
商人が世界を動かした。
しかも始皇帝の父親って・・・いいのか。母親も・・・いいのか。
呂不韋。怖ろしい子。
今まで知ったどんな話よりとんでもない話だ。