1975年「週刊少女コミック」37号
正直言ってこのエルゼリさんが好きになれないのですが何故この話を描かれたのかと考えてみました。
ネタバレします。
萩尾作品は「そんな簡単に人生は送れない世界」を描いている。その上で「なんとかなるさ」的な明るさ希望を見せてくれる話が多いので好きなのだが本作は救いのない話になっている。
今回の主人公エルゼリは美しい女性で「町の合唱隊」を自分で作り練習させている。
いつも微笑みを浮かべている幸福な女性なのだ。
なぜ幸福なのかというと決して現実の嫌なものを見ないようにして薔薇やアップルパイや歌など自分が好きなものだけを大切にして生きているのだ。
「自分の好きなものだけを考えるようにしている」というのは現在を生きる人間には当然の事にも思えるがエルゼリの世界がどうしても気持ち悪い「好きなもの」に思えて私的には遠ざけたい。
エルゼリはたぶん「素晴らしい男性がいないと生きていけない種類の女性」なのだ。
なのでハンサムではないヒルス医師は範疇に入っていないし「自分で作った合唱隊」は少年ばかりで女子が一人もいない。
これもし20代後半の男性が13・4歳の少女ばかりで合唱隊を作って毎日集めて練習していたら気持ち悪いと思われる。
なぜ女子はエルゼリ合唱隊に入らなかったのか。
女子が来たら追い出していたのか、それとも女子の方がなにか変なものを感じて寄ってこなかったのか。
ばあやは別にしてなぜ女友だちがいないのか。
ヒルス先生はなぜそんなにエルゼリに惹かれるのか。
エドガーもまたエルゼリの女性性に酷く惹きつけられているのも不思議でもある。
アランは直接会っていないから彼がどうなったかわからないが会っていたらアランの方がもっと夢中になっていたような気もする。
エルゼリの夢の世界の恋人ハロルド・リーの死を知って躊躇なく自死を選ぶ。
何の迷いもない。こうした迷いのなさが彼女の性的な魅力にもつながっている。
そしてエドガーもハロルド・リーの死を知って迷いもなくエルゼリが死ぬと察知する。
エドガーはエルゼリにメリーベルと自分自身を重ね合わせているからこそ彼女に惹かれていったのだ。
いつも賢いエドガーが本作では悲劇の引き金になっている。
ハロルド・リーの事故死はもとはといえばエドガーが彼に会って「エルゼリを知ってる?」と聞いたことが原因で彼が人違いをして慌て事故に遭うのだ。(気の毒なのは御者だ)
つまりはエドガーはエルゼリを死に追いやったことになる。
ハロルド・リーの死を聞いて慌てるエドガーを見るにそうしたことになるとは思ってはいなかっただろう。
そしてメリーベルを救えなかったかわりにエルゼリを救いたかったはずだ。ヒルス先生に恋の手ほどきをするのを見ても。
しかしエルゼリのこじらせは生易しくはなかった。
彼女は自死を選び、エドガーの機転で命は一時とりとめるが結局病気になり三年後死ぬ。
こうしたエルゼリの「遥かな国の花や小鳥」の世界を萩尾望都は辛辣に評してもいる。
「恋人にすてられた腹いせに独身でいるってほんと?」とエドガーに直接質問させている。
「女って執念深いから」とも評している。
そのうえでエルゼリは自分でしかいられなかった。
私は彼女を不気味としか思えないけれどだからこそエドガーは彼女の庭に足を踏み入れたのでもあろう。
「恋人にすてられたはらいせに独身でいる」