ガエル記

散策

『史記』第八巻 横山光輝

秦の始皇帝の話だから絶対おもしろい。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

第1話「保身の術」

戦国四大名将のひとり王翦の物語。

朝議において、楚王は「大国・楚を討つにはどれほどの兵力が必要か」と将軍たちに問いかける。

名将・王翦は「六十万」と答え李信将軍は秦軍は精鋭ぞろい。二十万あれば大丈夫」と答える。

秦王は王翦の答えに老いて気力が欠けてきたのだと感じて李信将軍と蒙恬将軍に二十万の兵をあずけて楚を攻めさせた。

 

この朝議の結果に王翦は息子に引退を告げる。父の言葉に考えすぎではと息子・王賁は笑ったが王翦は「そなたまだ秦王の性格をつかんでおらぬな」と答えた。

秦王は人を信用しない。必要と思う時だけ腰を低くされるが無用と思うと容赦ない。

樊於期将軍は急激な政治改革を少し緩めるようにと意見しただけで一族は皆殺しとなり彼自身も自害するに至った。

秦王に無用と思われたらどんな末路になるか。

「あのお方にお仕えするのはむずかしい。そなたもよく心得ておくがいい」

 

王翦は言葉通り病と称して引退した。秦王はひきとめもしなかった。

 

一方、秦王が選択した李信・蒙恬は楚へ向かった。最初は大勝利をおさめたが楚軍の反撃に会い、みるも無惨な敗走となった。楚軍は勝ちに乗じ秦へ入る勢いを見せた。

 

この報を受けた秦王は自ら王翦の郷里へ出向き礼をして再出馬を頼んだ。

王翦は「六十万の兵がなければ自身がございません」と答えると秦王はこれに応じた。

 

こうして王翦は秦軍の将として返り咲いた。秦王は王翦の出陣を見送った。王翦は王にお願いをした。「それがしが帰って参りましたならば立派な屋敷と田地をたまわりとうございます」

秦王はにこやかにこれを承諾した。

王翦は秦の玄関口・函谷関で使者を送った。「出陣の時のお約束間違いございませんか」と念を押したのである。

それから進軍中、王翦はたびたび念を押す使者を秦王のもとに送った。

あまりにも使者を送るので側にいた将が「少々度が過ぎてはいませんか」と苦言を呈した。

しかし王翦は「あれはわしの身を守るためなのじゃ」と答えたのだ。

将が問い返すと「わしは六十万の兵を預かり謀反を起こせる立場でもある。人間不信の塊の秦王は内心不安でしかたあるまい。だからこうして恩賞目当てに働いていると思わせておかねばならぬ。あのようなお方に仕える時は変な疑いをかけられぬよう気を配っておかねばならない」

将は納得した。

 

王翦の攻撃は的確で凄まじかった。

秦王の難しい心理を捕える頭脳を持つ王翦だ。敵軍の思惑など簡単に解るに違いない。

王翦は楚の各地を平定し楚王を捕え処刑した。楚の滅亡である。

更に王翦は楚の南にある百越の王も降した。

こうして前223年、中国南の土地は王翦によって平定された。

翌年は王翦の子・王賁と李信で燕を滅ぼし、斉を平定した。

 

秦は天下統一を成し遂げた。

王翦は秦王の人間不信の性格を見抜き用心深く生きてその名声を後世に残したのである。

王翦、すごい。ほんとうの将軍というのはまず自分の主人に勝つのだ。

 

第2話「始皇帝(1)」

さてこうして天下統一を成した秦王は三十八歳にして最初の皇帝「始皇帝」を名乗る。

李斯は丞相となった。

国造りが始まった。

 

天下を三十六郡に分け郡ごとに守(行政長官)、尉(司令長官)、監(監察官)を置いた。

度量衡、通貨、文字を統一した。

天下の富豪十二万戸を咸陽に移住させ監視した。

咸陽宮を改築させ政務をとった。毎年各地を巡幸するための皇帝専用道路を造らせた。

泰山へ赴き封禅の儀式を行った。頂上まで階段が造られ秘密裏に封禅の儀式を行ったのだ。

絶対君主となった始皇帝が次に求めたのは人間以上の存在になることだった。神や仙人のように不老不死になることだった。

さらに東方の斉の渤海に到着し初めて海を見た。そこで始皇帝は蜃気楼を体験した。

 

始皇帝は徐福の書いた上奏書を読み興味を持ち召し出した。徐福は始皇帝が求めている不老不死の薬を探しに蓬莱山に行かせてほしいと言い出す。

いつも疑い深い始皇帝がこの話をいとも簡単に信じたのは蜃気楼を見た直後だったからだろう。

徐福は始皇帝から巨万の財宝を預かって船に乗り蓬莱山を目指してそれっきり戻ってこなかった。

徐福と巨万の富は消えてしまった。徐福は日本に定住したと言われている。

 

それからも始皇帝は不老不死の薬を願望し各地からうさんくさい方士まで集まってきては金を巻き上げていった。

始皇帝は四十一歳の時、三回目の巡幸に出た。(前218年)この時始皇帝は三度目の暗殺に会うが生き延びた。

しかしこの時から弾圧政策が始まる。

また万里の長城を計画した。過酷な労働で多くの人々が死んだ。

天下から集めた美女や財宝の置場がなくなり宮殿の数を増やした。

法は始皇帝が全て定め裁決も一人で行った。

上奏書は秤にかけられ一日三十キロと決められた。

 

しかし絶対権力を持つ始皇帝もどうにもならないことがあった。自分の寿命である。

始皇帝は不老不死を求め仙人になれることを祈った。

 

 

第3話「始皇帝(2)」

前213年。始皇帝は咸陽宮で大宴会を催した。この宴会が歴史に残る事件の引き金となった。

始皇帝は四十六歳となり絶頂期であった。

 

この宴会で始皇帝に進言した者がいた。「何事もいにしえを手本としないで長らえたものはございませぬ」

しかし李斯はこの意見に反対でさっそく皇帝に上奏した。

「いにしえの五帝も前代の政治を踏襲したわけではありませぬ。時代が変わったから時代に会った政治をしたのです。ところが学者どもは昔を良しとします。これは新しい政治を非難することになり人心を惑わす結果になります」

始皇帝は李斯の意見をもっともと考えた。「医薬・占い・農業に関する書以外はすべて焼き捨て、詩・書を論じる者は晒し首、上古を理想として現代を非難する者は一族皆殺しといたせ」

こうして焚書が始まった。

これに反感を持ち身を隠した学者も出た。

始皇帝は怒り儒者たちを査問し処刑した。その数、四百六十余人が生き埋めとなった。これが坑儒である。

長男の扶蘇が父皇帝の「焚書坑儒」をやんわりと諫めたが始皇帝の心は動かず逆に扶蘇を北方に追放した。

 

翌年始皇帝匈奴の来襲に素早く対応するため700キロに及ぶ直線道路建設を命じた。

また始皇帝陵の築造を命じた。

地下に宮殿、水銀で川や海、天井には星座を造らせた。

渭水の南に阿房宮を作り咸陽まで渭水の上を二層の回廊でつないだ。

 

この頃から始皇帝の容態は悪くなっていった。

始皇帝のお気に入りであり、次男・胡亥の教育係でもある宦官趙高が上奏文の裁決を取り仕切っていった。

いまや趙高が伝える言葉が始皇帝の言葉となった。李斯をはじめ高官たちも趙高の命じるままに動いた。

 

趙高は占星術師が「巡幸すれば吉」と申していますと進言して病気の始皇帝を動かしたが始皇帝に病状は悪化し長男扶蘇に遺書をしたためたのだ。

扶蘇よ、北方より買えり咸陽で喪主となって葬儀を執り行うよう」

が趙高がこの遺書を扶蘇に届けず手元に隠した。

そしてついに始皇帝が巡幸中に亡くなったのだ。

それでも趙高は巡幸をやめず腐臭を誤魔化しながら策略を練った。

まずは自分が教育した次男胡亥を説得し、丞相・李斯を説得した。

始皇帝の遺書に叛き長男扶蘇ではなく次男・胡亥を次期皇帝にするためだった。

 

第4話「趙高の陰謀」

趙高は偽の詔を作成し人望のある扶蘇に自害を求め蒙恬から将軍職を剥奪した。

葬儀を終え胡亥が皇帝となったが人望はまったくなかった。それを誤魔化すため趙高は謀叛の可能性を持つ者を次々と処刑していった。

恐怖政治が始まった。

不平派とみられた者は落ち度がなくても罪をでっち上げられ処刑された。公子も公主も処刑された。

「われに罪なし」と叫び自害した者もいた。

連座で一族も処刑されその数は数えきれなかった。

李斯もあまりのことになすすべもなくいずれ我が身にもと予感がおそった。

 

才能もないのに自分の権威を高めるために行った恐怖政治。

忠臣の大量粛清は滅亡を早めるだけの効果しかないことを胡亥は気づいていなかった。

 

天才と思われた始皇帝の哀れな最期、陰謀によって祭り上げられる無能の次期皇帝。

そしてそこから生まれる恐怖政治。

歴史の上でのみ見ればおもしろい。