ガエル記

散策

『史記』第七巻 横山光輝

第1話「嫪毐の乱」

昨日の続き。

呂不韋の一世一代の大勝負は破格の大勝となる。趙の人質となっていた秦の公子・子楚を救い出し秦の王とした。

呂不韋はこのてがらにより丞相に封じられた。

だがこの荘襄王は在位三年でこの世を去った。

そして十三歳の政が秦王となった。

荘襄王の実母は「夏太后」となり呂不韋の囲い者から荘襄王の妃となって政を生んだ母は「母太后」となった。

そして呂布韋を相国(丞相より位は上)とし「仲父」と読んだ。これは父の次という意味である。

 

呂不韋の凄いのは丞相・相国となったところで堕落したりせず次に優れた食客を三千人集めるという意気込みがまだまだあるところだ。

この時代(今もかもだけど)優れた食客を抱えるというのが大人物の証だったのだろう。

さらに呂不韋孔子を見習い食客たちに見聞をまとめ記録させた。

天地・万物、古今の出来事を研究しまとめていった。そして二十余万語からなる書を完成させた。呂布韋はこれを「呂氏春秋」と名付けた。

またさらに呂不韋はこの書物から一字でも増したり削ったりできた者には千金を与えるという札を立てた。

その頃、秦には諸国から賓客や遊説の士が多く訪れるようになっていた。呂布韋はその人たちに自分の業績を誇示したのである。

(一攫千金、などに使われる千金はこれが出典と言われている)

 

一方、呂布韋はいまだにかつての囲い者であった母太后と関係を続けていた。

太后は昔から好色でありまだ若く孤閨に耐えられなかったのだ。

ところが母太后の息子である秦王から「近頃よく母太后の元へ行っているそうだな」と声をかけられすんなりと逃れたものの内心は冷や汗だった。

秦王は十歳まで趙で苦しい人質生活を送ってきて人を信用しないところがある。呂不韋は早く母太后との仲を清算しなければ身の破滅になる、と考えた。

しかし問題は自分の代わりをしてくれる男を母太后にあてがうことだった。

これに選んだのが嫪毐だった。

嫪毐は巨根の持ち主だったのである。この噂を母太后に吹き込むと是非会いたいという話になり呂不韋後宮に男を入れるために嫪毐を宦官と偽らせ無事自分の代わりとして母太后に仕えさせた。

太后はふたりの子を産み嫪毐に富と権力を与えた。

呂不韋はこの様子を苦々しく見守っていた。もしことが露見すれば厳しい罰が待っているのだ。

果たして密告者が現れ若くとも毅然とした秦王は徹底的に調べあげた。嫪毐が反乱をおこすよう仕向けすでに大軍を用意していた秦王はこれを討伐したのだ。

嫪毐は車裂きの刑となった。ふたりの間の子どもも処刑された。

呂不韋は秦王の仲父ということもあり相国の位を取り上げられ領地に引き込むということで収められた。

とはいえ秦王は呂不韋の謀反を疑っていた。秦王は呂不韋に手紙を書き送った。

「血縁関係でもないのになぜ仲父と称しているのか。その罪により蜀へ行け」と書かれていた。

それを読んだ呂不韋は秦王が呂不韋を許していないことがわかった。自分の末路が見えるようだった。

呂不韋は毒をあおって自殺した。

 

そこまで、と思ったのですが先が見える呂不韋のこと、どうなるのかが見えたのでしょう。ともかく面白い人生でした。

 

第2話「我れ鳥獣にあらず」

李斯は若い頃便所のネズミと食糧庫のネズミが同じネズミでもまったく違う態度でいることに人間の価値を考え一念発起して学問を身に着けた。

李斯が学んだのは荀子だった。同門に韓の公子・韓非(韓子)がいた。ふたりは門下生として一、二を競いながら学業を終えた。

李斯は秦は秦へ向かった。十三歳の政が若き秦王に即位したばかりの時だった。

李斯は丞相・呂布韋の門を叩き食客となった。

呂不韋は李斯の才能を認め秦王の近侍に推挙した。

 

やがて呂不韋が自殺し若き秦王が天下統一を目指す時が来た。

李斯は秦王に「まず内から乱して外から撃つ」ことを進言した。諸外国の君臣の仲を離間させるのだ。

この策略は功を奏し李斯は客卿(他国出身の大臣)となった。

 

一方韓の国は秦に次々と領土を取られ弱っていた。

韓には韓非がいて王に進言していたが、王は韓非が気に入らず彼の言葉に反感を持っていた。

 

ここで面白い錯綜が生まれる。

韓非は韓王に嫌われるが秦王に気に入られ国を越えて招かれるというより奪われてその学問から絶対君主制を学ぶ。

一方で韓非が韓で提言した「秦の国力を鈍らせるために大規模な灌漑工事をさせる」は実行されゆくゆく秦は豊かな国となっていく。

が大規模な灌漑工事を監督していた鄭国は韓の回し者の見破られてもその利益のために命を長らえ韓非は逆に獄につながれてしまう。

 

さらにこの一件から重臣たちの間に「他国の人間は間者とみて間違いなし」という流言が広がり秦王にも進言されついに「他国人追放令」が発布された。

 

これを聞いて困惑したのが李斯だ。李斯もまた楚の人間であった。

李斯は秦王に手紙を書きとくとくと説いた。

「天下統一の偉業をなしとげるには多くの人々を抱擁する度量が必要です。黄河や海はどんな細流も拒みません。だからあれだけの深さとなり得たのです。いま他国者を追放すればその者たちは敵国に仕えてその才能を発揮しましょう。また賢人も二度と秦には参りますまい」

これに秦王は同意したがすぐには動けなかった。

その間に李斯は獄中の韓非に「酷い処刑をされそうであったら」と毒薬を渡し自分も祖国に戻ろうとした。

が、秦王は李斯や韓非の言葉を考えて「王の権限をみせて臣下を統率すべきだ」として他国人追放令を取り消し秦から出ていったものをすぐに呼び戻した。

李斯もまた呼び戻された。

韓非の獄にも釈放の命令が行った。

がすでに韓非は毒を飲み死んでいた。前233年のことである。

 

李斯は再び秦王の信を得た。そして秦王政の片腕として天下統一に動き始めた。それから三年後の前230年韓滅亡。前228年趙滅亡。

 

韓非・・・悲しい運命。

 

第3話「刺客荊軻

秦の侵攻に諸国は青息吐息であった。燕もその一つで太子・丹を人質に差し出し服従の意を示そうとした。

太子・丹は幼い頃、秦王政とともに趙の人質でよく遊んだ仲だった。そのため幼友達として大切にしてくれるだろうという思いがあった。

ところが親し気に話しかけた丹に秦王は怒り「身分をわきまえよ。なれなれしく口を利くでない。退れ」と激しく罵ったのである。

この態度は太子・丹を傷つけた。屈辱感に取りつかれた丹は前232年。隙を見て秦から脱出したのである。

これを聞いた秦王は「幼馴染だ。しばらく生かしておこう」と言ってそれよりも天下統一の予定を進めた。

秦王は絶対君主制を浸透させようと力を入れていた。

無用のしきたりを廃止し反対する者は容赦なく斬り捨てた。

 

また王翦将軍に対して六十万の軍勢を二十万の精鋭部隊にするよう命じ天下最強の軍隊を作り上げた。

そしてこのやり方に反対した樊於期将軍を処刑せよと命じた。

樊於期将軍はあわやというところで逃げ延び燕の太子丹の元でかくまわれた。

 

太子・丹は今も秦王から受けた屈辱を忘れず秦王暗殺を企んでいた。田光先生を通じて荊軻という男を知り彼に「秦王暗殺」の意志を伝えたのだ。

荊軻遊侠の徒として半生を過ごしてきた。ここで天下を震え上がらせている秦王を相手に挑むのも悪くないかもしれないと考えた。

太子・丹は荊軻を上卿として迎え豪邸を与えた。荊軻は華やかな生活を楽しんだ。

前228年秦はついに趙を滅ぼし、燕の南境に達した。

荊軻は暗殺の時が来た、と丹に告げる。

まずは毒塗りの短剣を用意し、それを隠す地図を準備した。

さらに丹がかくまっている樊於期将軍に「秦王暗殺のために将軍の首が必要」と話した。復讐を望む樊於期将軍は喜んで自害しその首を差し出した。

だが荊軻は出立しない。

丹が理由を問うと「遠くにいる信頼できる友を待っている」という。丹はお供なら度胸のある豪傑を用意しているといって荊軻を急がせた。

荊軻は出立した。

 

荊軻は樊将軍の首と地図を持って秦王に招かれた。降伏と忠誠を誓うと告げるためだ。

秦王の近くまで荊軻は進んだ。だが丹が豪傑と呼んだ男が恐れおののき震え上がってしまう。

荊軻は落ち着いて秦王の前で樊将軍の首と地図を見せた。そして毒塗りの短剣で襲った。

が秦王は逃げに逃げた。

医師が薬箱を投げつけると粉薬が荊軻の目に入りその隙に秦王は剣を抜いた。

荊軻はなおも短剣を投げつけたがそれも柱にあたって王にあたらず秦王は剣で荊軻を斬りまくった。

 

暗殺は失敗した。

豪傑のはずの秦舞陽は茫然と見ているだけだった。

秦王は激怒した。

趙にいる王翦将軍に燕を討たせた。

太子丹は燕王の家臣の手で殺され首は秦王に届けられた。

秦王は丹の首を見て燕攻撃を中止し、他国へ矛先を向けた。

 

まず魏を滅ぼし、楚に攻め入った。

その間だけ燕の寿命は延びたが前222年、燕も滅ぼされた。

 

荊軻が秦王暗殺を実行するにあたって信頼できる友を待っていたと言ったがその人物が誰であったのか、司馬遷史記』は記していない。

 

いやあ面白かったあ。

アクション映画でしたね。

あるんだろうなあ、秦王(秦の始皇帝)の暗殺場面ドラマ映画。

豪傑が震え上がってなにもできないのがリアルでした。