上はロリータ映画ですが
下はショタ映画です
相変わらずぼーっとしながら文章書いてたら,huhuさんのコメントでショタコンの話書くの忘れていたことを思い出しましたので少し書き続けます。
女のロリコン=女性が描いたロリコンイラスト・物語はステキな金持ち紳士が小さな女の子に奉仕し貢ぎまくる、という設定になる。
男のロリコン=男性の本物のロリコンが描いたロリコンイラスト・物語は虐待か自分に奉仕してくれる、という設定になる。
というところまで書きました。
私はpixivでゲイ界隈に長く居住していて相手が小さな男の子、もしくは男の子同士というジャンルも見てきました。
こちらは成人男性が少女幼女を相手にするロリコン界隈とまったく様子が違うのです。
むしろ書き手が女性の場合のほうが若干虐待系が多いのかもしれません。
書き手が男性で本気でショタコンの場合ロリータに対するような虐待描写は極端に少なくなります。勿論幼い子供に対して性的なことをすること自体が虐待なのですが、苛烈と言っていいほどのロリコン虐待描写と比較すればショタに対しての描写はやわらかいのです。
これは以前読んだ話で納得したものなのですが、「ぼくが男の子を好きなのはかつて可愛かった自分を懐かしむようなものだから」という言葉でした。
腐女子から生み出された「BL」と呼ばれるものは高校生以上の男性同士が多い、と思います。
かつて萩尾望都や竹宮惠子による「少年愛もの」からBLは始まったといっていいのですが現在では少年愛は腐女子では少ないように思えます。
腐女子じたいは少年よりも青年のほうに興味があるからでしょう。
そしてBLコミケなどは腐女子のかたが多いため男女半々になるのだけどショタコミケは圧倒的に男性が多い、という話を聞いたことがあります。(以前聞いた話なので今現在はわかりませんが)
ストレート男性でも「大人の男はごつごつして気持ち悪いけど小さな男の子は可愛いから」と思う人も結構いるらしい。そして「自分も小さい時はすべすべで凄く可愛かったんだよな」と懐かしい思いにひたってしまうという話になるほどなあと思ったりもします。
ストレート女性も女の子の人形やイラストを可愛いなあと思う気持ちは愛らしかった自分を懐かしむ気持ちがあるからかもしれません。男性の場合は子供時代と成人後の差がより激しいので余計に「あの頃は女の子のようにかわいかった」と思ってしまうのでしょう。
そういう男性の小さな男の子というかつての自分を愛しむ愛情はロリータという小さな異性を相手にする場合とでは心理は違って当然です。
勿論、自分を投影しているからといって未成年男子に性的行為を求めるのは虐待には違いないのですが。
ヴィスコンティ監督作品「ベニスに死す」が名作として万人に認められるのはあの映画が単なるショタコン映画というだけではなく老いてしまった主人公男性が美しい少年にかつての自分の夢を見ている、という自己投影による追憶だからこそです。
それは誰もが年老いた時に感じる「昔はよかった」の思いとその儚さへの悲しみがあるからですね。
それに比べると男性のロリコン作品は芸術性に乏しくなってしまうようです。
なにかあったか思い出そうとしていますが思い出せません。
女性が描いたロリータ映画、男性との交流が描かれてはいないのでロリコンものとは言い難いけど、主旨としてはそう言ってもいいのでしょうか。
ロリコンというテーマを女性が描くとこういう展開になる、と思いました。
というのが映画「エコール」ルシール・アザリロヴィック監督作品です。かなり前に観たきりですが私はこの映画は「男性が女性に求めるものはこういうものだと描き最後にそれを破壊する」と記憶しています。
たぶん、現在の日本のロリコン男性が見たら「何一つロリコンじゃない」と思ってしまう気がします。
男性が思うロリコンは幼い少女を凌辱する行為そのものでしかないのですが、女性が思うロリコンはそういう行為への恐怖と嫌悪だからです。
その恐怖と嫌悪を映像にしたのが「エコール」でした。
映画「ロリータ」はもうよく覚えていないのですがあまり良かった記憶がありません。
小説「ロリータ」ナボコフ著は原点ともいえる作品ですし、素晴らしい作品だと思っています。内容的には私が女性の描くロリコン設定ともいえる「すてきな金持ち紳士が少女に奉仕し貢ぎまくる」といっていいのですが、その真意はやはりロリコン男性そのものです。ここを読み取り間違えるわけにはいかないのです。
「テヘランでロリータを読む」という本があります。イスラム革命後のテヘランのある大学教授は大学の抑圧を嫌って女子大学生たちを数人集め禁じられている英文学の研究会を行う、という本です。
その内容説明をきいたある男性から「へー、羨ましいと思ったのかな」と言われて「はあ?」と思い切り言い返したことがあります。
その男性が言うに「凄くちやほやされて大事にされるロリータを羨ましいと思うのじゃないか」
やはり男性は女性が何を求めているのか、判ってはいないのです。
お菓子やドレスを買い与えられて好きでもない男にまだ幼い体を無理やり犯される少女をどうして女性が羨ましく思うのでしょうか。
もちろん「テヘランでロリータを読む」女子学生たちは男性の権力下におかれるロリータに自分たちの立場を重ねて考えます。
ナボコフの「ロリータ」はロリコン男の精神とそれに蝕まれる少女をこれ以上ないほど正確に描いた怖ろしいほどの小説です。私はこの小説と田辺聖子訳の「源氏物語」を数えきれないほど読み返しました。読んでいると苦しくてたまらないのですが。
一見暴力ではない支配に思えても男の権力下に置かれることは力無き少女にとって虐待でしかありえません。お菓子やきれいな服を与えられているだけの虐待です。
ましてや現在ロリコン男性の描写にはもう言及する必要はないでしょう。
ルシール・アザリロヴィック監督「エコール」はそんなロリータのみを期待する男性への反抗を描いた作品だったと思います。
ロリコン男性はそんな映画は作らないでしょう。
ところでルシール・アザリロヴィックを調べていたら新しい映画がネットフリックスで観られることを発見しました。
というわけで次は「エヴォリューション」について書けるでしょうか。
自分でも楽しみです。