ガエル記

散策

「エヴォリューション」ルシール・アザリロヴィック

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「エコール」が少女の成長を描いていたように「エヴォリューション」は少年の成長を描いています。

それは今までの多くの映画で男性が描いた少年の成長ではなく女性が描く少年です。

 

「エコール」では少女の成長が描かれていました。

 

小説・マンガなどで少女を描いた物語というものは数えきれないほどあります。

しかしその多くは男性の目で男性が作り上げた少女の物語であることが多く、作者が女性であっても男性作家の影響を受けての物語になってしまいがちです。

それでも小説やマンガは(特に日本の少女マンガは)女性作家も多く存在する世界であり個人で活動できるものなので女性特有の個性は生まれやすいと思います。

 

それが映画となると女性作家の存在は極端に少なくなります。それはもう本当に小説などと比較にはなりませんね。

つまり映画で「女性が描いたもの」は「男性が描いたもの」とは比較しようもないほど僅かしかないわけです。

 

そんななかでルシール・アザリロヴィックは素晴らしい女性作品を描いていると思いました。

「エコール」の少女たちは男性たちが「ロリータ」と呼ぶ範疇の無垢な存在であることを求められている呪縛の苦痛を描いていました。

「エヴォリューション」の少年たちは男性が描く「かつての自分」であったもしくはこうでありたかった、という存在ではないのです。

少年もまた未来への不安と恐怖のなかで育ちます。海は美しく彼等少年たちが遊ぶことも許しますが同時に危険でもあります。

主人公ニコラは海の中で少年の死体を見つけ怯えます。

母親は自ら海に潜って「死体などなかったわ」と言いながらヒトデを差し出します。

ニコラは再び海に潜りますが海の中の岩で手のひらに深い傷を負います。

なんという成長のイメージでしょうか。

海に潜るのは呼吸ができず苦しくいつ死んでしまうか判らない危険がありながら、その美しさに惹かれます。

手のひらに深い傷を受けるのはキリストの受難でありその傷を癒してくれたのは母親ではない別の女性ステラです。

ヒトデは「星」のイメージであり、母親と別の女性の名前は「ステラ=星」と言います。

 

男性が作る映画の中で少年の「性」はいつも不安で未熟でありながらまたそれゆえに美しく切ないものとして描かれ続けてきましたが、女性監督アザリロヴィックの描く「少年の性」はなんとも不気味です。

 

これまで初々しい少女が成人男性という異性に対する恐怖、痛々しさというものは男性たちによって「価値のある初物」の「特別な畏れ」として描かれ続けてきました。

初めて異性を体験する処女にこそ女としての価値があるのだと。

 

映画「エヴォリューション」において少年の場合はその価値を感じるでしょうか。

 

少年たちは病院のような建物に入れられ特別な手術を受けていきます。

ヘソに関係するのはヘソでつながれていた母親との決別を意味しているのでしょう。

 

幼い少年たちにとって「性」はおぞましいものでありながらそれに惹かれてしまう。

美しいけど苦しい海でニコラは星と抱き合います。

やがて一人になった少年ニコラの乗る船が向かう先は工場地帯のような町の光。

少年はおとなへと向かうのです。