途中脱落してリアルタイムで追いかけきれなかったのですが観返していたところやはりこれはすごいわ、と改めて感激し何回も観なおしています。
巨人族でもあり物凄い力を持つ王を父親に持つボッジはとても小さく生まれ育ちしかも非力で剣を支える力すらなくさらに耳が聞こえず口がきけなかった。
しかし弟のダイダは王の風格をすべて備え持っていた。
王ボッスが亡くなり次期王はボッジのはずだったが皆は弟ダイダを王に決めた。
という話から物語が始まります。出だしはいかにも今までよくあるような「力の支配と価値観」を描写します。
「強いものが勝つ弱いものに意味はない」「継母は意地悪」「障碍者はかわいそう。でも差別されるのは当然」
しかしそこから起きていく事柄が「今までの価値観とは違う」もので成りたっていくのです。
障害を持ち異常なほど非力のボッジは国王になりたい、という気持ちだけは強く持ち続けています。ここは不思議でもあるのですがもちろんこの物語の要素は現在リアル世界の比喩であるのです。
「国王」というのは「皆に認められる存在」という意義です。我々はだれしもボッジのように剣さえも持てない非力なのであり物事を聞く力も発信する力もない、という意義です。それでも他人の口を読みなんとか手話で気持ちを伝える、ほどの意思伝達ができる程度なのです。
ボッジには「カゲ」という親友ができます。
この存在もまた比喩としてはその名のとおり自分の影、もう一人の自分の声、というものなのでしょう。
しかし物語の存在としても面白いです。
別の話なら「カゲ」と呼ばれる被差別種族であるのをそのまま「影」として具現化した、のではないでしょうか。
王の影のように使える守護者、というのをそのまま影に表したわけです。
この発想は面白い、と感激しました。
ボッジの友達でありボッジを励まし助ける、児童向け作品には絶対必要な存在です。
そしてこの作品の最も記すべきは「テーマ」です。
「指導者に必要なのは暴力ではなく傷つけない守る力だ」
ゆえに主人公ボッジは誰よりも弱い。
これまで少年マンガの主人公はとんでもない「力」パワーを持ち他を圧倒し皆の信頼を勝ち取り絆を深めるという物語を繰り返してきました。弟のダイダはまさしくその主人公の価値観です。そうした主人公はかっこよく単純に憧れの対象になれます。
とはいえボッジのような「非力の主人公」の成長を描く作品もあったはずですが魅力に乏しくまた物語として成立させるのも難しかったのです。
本作もまた困難な道を歩んでいると感じます。
話がまわりくどくなってしまうのです。
強いものが勝つ、というシンプルな魅力と比較して「弱いながらもその弱さを利用して勝つ」ためにはどうすればいいのか、というややこしい話を組み立てないといけないのです。
もちろんこのアニメには原作マンガがあってその複雑な物語を描かれているのでしょう。(私はアニメを楽しみたいために未読です)
このややこしい物語をよくぞアニメ化したものだと感動さえします。
ロシアのウクライナ侵攻の現在ますますこのアニメのテーマは難しいと思えます。
にもかかわらず素晴らしいクオリティの作品として仕上がりつつあることが不思議です。
そしてさらに私は作画に感動しています。
次回それについて書きたいと思います。(実はそこが書きたかったのですがw)