ガエル記

散策

『POSE』Netflix

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以前といってもかなり昔になってしまいましたけど、いわゆるLGBT系の映画小説マンガなどに浸りこんでいました。その頃はLGBTと言う言葉はなかったしBLという言葉すらありませんでした。

物語は主人公の目覚めから自分を認めてくれない世間や家族との葛藤差別意識とへの不満や反抗と言う題材が繰り返されることになります。

時を経て次第に世界が変わってきました。アメリカやヨーロッパではLGBT作品は当たり前のようになっていき、アジアでもその傾向は強まっています。それらと比較すると日本はまだまだ未熟ですがそれでもLGBTと言う言葉が作られ浸透してきました。

そうなるとどういうものか私はあれほど観てきた読んできたLGBT作品から離れだしてしまいました。

なぜでしょうか。

認められ始めた今となってはその題材が「売れる要素」として確立したもののその内容はありきたりで見る価値が少なくなったように思えてきたからです。

特に「女装」という分野で「心は女性」という表現に懐疑を感じてしまいます。

 

ネットフリックスでPOSEと言うドラマを見つけた時も「また女装」の話か、と思ったのですがつい観始めてしまうと面白さに惹きこまれてしまいました。

なぜこうも面白いのか、まだよくわかりません。

題材としてはよくあるもの、なのかもしれません。

1980年代末、認められはしないが隆盛していたゲイカルチャーを恐怖に陥れたエイズが蔓延していきます。

そんな時期週末のNYで華やかに開催されていた「ボール」の世界を描いています。

私はドラァグクイーンは知っていても「ボール」の存在は知りませんでした。

何らかの題目を決めてコスチュームをまといパフォーマンスを競う。優勝者は称えられますが、だからと言ってそれが収入になるわけでもなく与えられるのは名誉だけ、のようです。

ドラァグと違いこちらは黒人やスパニッシュの文化なのでしょうか。

彼ら彼女らは決して裕福ではない、どころか明らかに貧しい環境の人々です。ボールの常勝ハウス(チームをそう呼ぶ)のマザー(リーダー)である女王然としたエレクトラでさえ所詮収入は裕福な白人男性からの援助に頼っています。エレクトラのハウスが住む部屋でさえ高級なマンションではないことは一目見てわかります。一番の彼女ですらそうなのですから彼女に反抗して新しいハウスを作ろうとするブランカのアパートはもう見るからに貧弱なのです。

彼女たちは普段はネイリストや男たちに体を見せることで稼ぎ週末の「ボール」にすべてを賭けて生きているのでした

 

途中までそれでも整形や泥棒までしてボールで優勝しようとする行動に哀れを感じて中断しようと何度もしましたがシーズン1を観終わりました。

いやこれは単なるLGBT作品ではなくそして昔を懐かしむだけでもなくボールの華やかさを楽しむだけでもないと気づきました。

それはなんでしょうか。

白人男性だけしか入れない人気ゲイバーで酒を飲もうとするブランカの話があります。ブランカは褐色の肌で女装をしています。「女はお断りだ」と文字通り放り出されてしまうブランカは何度も店に入りとうとう警察に捕まってしまうのです。

「社会には段階がある。女、同性愛者は差別されるけれど私たちはそれ以下の存在」

親兄弟からも追い出された彼はブランカと言う女性となって「ハウス」を作るのです。

「ここには追い出された子供たちが集まれるように」

これは今も必要な「場所」なのではないでしょうか。

ブランカは「ハウス」を作り「マザー」となって寄る辺ない子供たちを受け入れ「家族」を作りました。

ブランカを「妹」と呼ぶプレイ・テルはそこは「ホーム」だと最後に語ります。

偶然出会っただけの人々が何度もケンカしぶつかり合いながら家族を築いていく物語に見入ってしまったのです。

 

特に私が惹かれたのは美しいエレクトラです。

背が高く素晴らしい肉体を持つエレクトラはその精神も気高く気性が激しいのですがそれゆえに冷酷なところもありました。

「私が街を歩けば白人女と同じように扱われるのよ」という台詞は悲しく響きます。

そんなエレクトラが白人男に見放されどん底に落ちてしまったのを救うのがかつて争ったブランカでした。

最優秀のマザーに選ばれたブランカを称えるエレクトラ

「最優秀のマザー」なんだか泣けてきます。

 

ギリギリでやっと生きている彼女彼らが一瞬だけ輝くボールの世界。

それは白人たち社会には何の意味もないのです。

エンジェルを愛した白人男もその世界を垣間見て具合を悪くしてしまいます。彼にはその世界の意味がわからないのです。

ただエンジェルの謎めいた美しさに惑わされただけなのです。それに気づいたエンジェルは彼との別れる決意をします。

エンジェルにはボールが必要だったのです。

 

さて私たちの私の「ボール」は何なのでしょうか。

カテゴリーは?

解き放って。

輝いて。

POSE。

 

ビリー・ポーターの声が響いてきます。

 

最近ずっと学んでいる安冨歩教授の「子どもを守る」はこんな答えもあるように思えました。

『マイケル・ジャクソンの思想』安冨歩 その2「ウィズ」

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ダイアナ・ロスがドロシーを演じる黒人版『オズの魔法使い』である『ウィズ』でマイケル・ジャクソンはかかしを演じています。

 

安冨歩著『マイケル・ジャクソンの思想』は昨日書いたように主に『ライブ・イン・ブカレスト』に基づいて分析されているために『ウィズ』でのマイケルはおまけ的に記されています。

私は今回初めてこの作品を観ることになりました。

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

DVDには1978年製作と書かれていますから演じた当時マイケルはまだ10代です。映画ではかかしのメーキャップをしていますからその素顔を観ることはできませんが黒く塗られた鼻はまだ大きく細長い手足はかかしにぴったりで微笑ましい。マイケルのプロフィールには父親から「デカ鼻」と言われて傷ついた、と書かれていて後にその鼻は怖くなるほど細くとんがっていくのですがこの頃のマイケルの生来のもの、と言っていいのでしょう。

 

かかしは自分の体に詰め込まれている本の切れ端から多くの賢者の知恵を学んでいるのですがそれでも自分には智慧が無いと悲しんでいます。そして括りつけられた木から外して欲しいと周囲のカラスに頼むのですがカラスたちはそんなかかしを嘲笑い「なぜそんなことを願うんだ?」と問いかけます。

マイケル演じるかかしは悲し気に「自分でこの庭を歩いてみたいんだよ」と答えるのでした。

 

安冨氏の「ウィズ」評は短いものですがとても重要な内容です。

マイケルはこの作品を当時恋人だったテイタム・オニールを誘って一緒に観ようとしたのですが彼女のマネージャーに「黒ン坊と一緒に行ってはいけません」と言われ絶望した、と氏は書いています。

マイケルがそれから以降異常なほど整形を繰り返し色が白くなっていくことには様々な理由があげられていきます。ケガをしたとか色が白くなる病気であるとか。もちろん本当の原因がなんなのか私にわかるわけもないのですが父親の言った「デカ鼻」という黒人に特徴的な外見への罵倒(日本人なら「鼻ぺちゃ」が多いのですが)と青春時代の恋人との別れが人種差別(黒ン坊)からくるものだったという事実が整形の原因ではない、とはとても思えないのは確かです。

 

『ウィズ』でメーキャップの間から見えるマイケルの表情は何と愛らしいのでしょう。内気で繊細で智恵に憧れ自分の足で歩きたいのだと願うかかしはマイケルそのものとしか思えません。

このままのマイケルが、整形することなく歩き出したマイケルが「恋人」として認められたのだったら・・・今更言っても詮無いたらればを願ってはいけないでしょうか。

ダイアナ=ドロシーに助けられたマイケル=かかしが初めて動かした危うい足どりで踊り歌いながらウィズへの道を進みだすこの場面はすばらしいのです。

マイケルは「ほんとうにかかしなのでは?」と思えるほど手足がぶらぶらに細長くて「歩いていく」というだけの動きがこれ以上ないほど楽しく惹きつけられてしまいます。

安冨さんは『ウィズ』があまりお気に召さなかったようですが、私はかなり楽しめました。「もともとミュージカルが好きでない」と言う安冨さんには気の毒ですが私はミュージカルは好きな方です。

オズを都会風にする、というのも魅力的なアイディアと思えないとも書かれていますが、これは安冨さん自身がずっと都会で暮らしてこられたからとは言えないでしょうか。

田舎町に住む私はオズ=ウィズの世界が「都会」というのはとても良いように思えました。

 

さて再びマイケルについて語りたいと思います。

昨日も書いたようにこれほど魅力的で才能にあふれたマイケルがなぜ異常な状態へと突き進んでしまったのか、私は残念でたまらなかったのです。

奇妙な整形を繰り返したマイケルは最後にはもう人間の姿をしてはいなかった、と私には見えました。

上手くいかない結婚もなぜ彼は繰り返さずにはいられなかったのか。彼の子供たちの存在はいったい信じられるものなのか?

マイケルはほんとうに小児性愛者で小さな少年たちに性的虐待を繰り返していたのでしょうか。

マイケルにまつわる謎と疑惑はあまりにも多すぎます。

その一つ一つが否定され納得しがたい返答がされるごとにマイケル・ジャクソンという偉大なアーティストが破壊されていくと感じて悲しくなり長く彼の作品から離れてしまっていました。

 

時間を経て、安冨歩教授の思索を知り著作を読んでもう一度マイケル・ジャクソンについて考えてみようと思えました。

教授はご自身の経験も含めて虐待された子供たちの精神がどんなに歪められその人生が破壊されてしまうのかを語られてきました。

マイケルの疑惑の中で最も恐ろしいのはやはり子供たちへの虐待です。

マイケル自身が親から肉体的にも精神的にも虐待を受け傷ついてきたという事実があります。人種差別で苦しみ愛する人と引き裂かれてしまったのも事実なのです。

彼は多くの作品でそのことを語り「そんな世界を変えていこう」と歌い世界中の人の心を変えていきましたが自分自身の心は変えることができなかった。それほど子供時代の傷は癒えないものなのだとしか言えません。

 

マイケルは世界の多くの人を救ったのに自分を救うことはできなかった。そして悲しいことに彼に関係した子供たちは彼の犠牲になってしまったのです。

 

これを書いている時にヴァーツラフ・ニジンスキーを思い出しました。

ロシアの偉大な男性バレエダンサーです。私知っている彼の話はハーバート・ロス監督の映画と山岸凉子氏のマンガでのみですが(ほぼ内容は同じでしたが)その中で彼は母親の前で子供とは思えない慇懃な態度をとっていました。母親から厳しい抑圧を受けていたのではないかと推察されるものがありました。

同じ天才でもニジンスキーの場合はマイケルと逆で彼自身がディアギレフという保護者の愛情を求めながらも満たされない思いに苦しみやがては知り合った女性と結婚しディアギレフから去ることになります。

そしてこの天才にはマイケルのように興行を成功し財産を得る才能はまったく備わっておらずただひとり付き添ってくれた妻の傍らで精神を閉ざしてしまう、という最期を迎えてしまうのです。

しかし果たしてマイケルのように活躍し続け手に入れた財産のおかげで夢の国を築くまでになり自身の体を徹底的に改造し続けお気に入りの水だけを飲み、慕ってくる少年たちに歯止めの効かなくなった欲望を向けてしまうというもはや人間ではなくなってしまうのと一体どちらが幸福なのでしょうか。

いやいや、どちらも幸福、などとは言えません。

いったい彼らはどうしてそこまで極端に走らざるをえないのでしょう。

 

安冨氏は別のところで「子供時代に強い抑圧を受けた者はとてつもない力を生み出してしまう」と言われていました。

その「とてつもない力」とは決して幸福なことではないのです。

例えばあのヒットラーも父親から激しい暴力で躾けられてきたと言います。そうした抑圧を跳ね返して生きていくには同じように激しい暴力が必要となってしまうのです。

そしてそれが何らかの才能と組み合わさった時、その力はとてつもないものになっていくのでしょう。

ヒットラーは独裁者とまで言われる権力を手に入れ怖ろしい惨劇を生み出してしまいました。

ニジンスキーは人間を超越したバレエを手に入れ自らの精神を閉じてしまいました。

マイケルはすばらしい音楽とダンスで世界中を魅了し多大な財産と名誉を手に入れましたが彼自身の体と精神を破壊しつくしてしまったのです。

あれほど愛を歌い子供たちを守ろうとし、自分の中に答えがある。自分自身を変えていこう、と語りかけ多くのファンがそれを実行していったのに彼自身は子供を傷つけ続けたのです。

小さい頃のマイケルを、そして10代の時の彼を救うことができたなら彼はもうスーパースターにはならなかったのかもしれません。若い頃ちょっとだけ人気になった普通のお父さんになっていたかもしれません。

それは許されることではなかったのでしょうか。

 

自分のこども(どういう形であれ)を高い窓から差し出したマイケルの姿は忘れられそうにありません。

少年たちの訴えが真実かどうかわからない、とは私はもう思えなくなってしまいました。『ネバーランドにさよならを』を二人の告白は虚偽ではないのでしょう。

 

恐ろしくなってしばらく私はマイケルから離れていましたが、再びその姿を見、歌を聞こうと思います。

安冨歩さんの言葉は私を勇気づけてくれました。

「こどもたちを守らなきゃいけない。そのことが世界を救うのだ」

マイケルも守ってあげたかったです。

 

 

そっと追記ですが、安冨歩さんご自身も深く傷ついた方なのだなと思っています。

余計な心配かもしれませんが安冨さんのいう「女性装」はやはり「男らしさを求めた母親」への反逆、であるのだろうなと思っています。

でもとても綺麗で素敵だし反対する必要などないことです。思い切り女性装を楽しんで欲しいです。

「一月万冊」の清水さんも子供時代の傷をどうしても癒せない方なのだなあと思います。癒せたときにあの怒涛の動画も終わるのでしょう。

 

「欲しいものはすでに自分の中にある」という『ウィズ』の言葉はすばらしいけどなかなかそれを見つけるのは難しいものなのです。

 

彼を成功に導いたディアギレフからは同性愛的な要求を受けていたと思われ

しかしニジンスキー

『マイケル・ジャクソンの思想』安冨歩

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マイケル・ジャクソンが1992年10月に行ったブカレストのライブを中心に収録されたライブDVDからの考察でありました。

 

急遽このDVDを購入して読みました。

 

以下ネタバレになりますのでご注意を。

 

 

購入する際amazonでのレビューが目に入りました。もともと安冨教授の著作を読むための購入なのでレビュー評価は関係はないのですけれど。

そこに書かれていたのは「とにかく編集が酷い。マイケルのパフォーマンスを見たいのにすぐに観客に切り替えてしまう。歌が始まってマイケルをじっくり観たいのに何度も観客の大きな口を見せられてしまう」という主旨の不満でした。特別な理由がなければ購入を止めてしまいそうですね。

事実購入したDVDではマイケルの姿以上に観客の叫ぶ姿、感極まって失神しスタッフに連れ出される姿恍惚となってマイケルに向かって手を伸ばしその名を呼び泣き出し悶え狂う大勢の白人の姿がこれでもかと映されています。確かにマイケル自身より騒ぐ観客の映像が多いようにすら感じてしまいます。

 

しかしそんな不出来のDVDを安冨教授は何故題材にしたのでしょうか。

それは著作を読み始めればすぐにわかります。

 

それは「はじめに」の部分ですでに書かれています。

 

マイケル・ジャクソンは救世主である

 

救世主という言葉はよくスターに掲げられるコピーですが、マイケル・ジャクソンはまさしくそのとおり

「神の言葉を告げる預言者

であり彼自身そうであろうとしたに違いありません。

そしてこのDVDはマイケルが「世界を幸福に導く預言者としての軌跡」の記録として作り上げたのです。

そのためにもマイケルはこのDVDに単純に自分のパフォーマンスを映すだけでなく観客がどれほどマイケル・ジャクソンという預言者を崇め信奉し酔い痴れたかを記しておきたかったのです。

 

ですから「編集が酷い」という感想は本人にとっては残念ながらそうであったとしてもマイケルの目的としては見当違いなのです。

DVDはライブ・イン・ブカレストと題されながらも他の映像まで切り張りで編集されているようなのですがそこまでしてマイケルは完璧な「救世主としての記録」を製作したかったのでしょう。

私が上に

「マイケルに向かって手を伸ばしその名を呼び泣き出し悶え狂う大勢の白人の姿」

と書いたのも奇妙な表現なのではなくマイケルにとって

「白人たちが自分を救世主として崇める」

という構図は絶対必要なものでした。

しかもその白人たちは黒人であるマイケルを求めて狂ったように泣き叫んでいるのです。

ライブ中ステージに招き上げられマイケルに抱きしめられた少女は離れたくないとすがりつきスタッフに担ぎ上げられてしまいます。

安冨氏によるとこの映像も別のライブの切り張りとのことですが、それは実際のブカレストの少女がすんなり客席に戻ってしまったためより表現の激しいその映像を使ったというわけです。それほどまでマイケルは人々が自分を求めているという記録を残したかったのです。

 

なんとなくマイケルが過剰に自分をカリスマに作り上げているという文章を書き続けてしまいましたが、マイケルがそこまで自分の評価を高めたかったのは今現在のアメリカのいつまでも終わらない黒人差別と暴動を見れば当然とも思えます。

「あの娘が消えた」「ブラックオアホワイト」にはマイケルとテイタム・オニールとの失恋が関わっていると安冨氏は記します。

マイケルの初めての本格的デートの相手はテイタムという愛らしい白人の女性でライブステージで抱きしめる女性も白人が多かった、というのもマイケルの志向する愛情がどこであるかを語っていると思えます。

 

ここで語るのもはばかられますがマイケルが小児性愛で訴えられた映像でも相手の少年がほとんど(もしかしたら全部?)白人それも色素の薄い子ばかりだったように思えます。一番の話題となったマコーレー・カルキン君は綺麗な金髪の少年でした。

 

さらに安冨著から離れますがマイケル自身が漂泊したように色が白くなっていったのはどういう考えだったのでしょうか。思うと心が痛みます。

 

マイケル・ジャクソンの思想』で安冨教授は書き記します。

「小さな場所を作り、より良い場所にしよう」

これが世界を変えるためのマイケル・ジャクソンの革命の戦略である。

と。

すばらしい言葉であり真実だと私も思います。

さらに安冨氏はマイケル・ジャクソン革命は「子ども革命」であると語り、DVDのマイケルは世界をより良くしていこう!と高らかに謳い上げていきます。

 

安冨歩氏は当時のブカレストー独裁者チャウシェスクを打倒したばかりのルーマニアが迎えたマイケル・ジャクソンコンサートがいかに人々特に若者の心を打っただろうか、と思いを寄せます。

彼らにとってマイケルのコンサートは自由と平等と平和を謳い表現したそのものだったに違いありません。

怖ろしい独裁政権後のその衝撃がどれほどだったのか。

マイケルはそうした彼らの表情を留めておきたかったのです。自分を救世主として観た彼らの眼差しと感激は演出できるものではなかったのです。

だからこそこのDVDはマイケルの姿以上に観客が映されているのです。

 

そしてライブの最後の歌は「マン・イン・ザ・ミラー」

世界をより良くしたいなら自分自身から変えていくことだ

 

巨大な宗教儀式の最後にふさわしい歌です。

 

しかしこの歌をマイケルはどんな気持ちで歌っているのでしょうか。

 

安冨氏の『マイケル・ジャクソンの思想』には彼の世界平和への思想が記されていました。

同時に彼が子供時代に虐待を受け続けていて同じような子供たちを守りたいというマイケルの思いも。

 

そのマイケルが反面子どもたちをとっかえひっかえ性的虐待していた事実をどう受け止めればいいのでしょうか。

彼らの苦しみは世界中の平和のための生贄としなければならないのでしょうか。

 

以前マイケルが我が子をーまだ赤ん坊だった我が子を高いビルの窓から差し出したことがありました。

あの出来事がなんだったのか、私にはわかりません。しっかり抱きかかえていたから大丈夫、という説明で納得できる事件ではありませんでした。

 

偉業を成し得た天才はその引き換えとして精神を破壊されてしまうのでしょうか。

ライブ・イン・ブカレストは本当に感動的なDVDです。マイケルの凄さは記録されました。

でも最後に自分が歌う歌の意味を彼が理解できていたのか、思想と行動は別のものになってしまうものなのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

まだまだ続くコロナライフ

コロナはまだまだ収まる気配はなく冬を迎えた時にどうなっていくのかの不安もあります。

長かった安倍政権がポンポン痛いであっけなく終わりを告げ菅政権となってから微妙にいろいろなことが動き出した気がします。

 

経済は落ち込み引きずられるように人間性にも疑問を感じてしまう現在の日本社会が変化していけるはじまりになるのかもしれないと願ってしまうのは愚かでしょうか。

 

もともと外出することはほとんどなく旅行だとか外食だとかナイトライフだとかまったく楽しみとしていなかった私はコロナ生活はほとんどいつもと変わらないものなのですがより確立してきた感があります。

 

ここでも何度となく書いてきましたが以前よりもYouTube依存が大きくなっています。

以前はまっていた岡田斗司夫さんを今はあまり観なくなってしまいました。

最近の岡田氏の題材選択があまりにも宮崎駿氏に偏るのと『バックトゥザフューチャー』などの好みじゃないものが増えてきたせいもあります。

 

現在観続け(私の場合聞き続けに近いのですが)ているのはデイブ・フロム、ひろゆき、一月万冊、時々宮台氏の対談などですがこれに最近「ミルクティー飲みたい」さんが加わりました。


カルマとは何か??

年を取ってくると20代という若い人の話はなかなか聞き続けるのは辛いものがあります。

どうしても聞いたことがある感になってしまうのですがミルクティーさんの話はそれを超える深いものがあると思います。ダレないように編集を工夫されているのも聞ける理由ですね。

また差別的や偏見のある表現がほとんどないのも聞きやすくてほっとします。

 

後は圧倒的に聞いてしまう「一月万冊」ですね。清水有高さんの怒涛の動画アップのせいもありますがやはり内容の濃さ高さは今断トツでありますね。

特に安冨歩教授との対談は聞くたびに新しい発見をさせてもらえるというとんでもない貴重な時間になっています。

 

マンガで新しく読むのは単行本になってからの『進撃の巨人』だけになってしまいました。

アニメは新しい楽しみは今はなくてネットフリックスで『輪るピングドラム』を観ているだけです。

ネットフリックスに久しぶりに加入したのですがこれといって観たいものが見つからなくて凹んでいます。

話題の「日本沈没」や韓国ドラマをチラリと見たのですが先に進む気持ちが持てません。結局『ザ・クラウン』の続きを観たのと『ネバーランドにさよならを』を観て途方に暮れています。

YouTubeよりも見る気が起きないネットフリックス。

アイリッシュマン』も進めなかった。

 

地域の図書館がもう少し充実していると不満などないのですがなにしろ蔵書が少ない・・・読みたいと思うものがなにもない・・・大げさですがそんな感じです。

『パチンコ』が入っていたのでそれだけは嬉しかったですが。

一月万冊で紹介される本が図書館で読めると良いのですがあった試しがないのです。

 

テレビは本当に観なくなってきました。少し前はニュースだけは、と思っていたのですが9月の番組編成でそのニュースまでもう観るものがありません。

今にただの箱になってしまうでしょう。

 

 

 

『ネバーランドにさよならを』ダン・リード

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大好きだったマイケル・ジャクソンを偲び安冨歩著『マイケル・ジャクソンの思想』を読んで彼の解析を学ぼうとしている時にこのドキュメンタリーを観るのはどうなのだろうかという迷いはありました。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

この映像は二人の白人男性が少年期(7歳から14歳までと10歳から14歳まで)にマイケル・ジャクソンから性的虐待を受け続けていた、という告発のドキュメンタリーです。

無論私はマイケルが訴えられていたことは知っていましたがこの映像についてはまったく知ろうとしていませんでした。

なのでこの映像自体怪しいものなのではないかとすら思っていました。

マイケルが小児性愛者であることはこれまでの情報から確実だとしてもその被害を訴える人物とそのドキュメンタリー作品が真実であることは別の話であると思えたからです。

しかしこれは、これこそがマイケル信奉者(実際の被害者も含む)の陥るカリスマの魔力、威力なのでしょう。私も心の中ではマイケルが子供を傷つけるような人間ではないと信じたかっただけなのでした。いつもは性虐待者に対して怒る私も彼に対してだけは目をつぶりたかったのです。

 

私はこの映像が馬鹿々々しい戯言であることを願っていたのです。賠償金目当てで冤罪を吹っ掛けマイケルを罵る醜い表情が映し出されるのを信じていたのですが、告発をした二人の男性とその家族の言葉は非常に心のこもったものでしかありませんでした。

 

4時間ほどもあるドキュメンタリーが始まってかなりの時間、疑惑の人物たちの告白を聞いているだけの苦行を強いられますが、次第にこれは思っていたのとは違うと気づきました。

彼らの発言がずっとマイケルへの尊敬に満ちた好意が核心にあるのは変わらないのです。マイケルが彼らに虐待を続けていく時点にきても彼らは誠実であるのを感じてから真剣に観てしまいました。

 

悲しいドキュメンタリーでした。

彼らは幼い少年でしかありませんでした。

マイケルが大好きで尊敬し神とも崇めていたのです。マイケルの格好をし、彼のダンスをマスターしてメディアでもてはやされマイケルの目に留まったのです。

二人とも白人で非常に愛らしい容姿をしていました。子供のことなので家族が認めてくれなければどうしようもないわけですが双方ともに母親がマイケルに対して尊敬と愛情を持っていました。もしここで人種差別の感情があったのなら進展はなかったのです。

ひとりの母親はマイケルを自分の子のように愛したと言っています。

もうひとりは我が子をダンサーとしてマイケルに売り込みたかったと。これは母親としてよくある話です。

マイケルは二人の母親のそんな気持ちを利用して彼女たちの息子を自分の家に引き込んだのです。

 

このドキュメンタリーはどうしてこうも長いのでしょうか。

それは小児性愛者が非常に手に入れにくい他人の子供を安全に引き入れる過程が細かく説明されるからです。

家族ごと信用させたマイケルは疑念をおこさせることなく少年たちを「ネバーランド」に引き入れました。

少年たちは互いに会うことはなかったため(これも巧妙に仕組まれていたのです)マイケルとひとりの少年だけの濃密な関係が築かれます。

広大な土地に遊園地まである夢の国「ネバーランド」で少年は思う存分遊び、そしてマイケルから性愛を教えられたのでした。

そしてマイケルは「このことがバレたらふたりとも一生刑務所に入らねばならない」とも教え込みます。

これはナボコフ『ロリータ』でハンバート・ハンバートがロリータを脅した言葉と同じです。

ロリータの気持ちは小説に書かれることはありませんでしたが二人の少年はふたりとも「マイケルを刑務所に行かせてはならない」と誰にも言わなかったのです。

そして虐待を受け続けた数年間ふたりともそのことを嫌だとも思わずただただマイケルから愛されていることを嬉しく思い声を掛けられることを待ち続けていたというのです。

しかし彼らは「成長」という当たり前の現象が待ち構えていました。

それでなくともマイケルの側には一年に一度新しい少年が加わることに母親は気づいたと言います。

ふたりは次第に遠ざけられマイケルから声がかかることがなくなったのですが、そのことをふたりは「新しい少年の出現に嫉妬し苦しんだ」と言うのです。

 

結局ふたりとその母親たちはマイケルと家族になれるわけでもなく出世の糧になることもなかったのです。

 

それからのふたりの男性の苦しみを私は想像するなどできないでしょう。

ふたりともやがて女性と愛し合い結婚し子供が生まれるのです。

生まれた子は男の子であの時の年齢に近づくほど心が苛まれると言います。

母親たちは我が子をマイケルに近づけてしまったことを悔やみ続けます。

彼と触れ合った数年が彼らの一生を変えてしまったのです。

 

このドキュメンタリーは彼らからだけの告白でマイケル側のものはありません。

それは作品として正しい選択だっと私は思います。

彼らは今でもマイケルを尊敬し愛し、だからこそ辛く悲しいのです。

せめて彼らが愛する人と出会え家族を作れたことに安堵します。

 

マイケル・ジャクソン

安冨歩著『マイケル・ジャクソンの思想』を読む予定なので予習としてマイケルの動画をYouTubeで観ていたらそれだけでもう泣けてきました。

 

安冨さんはマイケルの逝去を聞くまで彼を知らなかったとどこかで言われていましたが、私はどっぷりはまりこんでいました。

とはいえ、彼の音楽やダンスをコピーしていたわけではないし深く彼の作品を分析したこともなくただただ聞き惚れ見惚れていただけでしたので安冨氏が彼の解析をした本を書いているのを知ってとても読みたくなったわけです。

 

そのために彼の歌を聞き返しそのダンスを見返してみましたがその姿はあまりにも繊細で美しく歌声は染み入るように感じます。

「スリラー」で好きになったという一般的ファンの私ですがその時これ以上ないほどステキだった彼が見るごとに変貌していくのは辛いことでした。

何故彼は変化し続けなければならなかったのでしょうか。

そしてそんなに変わってしまってもやはり歌い踊るマイケルはすばらしくて。だけどそれでもマイケルがすばらしくあるほどよけいに悲しくもありました。

 

マイケルは愛を求めてそれを願いながら、ついにその願いはかなわないままだったのでしょう。

今もなおアメリカでは人々は苦しみ続けています。

 

そしてこの日本でもまた同じく。

 

それにしてもマイケルの歌とダンスはなぜこうも人の心を惹きつけるのでしょうか。

 

『ザ・クラウン シーズン3』

第8~10話

チャールズとカミラの出会いと恋。

マーガレット夫妻の不倫騒動。

 

現代王室のスキャンダルをここまで描いてしまうとは、日本の事と重ね合わせれば考えられもしないことです。

特にマーガレット王女の話は女性のエピソードとして破格に過ぎるものでしょうけどそれをエリザベス女王との姉妹の物語として収束させていく手段はとても上手く共感させられました。

 

チャールズとダイアナの結婚を知っている者たちにとってはカミラさんとチャールズの不倫話はえっと驚くものだったはずです。

カリスマ的アイドルだったダイアナ妃の見惚れる美貌と違ってすでにカミラさんは年齢も経ていた上に美女とは言い難い方でありました。

しかし誰しも「以前」というものがあるわけでした。

 

そして愛する者たちを引き裂くとどういうことになるのか、という歴史はくりかえされてしまいます。

 

現在の王子たちの選んだ相手がそれまでの王室が望むような肩書ではないとしても出来得る限り受容されてきたのはそういうことなのでしょう。

 

などと思ってしまいました。

 

それと比較して日本人の一部の人たちは・・・・まあこのドラマを観るべきと言いたいのですが、観ても理解できない方々であることは確かでしょうね。