ガエル記

散策

『マイケル・ジャクソンの思想』安冨歩 その2「ウィズ」

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ダイアナ・ロスがドロシーを演じる黒人版『オズの魔法使い』である『ウィズ』でマイケル・ジャクソンはかかしを演じています。

 

安冨歩著『マイケル・ジャクソンの思想』は昨日書いたように主に『ライブ・イン・ブカレスト』に基づいて分析されているために『ウィズ』でのマイケルはおまけ的に記されています。

私は今回初めてこの作品を観ることになりました。

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

DVDには1978年製作と書かれていますから演じた当時マイケルはまだ10代です。映画ではかかしのメーキャップをしていますからその素顔を観ることはできませんが黒く塗られた鼻はまだ大きく細長い手足はかかしにぴったりで微笑ましい。マイケルのプロフィールには父親から「デカ鼻」と言われて傷ついた、と書かれていて後にその鼻は怖くなるほど細くとんがっていくのですがこの頃のマイケルの生来のもの、と言っていいのでしょう。

 

かかしは自分の体に詰め込まれている本の切れ端から多くの賢者の知恵を学んでいるのですがそれでも自分には智慧が無いと悲しんでいます。そして括りつけられた木から外して欲しいと周囲のカラスに頼むのですがカラスたちはそんなかかしを嘲笑い「なぜそんなことを願うんだ?」と問いかけます。

マイケル演じるかかしは悲し気に「自分でこの庭を歩いてみたいんだよ」と答えるのでした。

 

安冨氏の「ウィズ」評は短いものですがとても重要な内容です。

マイケルはこの作品を当時恋人だったテイタム・オニールを誘って一緒に観ようとしたのですが彼女のマネージャーに「黒ン坊と一緒に行ってはいけません」と言われ絶望した、と氏は書いています。

マイケルがそれから以降異常なほど整形を繰り返し色が白くなっていくことには様々な理由があげられていきます。ケガをしたとか色が白くなる病気であるとか。もちろん本当の原因がなんなのか私にわかるわけもないのですが父親の言った「デカ鼻」という黒人に特徴的な外見への罵倒(日本人なら「鼻ぺちゃ」が多いのですが)と青春時代の恋人との別れが人種差別(黒ン坊)からくるものだったという事実が整形の原因ではない、とはとても思えないのは確かです。

 

『ウィズ』でメーキャップの間から見えるマイケルの表情は何と愛らしいのでしょう。内気で繊細で智恵に憧れ自分の足で歩きたいのだと願うかかしはマイケルそのものとしか思えません。

このままのマイケルが、整形することなく歩き出したマイケルが「恋人」として認められたのだったら・・・今更言っても詮無いたらればを願ってはいけないでしょうか。

ダイアナ=ドロシーに助けられたマイケル=かかしが初めて動かした危うい足どりで踊り歌いながらウィズへの道を進みだすこの場面はすばらしいのです。

マイケルは「ほんとうにかかしなのでは?」と思えるほど手足がぶらぶらに細長くて「歩いていく」というだけの動きがこれ以上ないほど楽しく惹きつけられてしまいます。

安冨さんは『ウィズ』があまりお気に召さなかったようですが、私はかなり楽しめました。「もともとミュージカルが好きでない」と言う安冨さんには気の毒ですが私はミュージカルは好きな方です。

オズを都会風にする、というのも魅力的なアイディアと思えないとも書かれていますが、これは安冨さん自身がずっと都会で暮らしてこられたからとは言えないでしょうか。

田舎町に住む私はオズ=ウィズの世界が「都会」というのはとても良いように思えました。

 

さて再びマイケルについて語りたいと思います。

昨日も書いたようにこれほど魅力的で才能にあふれたマイケルがなぜ異常な状態へと突き進んでしまったのか、私は残念でたまらなかったのです。

奇妙な整形を繰り返したマイケルは最後にはもう人間の姿をしてはいなかった、と私には見えました。

上手くいかない結婚もなぜ彼は繰り返さずにはいられなかったのか。彼の子供たちの存在はいったい信じられるものなのか?

マイケルはほんとうに小児性愛者で小さな少年たちに性的虐待を繰り返していたのでしょうか。

マイケルにまつわる謎と疑惑はあまりにも多すぎます。

その一つ一つが否定され納得しがたい返答がされるごとにマイケル・ジャクソンという偉大なアーティストが破壊されていくと感じて悲しくなり長く彼の作品から離れてしまっていました。

 

時間を経て、安冨歩教授の思索を知り著作を読んでもう一度マイケル・ジャクソンについて考えてみようと思えました。

教授はご自身の経験も含めて虐待された子供たちの精神がどんなに歪められその人生が破壊されてしまうのかを語られてきました。

マイケルの疑惑の中で最も恐ろしいのはやはり子供たちへの虐待です。

マイケル自身が親から肉体的にも精神的にも虐待を受け傷ついてきたという事実があります。人種差別で苦しみ愛する人と引き裂かれてしまったのも事実なのです。

彼は多くの作品でそのことを語り「そんな世界を変えていこう」と歌い世界中の人の心を変えていきましたが自分自身の心は変えることができなかった。それほど子供時代の傷は癒えないものなのだとしか言えません。

 

マイケルは世界の多くの人を救ったのに自分を救うことはできなかった。そして悲しいことに彼に関係した子供たちは彼の犠牲になってしまったのです。

 

これを書いている時にヴァーツラフ・ニジンスキーを思い出しました。

ロシアの偉大な男性バレエダンサーです。私知っている彼の話はハーバート・ロス監督の映画と山岸凉子氏のマンガでのみですが(ほぼ内容は同じでしたが)その中で彼は母親の前で子供とは思えない慇懃な態度をとっていました。母親から厳しい抑圧を受けていたのではないかと推察されるものがありました。

同じ天才でもニジンスキーの場合はマイケルと逆で彼自身がディアギレフという保護者の愛情を求めながらも満たされない思いに苦しみやがては知り合った女性と結婚しディアギレフから去ることになります。

そしてこの天才にはマイケルのように興行を成功し財産を得る才能はまったく備わっておらずただひとり付き添ってくれた妻の傍らで精神を閉ざしてしまう、という最期を迎えてしまうのです。

しかし果たしてマイケルのように活躍し続け手に入れた財産のおかげで夢の国を築くまでになり自身の体を徹底的に改造し続けお気に入りの水だけを飲み、慕ってくる少年たちに歯止めの効かなくなった欲望を向けてしまうというもはや人間ではなくなってしまうのと一体どちらが幸福なのでしょうか。

いやいや、どちらも幸福、などとは言えません。

いったい彼らはどうしてそこまで極端に走らざるをえないのでしょう。

 

安冨氏は別のところで「子供時代に強い抑圧を受けた者はとてつもない力を生み出してしまう」と言われていました。

その「とてつもない力」とは決して幸福なことではないのです。

例えばあのヒットラーも父親から激しい暴力で躾けられてきたと言います。そうした抑圧を跳ね返して生きていくには同じように激しい暴力が必要となってしまうのです。

そしてそれが何らかの才能と組み合わさった時、その力はとてつもないものになっていくのでしょう。

ヒットラーは独裁者とまで言われる権力を手に入れ怖ろしい惨劇を生み出してしまいました。

ニジンスキーは人間を超越したバレエを手に入れ自らの精神を閉じてしまいました。

マイケルはすばらしい音楽とダンスで世界中を魅了し多大な財産と名誉を手に入れましたが彼自身の体と精神を破壊しつくしてしまったのです。

あれほど愛を歌い子供たちを守ろうとし、自分の中に答えがある。自分自身を変えていこう、と語りかけ多くのファンがそれを実行していったのに彼自身は子供を傷つけ続けたのです。

小さい頃のマイケルを、そして10代の時の彼を救うことができたなら彼はもうスーパースターにはならなかったのかもしれません。若い頃ちょっとだけ人気になった普通のお父さんになっていたかもしれません。

それは許されることではなかったのでしょうか。

 

自分のこども(どういう形であれ)を高い窓から差し出したマイケルの姿は忘れられそうにありません。

少年たちの訴えが真実かどうかわからない、とは私はもう思えなくなってしまいました。『ネバーランドにさよならを』を二人の告白は虚偽ではないのでしょう。

 

恐ろしくなってしばらく私はマイケルから離れていましたが、再びその姿を見、歌を聞こうと思います。

安冨歩さんの言葉は私を勇気づけてくれました。

「こどもたちを守らなきゃいけない。そのことが世界を救うのだ」

マイケルも守ってあげたかったです。

 

 

そっと追記ですが、安冨歩さんご自身も深く傷ついた方なのだなと思っています。

余計な心配かもしれませんが安冨さんのいう「女性装」はやはり「男らしさを求めた母親」への反逆、であるのだろうなと思っています。

でもとても綺麗で素敵だし反対する必要などないことです。思い切り女性装を楽しんで欲しいです。

「一月万冊」の清水さんも子供時代の傷をどうしても癒せない方なのだなあと思います。癒せたときにあの怒涛の動画も終わるのでしょう。

 

「欲しいものはすでに自分の中にある」という『ウィズ』の言葉はすばらしいけどなかなかそれを見つけるのは難しいものなのです。

 

彼を成功に導いたディアギレフからは同性愛的な要求を受けていたと思われ

しかしニジンスキー