ガエル記

散策

『 Sonny Boy 』#11「少年と海」夏目真悟

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いよいよ物語も押し詰まってきてちょい悲しい気持ちになっています。

こんな凄い日本製TVアニメを次に観るのはいつになるのでしょうか。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

とややフライング気味です。まだ後一話あるので考察で絶対とは言い難いはずですがやはりこの作品の持つ意味は

 

「現在日本アニメコンテンツへの批判」

 

なのではないでしょうか。

 

というのはたぶん最初の頃にも書いただろうと思うのですが私自身がそういう思いを最近ずっと思い続けていたからです。

「昔の日本アニメはよかった」というわけではありません。技術的には現在のほうが格段良くなっているのは当然です。

コンテンツ数も現在のほうがはるかに多いのですから自然様々なアニメが作られているのは観る者にとって喜ばしいものですがその内容が本当に多岐にわたっているのかと言えばこれは極端に偏っているように思えます。

 

特に暴力とエロチシズム表現の氾濫は日本製アニメの特徴ですがそうした性質が良いことなのかの考察がなされているようには思えません。

 

そして以前の本作考察で私は夏目慎吾監督が特に意識して批判したのが庵野秀明エヴァンゲリオン』作品なのではないかと書いていましたがこの11話を観てより強くそう思っています。

 

主人公たちが飛ばされたこの異世界はいわゆる「アニメ世界」です。

主人公たちは突然「超能力」を持つ特別な人間になることができます。

現実なら何のとりえもない朝風も長良もここでは活躍できるのです。

そしてこの世界は時間が止まっているのですが行動することはできるのです。

様々なアニメがそうですが『エヴァンゲリオン』作品は現実世界では20年経ったのに主人公たちは今でも中学生(少し成長して高校生くらいになった部分もあり)です。

ラジダニに至っては2000年経ったのにまだ中学生として生きています。

そして日本のアニメ作品はほぼ中学生・高校生が主人公で終わっても次また中学高校生です。永遠に中学高校生なのです。観ている人々はほとんどが大人のはずですが何故か主人公は中学高校生なのです。

これは異常ではないのでしょうか。

 

そして描かれるのはエロチシズムと暴力。

そのエロチシズムがセックスから妊娠出産育児に至るわけではなくあくまでエロチシズムでとどまっています。

暴力は常にだれが一番強いのか、酷い目にあわされたから復讐する、といった方向性で表現されていきます。どうすれば暴力を切り離し平和な解決ができるか、という方向性が示されるのは少ないのです。

つまり生活からは切り離された欲望のみの表現なのです。

 

『SonnyBoy』は奇妙な作品です。少なくとも日本製アニメとしては。

魅力的な中学生男女が描かれていくのにそこには「常に求められる」とされる恋愛やエロ表現がありません。

極端に胸を強調された「おっぱい先生」は登場しましたが彼女は朝風の幼児性を表現するためのアイテムでした。

長良は希に惹かれ瑞穂とも仲良くなりますが同志であり良い友達、という関係として描かれていきます。

ラジダニの存在も他ではあまりないものです。

そもそも日本舞台の中学高校生アニメでは外国人が描かれません。

実際には留学生も含め日本にいるはずなのに存在しないのです。特にアジア人は少ないでしょう。

しかし他のレビューを見てもラジダニの人気はかなりのものです。ラジダニのキャラデザインも希少だと思います。

こうしたキャラ造形はもっと増えるべきだと思っていますし、実際に人気が出るのです。

 

エロも暴力も描かずしかも面白い、そんなTVアニメを夏目監督は発表してしまいました。

そして希の死。

これはさすがに最終回を観ないと断言はできません。

しかし作品のヒロインが劇的でもなくあっさりと死んでしまう、そんな作品でもあります。

 

一番の謎はどうして今この作品をほぼ無名の(失礼)夏目監督が連続TV放送枠で製作できたのか、です。

マンガ原作のアニメ化が主流の日本アニメ界でオリジナル作品を制作するのは至難のはずです。確かご本人も「最初で最後」のようなことを言っておられたと思います。

が、この作品が起爆剤となってオリジナルでも素晴らしい作品ができ視聴率も出せると認識されたら。

もちろんそれらオリジナル作品が本作のように素晴らしいものとは限らないでしょうが。

(しかし好き不好きは別として「けもフレ」の例もあるし)

やや勇み足ながらこれからもオリジナルアニメが(キャラデザはマンガ家でもいいし)作られることを願ってしまいます。

 

 

 

 

 

『輪るピングドラム』幾原邦彦 その5

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第24駅まで再鑑賞終了しました。

今更ながらこの作品は今もっとも観なければいけないもので一番大切なことが描かれていると確信しました。

映画化されるのはほんとうによかった。

もう一度この作品が多くの人に観てもらえて幾原邦彦監督の考えを知ってほしい。

私はリアルタイムで観たのではないのですがこの作品に巡り合えたのは奇跡と思い感謝したいです。

 

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

最期にきて幾原監督の思いが怒涛に渦巻いていきます。それは冠葉の叫び声です。

この世界で見捨てられ苦しめられ飢え傷つき時に死んでいく子どもたち。

今日も絶えることなくそんな報道がなされています。

いったいなぜ私たち大人はそれを食い止めることができないのでしょうか。

 

幾原邦彦はこの物語の様々なキャラクターなのです。

彼は見捨てられた冠葉であり晶馬であり陽毬でもあるのです。

リンゴでもあり多蕗でもありゆりでもあり真砂子でもあるのです。

同時に彼はサネトシでもあり桃果でもあるのでしょう。

この腐った世界を破壊してしまわなければ新しい良い世界などもう作れないのではないかと私自身何度も思いました。

きっと幾原もそう考えたに違いありません。

子どもたちを苦しめるこんな世界など破滅させてしまえと。

しかしそれは正しい方法ではないのです。

そして桃果が生まれ幾原の心の中でふたりは戦い相打ちになったのです。

 

誰かこの世界を救ってくれないだろうか。

 

そこに現れたのが宮沢賢治銀河鉄道の夜』のジョバンニとカムパネルラであり『双子の星』チュンセ童子ポウセ童子だったのです。

ジョバンニとカムパネルラである冠葉と晶馬は自分たちの言葉通り蠍のように自身を赤く焼いて「かわいそうな子ども」陽毬を助けました。

そして陽毬を助けようと自己を犠牲にしたリンゴの代わりにその身を焼きました。

 

他の物語のように冠葉・晶馬が陽毬・リンゴの恋人や夫にならないのは彼らの目的が彼女たちの魂を助け守ることであるからです。

そこに幾原監督の思いが込められています。

 

「ほんとうのさいわいとはなんだろう」

 

この問題を私たちはずっと考えていなければいけませんでした。

ずっとずっと昔に宮沢賢治はこの命題を私たちに示してくれたのに私たちはそれを無視してきたのです。

その代価はとてつもなく大きなものです。

しかしまだ遅くはないのです。

もう一度この問題を真剣に考えて欲しいのです。

 

「本当の幸福とはなんなのだろうか」

 

子どもたちがご飯を美味しく食べられぐっすり眠ることができそして保護者に「愛されること」

その基本があれば社会は自然に幸福になっていくのではないのでしょうか。

この世界の最も幸福なのは夕方まで遊んでいる子どもたちが「ごはんよ」と母親が呼びに来る光景だと言った人がいました。

私もそう思います。

もちろん実の母親ではなくてもその代わりになる人が愛してくれればいいのです。

 

この物語で冠葉と晶馬は陽毬を守り愛してくれました。

そしてリンゴは自分の力で父と母を愛し許しました。

リンゴの成長は素晴らしいものです。

 

 

どうかこの物語が映画となって再び多くの人の心を動かしますように。

「ほんとうのさいわいとは」何なのか。本当に大切な幸福をどうやって作り上げていけるのか。

私たちのピングドラムを見つけなければいけないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『輪るピングドラム』幾原邦彦 その4

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20駅まで鑑賞。もっと進めてもよかったのですが20駅は素通りできる内容ではないのでここで書き記してみます。

 

最初の馬鹿々々しいほどのふざけ気分は影をひそめ真実をみつめなければならない段階に移った、のです。

リンゴの行動を「とんでもない非常識」と思っていた頃が懐かしくむしろあのままでいてくれた方が良かった、とさえ願うのです。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

本作の核となるのは16年前に地下鉄テロ事件の首謀者・高倉夫婦の子どもたちの苦しみです。現在流行りの「親ガチャ」の最たるもの、というべきでしょうか。望んだわけではなくとも他人に被害を与えた親を持つ子どもはその罪と罰を受け継ぐことになってしまうのです。

最初このアニメを観てから後、和歌山カレー事件で容疑者となって死刑宣告をされた人物のこどもたちのその後の報道を知りどうしても本作を思い出さずにはいられませんでした。

しかもその裁判の正否が疑問視されていますが、当の子どもたちはどうであれまっとうに生きることはかなわなかったのです。

きっとこうした事実が様々な大きさや形で存在するのでしょう。

そしてまたそれとは別に見えない形でも子どもたちが迫害されています。

 

今「毒親」と名称される自分の子どもに加虐してしまう親たち。たぶんその親たちもそのまた親たちから加虐されその連鎖はいつまでも続くのかもしれません。

しかも子供時代には自分が加虐されていることさえわからない場合が多いのです。いや大人になってもわからないままで間違った教育ををのまま正しいと信じて我が子にも与える場合が多いのかもしれません。

 

本作ではリンゴの両親が彼女の死んだ姉のことばかり考えリンゴの存在をないがしろにしていること、ゆりの父親が彼女に精神的肉体的虐待(たぶん性的にも)を与え続けていたこと、真砂子が祖父からの呪縛にとらわれ続けていること、多蕗が自分より才能豊かな弟に母親の愛情が奪われたこと、などが具体例として示されてきました。

 

そしてここで高倉兄弟の悲しい運命が単にテロ事件から引き出された結果だけではなかったことが示されていきます。

特に陽毬はいつ死んでもおかしくはない惨めなものでした。

映画『万引き家族』で虐待を受けていた小さな女の子が万引き家族に引き取られ最終的に再び毒親のもとに戻されてしまいますがこの『輪るピングドラム』はその後の物語なのではないかとむしろ願ってしまいます。

 

かつて「かわいそうな子どもたち」の物語はよく描かれてきました。様々な差別、貧乏な家、孤児、意地悪な親戚や周囲の人にいじめられる立場の弱いこどもたちが頑張る話でした。

その後そういうものは「お涙頂戴もの」というレッテルで卑小化されてしまいましたが現実ではそういう「かわいそうな子どもたち」がいなくなったわけでは決してなくむしろ人目につかないように隠されてしまったように思えます。

「我が国は立派で素晴らしい善人の国である」という大義名分のために「かわいそうな子どもたち」は子どもブロイラーで透明にされてしまったのです。

 

輪るピングドラム』第20駅の話ほど恐ろしく悲しい話はありません。

現実に捨てられた子猫のように小さく何の力もない陽毬を誰が救ってくれるのでしょうか。

その子どもたちがせめて自分たちで手を握り合い寄り添い生きていこうとするのは許されないことなのでしょうか。

折れそうに細い素足で逃げ惑う陽毬を誰かが救ってあげなくてはならないのです。

 

小さな陽毬が薄暗いコンクリートの建物の中に逃げ込むのを見てピングドラムを渡してあげた晶馬のように。

 

子どもたちを守ってあげなくてはいけない、それだけが大切なのです。

 

でも今日も死ななくていい子どもたちが大人に殺されていく。なぜ?

『輪るピングドラム』幾原邦彦 その3

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第16駅まで鑑賞。

このあたりになると複雑になってきて覚えているわけないといっても過言ではないです。

とにかく覚えていませんでした。

 

2シーズンの一気鑑賞というのはやはり過酷なのではないでしょうか。しかもこんな難しい内容の作品の。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

両親不在の貧困家庭ながら強い愛情で結ばれている高倉兄弟と家庭崩壊をくい止めようと異常な行動で邁進する荻野目リンゴと多蕗先生のいわばドタバタラブコメディから始まった本作品は第9駅「氷の世界」を境に急激に核心へと深まっていきます。

謎の美男・サネトシは地下の図書館司書から陽毬が入院する医師となって再登場してきます。

そしてバラバラに思えた登場人物たちがかつて様々に接点があったことが示唆されるのです。

その接点のひとつが地下鉄の「事故」で死んでしまった桃果です。

 

これまでエキセントリックなトラブルメイカーだったリンゴが憑き物が落ちたように考えを改め桃果の代替えであることをやめ多蕗から離れて晶馬を好きになったと自覚します。

入れ替わるようにこれまでいつも明るく優しかった晶馬がリンゴへの態度を一変させます。それはかつて自分の「両親が起こした事件」によってリンゴの姉・桃果がなくなったことに気づかされたからでした。

 

この「両親が起こした事件」というのは1995年にオウム真理教教徒が起こした「地下鉄サリン事件」なのです。

輪るピングドラム』はその事件が起きた年に生まれた子ども「冠葉・晶馬・リンゴ」を中心にして複雑に構成されていく物語です。

 

日本人はどういうものか、恐ろしい事件だと思うほど「それをなかったこと」にしたい国民のようです。

そのことについて深く考察していくより忘れてしまうを選びたいのです。

事実、オウム真理教の主要人物13人が2018年に続けざまに死刑となっています。事件が起き逮捕されてから23年経った時期ですが果たして審問と考察は充分だったのでしょうか。

そして現在事件から27年が経ちました。オウム真理教地下鉄サリン事件は遠い過去になってしまったようです。

 

しかしここで驚きなのはそれを題材にした『輪るピングドラム』がテレビ放送後10年目にして劇場版製作が発表されたことです。

幾原邦彦監督の本作は確かに綺麗な絵柄と面白い演出によって味付けされてはいますがその本質は苦い毒でした。

監督自身、すぐに忘れ去られてしまう作品が多い中10年経って映画化に賛同が集まることに後押しされたはずです。

 

この時代に、もう一度、彼らに会いたい、と思いました。

 

私自身、日々の仕事に忙殺されて生きてきましたが1995年のあの日に世界は一つの変節を迎えたことは忘れることができませんでした。

 

そしてそこで様々な形で人生を変えられてしまった人々・こどもたちがいたのです。

 

やはり忘れてしまってはいけないし、考えなければならないのです。

 

『輪るピングドラム』幾原邦彦 その2

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やっぱりこれでダメだと思いなおして再鑑賞の再鑑賞しています。

なんだろう。とにかく情報量が多すぎるのでそれでもまたやっと気づくことがあるのですがたぶんまだあるのだろうなと。

 

ネタバレしますのでご注意を。最後までわかっているネタバレです。

 

 

 

 

一応一度観たのでとりあえずの内容はわかっています。そのうえで観ていると言葉や映像の端々にいろいろな謎が仕込まれているのに気づきます。

決め台詞「きっとなにものにもなれないおまえたち」の意味は酷く重いものです。

彼らは親が犯した罪のゆえの罰として「なにものにもなれない」運命を決められているのですから。

 

私の幼少期には「孤児」の話がよくあったものでした。むしろ孤児でないと主人公になれないのでは、とさえ私は思っていました。

アニメ・マンガで有名なものといえば『タイガーマスク』『あしたのジョー』『キャンディキャンディ』

小説では『赤毛のアン』『ジェーン・エア』など他にも片親やなにかの理由で孤立して生きる子どもを描いた作品は数えきれないでしょう。

そして多くが「貧しさ」と「差別」と戦う物語でもありました。

時代が移ると次第に孤児の話は少なくなっていきますし貧困ではなくなっていくのですがその実情は「見えにくくなっている」だけであまり変わらないのかもしれません。

 

本作でいえば高倉兄弟ははっきりと孤児で貧困ですが一見裕福な荻野目家のリンゴも幸せではありません。むしろ兄弟でつながれている彼らを羨むのです。

 

今ちょうど「親ガチャ」という言葉が話題になっています。

「親のせいにするなんて」という反論もあるようですが高倉兄弟の身になれば「親ガチャ」という言葉がいかに子どもにとって切実かはわかるはずです。

「親ガチャ」という軽い言葉がないだけで昔は、いや今までもずっと貧困家庭に生まれた子どもや孤児は「なにものにもなれない」危機感を背負って生きていくしかなかったでしょう。

ましてや現政権(今変わりそうですが少なくとも岸田・河野・野田は良い親ガチャ。菅氏は良い親ガチャとは言いにくいので短命だったし安倍氏は良すぎるので長命だった)を見ていれば親ガチャ次第で運命は決まる、のは明確です。

 

リンゴが切なく健気に見えるのは親ガチャが失敗だったのにもかかわらず自分の力でなんとかしようと頑張っているからです。

しかしそれはもう狂気の域にまで入っているほどなのです。晶馬はそれを見て「きみほど黒い女の子はいない」とまで言ってしまいます。

 

良い親であれば例え孤児になったとしても生きていける可能性は高くなりますが例えば犯罪者の子どもであればどんな生存戦略ができるのでしょうか。

つい先日もある犯罪者として収監されている人物(その裁判には疑問点があるにもかかわらず)の子どもが自殺、という報道がありました。

同じくその兄弟である人物も苦しい人生を歩まれているようです。

「親ガチャ」など関係ない、という言葉が本当だとは思えません。

 

しかしとはいえ人間は何らかのガチャを繰り返しては生きていくしかないのです。

それに耐えられない場合もあるのです。

 

今またこのアニメ作品は公開されるべきものなのではないでしょうか。

 

『輪るピングドラム』幾原邦彦

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イクニ世界逆探検。『輪るピングドラム』は一度鑑賞していたつもりだったのですが観なおしてみると案外覚えていないことに気づきました。シリーズものをまとめて一度観ただけではなかなか把握してはいないものですね。なので今回観なおしたつもりでもまだまだ記憶からはこぼれそうです。

ヤングサンデーYouTubeチャンネル」の山田玲司氏解析で予習復習してからの今回鑑賞なので一度目より少しは理解しやすくなっているのではないかという期待を背負っております。

 

さて、第9駅「氷の世界」まで再鑑賞しました。

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

8駅までのドタバタ劇を過ぎて9駅は問題の人物「渡瀬 眞悧(わたせさねとし)」が登場します。

ここまでも不思議アニメではありますが彼が登場して一気にこれは並みのアニメではない、と思わせてしまう人物です。

長いピンクの髪とすらりとした体はウテナを思わせるのに彼は男性です。

8駅まで愛らしい陽毬は純粋に愛らしい少女だと誰もが信じ切っていたはずですがこの駅で彼女にも心の底に沈めてしまった物語があったことが明かされます。

その秘められた物語を引きずり出すのがサネトシでした。

 

ここまでの話で最も嫌な奴で最もかわいそうなのは荻野目 苹果です。

私はちょいと中国語にかぶれていた時期があったので彼女の名前がリンゴ=苹果であるので発音の「ピングォ」がタイトルと被っているのではないかとだけは感じましたが、まあそれだけです。

そもそもOPからしてリンゴがくるくるしてますからそれが重要なのはわかりますね。

 

彼女の家族は崩壊寸前というよりはすでに壊れています。

姉はすでに亡くなり父母は姉の死後心が離れてしまったようです。

リンゴは自分自身が亡くなった姉・桃果になることで家族が元通りになれるのだと信じその計画に向かって突き進んでいるのですがその一途さがあまりにも常軌を逸していて狂気としか思えないのですがそれが痛々しく悲しいのです。

 

リンゴが桃果の代わりにその人の子どもを産もうと考える男性が多蕗ですが彼は人気女優ユリと結婚する予定になっていました。

この多蕗もゆりもどこか奇妙な人格ではあるのですがドタバタ劇のせいでそのおかしさがよくわからないまま進行していきます。

 

そして肝心の陽毬の双子の兄・冠葉と晶馬は一度死んでしまった大切な妹が謎のペンギン帽をかぶることで生き返ったのはいいものの何故かペンギン帽のイリュージョン少女に「ピングドラム」を探すよう命じられる。その「ピングドラム」はリンゴのディスティニー日記の中に隠されているのでは、と考えたふたりはなんとかしてリンゴからディスティニー日記を見せてもらおうと画策するのだが。

 

ここですでにもう一度観なおさなきゃいけない、と感じてきました。

しかしこれが本当の人生であるならもう一度観なおそう、ということはできないんですね。

人生ではやり直しができない。

もう一度あの時に戻ってその言葉がなんだったのか、確かめることはできないのです。

 

 

 

 



『 Sonny Boy 』#10「夏と修羅」夏目真悟

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『夏と修羅』これはもう宮沢賢治好きならすぐにわかりますね。宮沢賢治著『春と修羅』から作られたタイトルです。

しかも冒頭がステーションだったので「お、これは銀河鉄道の夜のパロディか?」となったのですがそうそう単純な移し替えをしないのが夏目監督のようです。

とはいえ最初はそうなのかなと思っていたので骨折と朝風の関係をジョバンニとカムパネルラに当てはめるのだろうか、とも思ったわけです。これもそんな単純なものではなかったともいえるしやはり当てはめていたようにも思えます。

 

銀河鉄道の夜』ではジョバンニがカムパネルラに憧れのような好意を持つ状況が描かれていきます。そしてカムパネルラが別の女の子と話したりするのを恨めしく思ってしまいます。最後にふたりにはなすすべもなく別れが訪れるわけです。

本作の骨折の思いも似たようなものではあり今回の話の中で骨折は朝風に見切りをつけて別れを決心したと思われます。

違うのは憧れのカムパネルラの英雄性が朝風にはなかったことです。

といっても朝風はそれこそ「カムパネルラ」のような自己犠牲で世界を救いたい、英雄になりたいという意識はありました。ただそれはそうすることで皆に自分の存在価値を認めて欲しい、特に希から賞賛してもらいたい好きになってほしいと願っていたわけです。

カムパネルラの心底もどうだったのかはわからないはずです。

 

そして人の心の声を聞くことができる能力を持つ骨折も朝風の心の奥底の声は聴けなかったのでした。

 

別行動の長良と瑞穂は瑞穂の能力を確かめていました。

猫配送の「ニャマゾン」でそれぞれが注文した生きたにわとり。

殺してみると長良が注文した鶏は死んだままで瑞穂の注文した鶏は生き返ったのです。

これでコピーの運命が違う謎が解けます。

現実世界の希は死んでいたのにこの世界の希は生きている、それは瑞穂の能力のためだったのです。

しかし希は「現実世界に戻る。私は死を受け入れる」と言うのです。

そして現実世界に戻れば力を失ってしまう朝風はそれを拒否します。

 

さて今回はかなり物語の謎が解き明かされました。

 

次回はどんな展開になるのでしょうか。

朝風はカムパネルラになるのか、それとも全く違う物語へと移っていくのでしょうか。

 

戦争がずっと同じ格好のままで心は空っぽになっていたことは何を意味していたのでしょうか。

本作品はあと二話で終わるのでどう決着がつくのか、と考えられますが現実の人生はいつまでなのかどうなるのか、まったくわからないわけです。