ガエル記

散策

『音楽』 岩井澤健治

f:id:gaerial:20211213061127j:plain

偶然wowow録画して鑑賞しました。

何も知らないままの遭遇だったのもあって衝撃でした。

このアニメ映画は岩井澤健治氏が一人で7年かけて作ったのだということです。しかも岩井澤氏はもともとアニメーターでもなく映画畑の方だったにもかかわらずのアニメ製作なのでした。

 

確かに本作品はアニメ特に日本のアニメにはほとんど使われない「間」を多用されています。

この「間」は作品の奥行きを感じさせてくれるのですが日本の実写映画では退屈を感じさせる原因にもなっているように思えます。

それが本作品ではアニメとしてはかなり不思議な時間空間として感じさせられているものの退屈にはならないバランスになっていました。

 

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

ちょいと昔の日本の田舎町、という設定でしょうか。

昔、というのは音楽の選択があまりにも私の若い頃という感じでぴったり感性に合うものだったからです。

フォークとロック、というのはまさに私時代です。

田舎生まれなので背景もまさにはまる感じで困りました。

リズムが懐かしすぎるのです。

しかも不良も私時代、女の子がスケ番風で長いスカートなのです。

 

しかし監督自身は81年生まれなので意識しての懐古趣味なのかもしれません。

ロトスコープアニメ、という手法も日本アニメ界ではあまり受けが良くないものです。

なぜなら日本のアニメ手法はリアルとはかけ離れたルックが売りになっているからですね。

現実と極端に違う顔や体形の造作、動きに魅力を求めているからです。

 

逆に本作の魅力はそこにあります。

 

リアルをなぞることで生まれる独特の線や動きを壊すことなく表現することが日本アニメでは特殊なことになるのですね。

 

変な話ですがこれが男性キャラだけではなく女性キャラにもきちんと当てはめているのは稀有なことと言っていいと思われます。

 

最近私は何度も「日本映画、日本アニメはダメになってしまう」と嘆き続けていましたがこんな凄い作品が映画畑でアニメ映画として作られていたことにまったく気付かずにいただけだったのだとほっとしています。きっと他にも見えていないだけで素晴らしい作品があるに違いないと期待しています。

 

確かに日本でアニメ界と映画界は似ているようで交わっていない、と感じていました。それらが良い方向へ融合することで可能性は生まれてくるのかもしれません。

 

そしてアニメと音楽はもっと強く組み合わされるべきだ、と思っていたものがこうしてちゃんと形になっていたのだと嬉しく思います。

 

そしてここで別角度でのショックが。

この映画の主題歌を担当していたのが「ドレスコーズ」の志磨遼平さんだったのですが彼はしょっちゅう山田玲司ヤングサンデーで紹介されていたのに私の意識下ではこの映画と結びついていなかったのです。

まさかこんな形で知ることになるとは。

山田玲司先生、話されていたのかなあ。

そして今更になって志磨遼平さんの魅力に気づかされました。

これからもっとドレスコーズ聞いていこうと思っています。

 

f:id:gaerial:20211213070801j:plain

   

『死の壁』『超バカの壁』養老孟子

f:id:gaerial:20211212070009j:plain


養老孟子氏の著書を読み進めています。

本著の中で特に気になったもののひとつが「第六章 脳死村八分」です。

日本というのはいまだに村文化である、という言葉はこれまでにも聞いてきましたが改めてその意味を教えてもらいました。

世界中で廃止になっていく「死刑」が日本では一向に進まないのは「村のみんなの迷惑」である者を追い出す、という意味合いの「死刑」はなくならないというわけです。

確かにここに書かれている通り日本で問題になる場合は「冤罪である可能性」への疑問だけが大きいように思われます。

 

そして「第八章 安楽死とエリート」です。

この章には恐ろしい話が書かれています。

深沢七郎『みちのくの人形たち』の内容は悲しく凄まじいものでした。

東北のとある家は代々産婆をやってきたのですが村人は嫁が産気づくとその家に屏風を借りに来るというのです。その屏風は普通なら何もないのですが逆さまに置かれている場合には間引きしたいというサインとして産婆に伝えたというのです。

 

これは日本に限った話ではなかろうと思われます。

こうした話は世界各地で様々な形となって物語られているのではないでしょうか。

そしてそうした話に多くの人が非常に惹きつけられてしまうのも確かです。

f:id:gaerial:20211212070027j:plain

ここまでなかなか面白く読んできたのですが次の『超バカの壁』になると少し様相が変わってきます。

題目に「女性」が入ってくるのですがすると突然論調がおかしくなってくるのです。

これまで話されていた「人間」や「日本人」という主語には「女性」は含まれていなかったのでしょうか。

こと「女性」についての考察になるとなんだか奇妙な論理になっていく、というはよくあることです。

養老氏はここまでずっと「一元論で語ってはいけない」と書き続けてきたのですが「女性」についてになると途端に一元論になってしまうようです。

例えば「男性は極端な性格を持っている」「女性は安定しようとする」「男性は意味のない趣味を持ちやすい」「政治は男性的な仕事であり女性に向いていない」といった考察が次々と書かれていくのですがこれまでの歴史で女性が非常に抑圧されてきたことを考えれば女性の本性というものがどれほどわかっているのか女性である自分でもよくわかりません。

しかもこれから先養老氏や同じような考えを持つ人々(男女問わず)がなんと言おうとも女性と男性が同じような職種についていくことはもう明らかです。

特に政治家、という仕事は男女どちらかに偏ってはならないものです。

それは性格などということで成立できる分野ではなくむしろ様々な性や年齢や人格の政治家が存在するべき職種であるのです。なぜなら自分と違うパーソナリティに対して人は常に疎かになりがちだからです。

つまり男性だけが政治家であれば絶対に女性に良くした政治はできず年配者だけであれば絶対に子供にはよくできないからです。

出来得る限り多々な考察が必要なのです。

なかなか真っ当な思考をされると思われた養老氏でも結局はフェミニズムに対して極端な偏見があります。

本著ではまた子供の教育やいじめ問題や外国に対する考察などが語られていますが突然考察が浅くなっていくのが感じられました。

養老氏自身「自分の本に書かれていることがすべて正しいわけではない」と言われているのですし、その通りだと思います。

 

もう少し読んでいきたいと思っていますが三冊目にして急に人が違ったかのように浅薄になってしまったのは残念でした。

 

『バカの壁』養老孟子

f:id:gaerial:20211210060226j:plain

2003年のベストセラーということですでに18年前の著書になります。ちら読みはしていたかもですが今回初読しました。

レビューを見ると賛否両論の本書ですが私は有意義な本だと思いました。18年経ってからだからこそ納得できる部分もあるかもしれません。

しかしこの本がベストセラーであったならもう少し世間に影響があっても良かったのではと思いますがこの本の主旨となるところはなかなか社会に浸透してはいないようにも思えてしまいます。それとも浸透してこのくらいなのでしょうか。

主旨というのはもう冒頭に書かれていてそれは「話しても(人はそれを)わからない」という題目です。

「同じドキュメンタリーを観ても共感度によってまったく理解が違ってくる」という例題を通して「人は知りたくないことには耳を貸さない」という答えが導かれます。

現在も同じ例題が繰り返され「どうしてこの苦しみを理解してくれないのだ」という議論は絶えません。

ベストセラー本に重要なことが書かれていても結局「人は読みたい部分しか読まない」ということです。

 

私が面白いと思った一つは「世界と自分の境界線」というものです。

「自分」は自分をえこひいきしているので自分を汚いと感じないが自分から切り離された途端嫌悪を感じる、ということです。

つまり自分の中にある唾液や糞尿は汚くないが外に排出した途端汚いものと認識される、というからくりです。髪の毛などもそうです。

諸星大二郎氏は自著のマンガで人間と世界がくっついてしまい「幸福だ」と感じると描かれています。私は面白いと思いながらも本当にそうなのか、と思い続けてきたのですが今やっと理屈がわかりました。遅すぎます。

その理論を広げれば同じ日本人であっても考えが違う人々を嫌悪する感覚がわかるというものです。

 

そして本著の終わりでは一元論=一神教の恐ろしさについて語られます。

私は十代の頃森本哲郎氏にはまっていたのですが彼の考えも一神教への疑問でした。

日本人はもともと八百万の神という多元的な考えをしていたのですが近代になり他国と戦争を起こす時点で強度の一神教を持ち出してきます。

一神教は固い連帯を持ちやすいのですが少しでもそこから外れることを嫌います。

数多くの神が存在することを許せば連帯もゆるくなりその分思考もゆるくていいのです。

現在の日本はいまだ明治から築かれてきた近代の縛りから脱しきれずもがいているように思われてなりません。

 

しかしまあそれもこの国の住人たちが歩いてきた道なので仕方ないのです。

この本がベストセラーとなってもさほど変われなかったのか、それとも大いに影響されてこの程度なのか、よくはわかりませんが身をもって体験しながら進むしかないのです。そのことも本作に書かれているのですから。

絶対的な救済が欲しいのです。

n現在流行りで人気のマンガアニメを観ていると「みんな救済を求めているのだな」としみじみ思ってしまいます。

私自身だってそうですがこのやりきれない世界の中で自分がどんなに頑張ってももうどうにもならないと気づかされ誰かに「お前を必ず守ってやる」と言われたくてしょうがないのです。

 

物凄い人気となった『鬼滅の刃』私は何度か入り込もうとしてギャグがどうしてもダメでとうとう入れなかったのですが話を聞いているとやはりそういう気持ちを感じてしまいます。

良い年齢の男性たちから「煉獄さんは・・」という敬称付きで呼ばれてしまうキャラがいます。

他のどのキャラよりもこの名前を何度聞いたことか、主人公よりもこの名前が呼ばれたのではないでしょうか。

f:id:gaerial:20211206053104j:plain

このマンガ・アニメには「守ってやる」「必ず守る」「誰も死なせやしない」などの言葉が力強く発せられます。特にこの煉獄杏寿郎はそれらの言葉を口にするのですがマンガでは大声を意味する吹き出しが付けられアニメではきっぱりと言い放つ断言として表現されます。

マンガアニメを観た人々は「ああ、煉獄さんが守ってくれるんだ」という至福を味わえたことでこの作品を観ずにはおられなくなったのだと思えます。

 

そして「お前も力を尽くせ」「お前を信じる」という彼の言葉にうなずいたのは若者たちよりどうやらおじさんたちが多かったように思えてなりません。

 

これまでもそんなマンガアニメ作品はあったには違いないのですが、ただひたすら「守ってやる」と大きく言い放つキャラがこんなにも多くの支持を受けたことはなかったのです。

 

そして今朝こんなブログをツイートで教えてもらいました。

いつも見ているもちぎさんのブログです。

note.com

もちぎさんのマンガはとてもおかしくて面白くて辛辣で優しくて大好きです。

このブログ文も同じくそんな感じでした。

 

ブログはもちぎさん持ち味の軽妙なタッチで綴られます。

もちぎさんはTwitterでエッセイ的なマンガを発表していてその中ではゲイ風俗で働く彼が体験する様々な人間模様がおもしろおかしく語られていきます。時には深刻な事件にあっても独特の解釈で切り抜けていくのです。

そんなマンガを読んだファンの中にはやはり自身も辛い悩みを持ち「もちぎさんならわかってくれる」とダイレクトメールで打ち明けてくる人もいるのです。

もちぎさんは返事はしないけどそんな人たちの打ち明け話を受け止めるためにDMを解放していると言います。

中にはとても信じられないほど突飛な話もあるけど自分は必ず信じている、ともちぎさんは書きます。

そしてそれらは本当は警察や病院で相談すべき話なのに彼らはきっとそれを知っていながらあたいに打ち明けるのだ、と書くのです。

それはそんな人々がもちぎさんだけに期待をしているからです。

もちぎさんは書きます。

 

それはどんな期待かと言うと、たぶん、絶対的な救済だ。

 

それら人々が求めているのは答えというよりも「絶対的な救済だ」ともちぎさんは感じたのです。

 

「もう苦しい。誰にも助けを求められない。ダメなんだ、だからぜんぶ、あなたが助けてくれ」

 

これはおじさんたちが煉獄さんに感じた言葉にも思えます。

もちろんおじさんだけではなく鬼滅ファンの多くが煉獄さんに感じたことなのでしょう。

マンガを読んだとしても実生活の解決にはなりません。だけどみんなが求めているのは回答ではなく魂の救済なのです。

だからこそ『鬼滅の刃』は爆発的な支持をされ煉獄さんは誰からも「煉獄さん」と呼ばれてしまうのです。

 

それはマンガだからいいけど実際に存在する人間のもちぎさんが煉獄さんを期待されるのはあまりにも酷です。

それなのにもちぎさんはひょうひょうとそれを受け止める覚悟を決めてしまってる。

 

(どうせそんなこと無理だろうけど。でもそれだけはあなたは言わないでくれ)

 

という人々の勝手な期待を受けて立っているのです。

 

それは、答えを求めるけれど、結局答えなんて必要なくて、実際求めているのがただただ救いだからなのかもしれない。

 

ここまでコピペしてしまうのは本当に失礼なのですがあまりにも凄いと思いここに書きたくなりました。

このブログ文はずっと公開することにします、という但し書きに甘えさせてもらいます。

 

現実の煉獄さんたるもちぎさんの考えは素晴らしいと思います。

逆に言えばマンガの煉獄さんであってはいけないのです。

 

あんたは恥ずかしくない。

 

この一言が凄い。

 

もちぎさんのブログ読んで欲しいです。

現実にいる煉獄さんはもっとかっこいいと思いました。

『アドベンチャータイム』ペンデルトン・ウォード

f:id:gaerial:20211203055534j:plain

不満たらたらこぼしましたが『アドベンチャータイム』見つけました。第5・6シーズンのみですが以前のはかなり観てきたのでこれは逆に大満足です。

 

アドベンチャータイムの嬉しいところはアメリカアニメとしてはかなり日本人好みに可愛らしいところですがそれでもやはり日本の通常のアニメとはまったく違う独特の味が楽しめるってことです。

フィンが可愛いのは当然ですが私のお気に入りはなんといってもジェイクです。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

異世界もの、ということになるのでしょうか。

しかしほとんどの異世界ものと名乗る作品を観てもあまり異世界に思えないのですがこの『アドベンチャータイム』はほんとの異世界ではないかと信じてしまいそうです。

この世界はどこかに存在するのじゃないのかと。

そうでないならなぜこんなにも不思議な世界を描けるのでしょう。

 

特に大好きなのは女性たちです。

科学者でもあるお菓子の国のプリンセス・バブルガム、闇の力を持つかっこいい吸血鬼のマーセリン、怒らせると怖い炎のフレーム。

それにも増して魅力的なのがフィンの女性化版フィオナ。相棒のジェイクも雌猫で名前もケイクに。

女の子たちがこんなに魅力的な作品もそうそうないと思います。

逆にマーセリンの男性版マーシャル・リーもかっこいい。

 

他のどのアニメ世界よりも私は『アドベンチャータイム』世界の住人になりたいです。

実際は悲しく恐ろしい結果の世界なのですが。

 

 

『トキワ荘の青春』市川準 その2

f:id:gaerial:20211204200940j:plain

 

映画を観てからつらつらと考えていました。

市川準監督のプロフィールには聖パウロ学園という高校出身と書かれています。それを見てはっと本木雅弘演じる寺田ヒロオ氏のまっすぐ立った姿を思い出しました。

そして市川監督は寺田ヒロオさんに殉教者の姿を重ねたのではないかと思ったのです。

 

イエス・キリスト、は言いすぎでしょうか。

いわば子供向けマンガを描きたいという信念の殉教者、とは言ってもいいのかもしれません。

それはあまりにも孤独な戦いだったのではないでしょうか。

彼が愛し大切に守った後輩たち、石ノ森氏、藤子不二雄氏、赤塚氏は歴史に残る有名なマンガ家になりますが寺田氏自身は幾つかの作品は残したものの彼らほど名を遺すことはないでしょう。

本人も自分の思いが時代とまったく合わなくなっていくことに反発し苦悩しながらも自分の考えを変えることができないのを自覚し、そして自分自身を葬り去ることしかないと考えたのです。

それは実際の寺田氏の姿ではないのかもしれません。映画というのは監督の思いが映像化されたものです。

本作は市川監督がこうした人生を描き出したいという思いを寺田ヒロオという人物に乗せて物語としたのだと私は考えます。

なので実際の寺田氏と違っていたとしてもそれは構わないのです。

 

良いものを自分の好きな世界を描きたいという信念を持ち続け、そうでなければやめてしまう、しかし後輩たちの努力は見守ってあげたいという逸話を市川監督は美しい神話のように撮ったのです。

それは別の視点から見ればあまりにも潔癖すぎるのかもしれません。

 

私自身はトキワ荘にも寺田氏にも愛着を感じるわけではないのですが、市川準監督の思いを感じられる作品でした。

 

 

『トキワ荘の青春』市川準

f:id:gaerial:20211203062633j:plain

以前にも観ていたのですがTV放送されていたので再鑑賞しました。

 

トキワ荘の逸話はよく知られていることですが石ノ森章太郎でも赤塚不二夫でも藤子不二雄でもなく現在ではまったくその名を聞くことがない寺田ヒロオ氏を主人公にしたのは監督である市川準氏がその人に自分を重ねたのではないでしょうか。

 

と言っても私は今まで市川準映画をまったく知らずにきました。

市川監督の作品名を眺めその概要に目を通すと派手な商業主義ではない静かに地味な印象を受けます。しかもその作品名のほとんどは目にした記憶もないほどです。

とはいえ映画賞は数々受賞されており、実力がありながらあまり派手な押し出しがなかったということなのでしょうか。

そのあたりが本作の寺田ヒロオ氏のイメージとも重なるように感じたのでした。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

映画自体ももしかしたら物足りない内容なのかもしれません。

トキワ荘はあまりにも静謐な佇まいでありそこに住む若いマンガ家たちもただひたすらマンガを描くことに没頭しています。

怖いのは生活費がないためマンガを描くことができなくなってしまうこと。

寺田氏はたびたび金を無心にくる後輩たちに嫌な顔もせず自分でも足りないはずの生活費を分けてあげるのです。

皆の兄貴的存在の寺田氏を演じているのが本木雅弘。硬派でひたむきでありながら優しく物静かな寺田ヒロオという人物像を魅力的に演じています。

映画で顔がはっきりと映し出されるのは彼だけで他の人物はあえて遠目に撮られているのかどの人が誰なのか、あまり明確になされてないように思えるのもこの青春映画の独特の味わいなのです。

 

寺田氏の心の奥底は演じられることがありません。

言葉で「私はそれほど立派な人ではありません。私はもっと悪い人間です」とは説明がはいりますが、その実彼が他人を貶めたり自分を卑下する場面もないのです。

しかしそれでも寺田氏の「子供たちにとって良いマンガを描きたいのです」という言葉には危険があります。

本当に子どもたちにとって良いマンガとはなにか?

それは誰にもわからないのではないでしょうか。

私自身、寺田ヒロオ氏のマンガを少し眺めてもそこに興味を持ちえないのです。子供時代に見たとしても読まなかったでしょう。

さらに言えば私は寺田氏が認めた石ノ森章太郎赤塚不二夫藤子不二雄の各氏のマンガがあまり好きではありませんでした。

私が好きだったのは水木しげるつげ義春白土三平派のマンガだったのです。

そこに描かれるのは残酷な心理や殺人です。しかしその中にこそ子どもの私が覗き見たい何かがあるのでした。

結局寺田氏の言う「子供たちにとって良いマンガ」の子どもも寺田氏の中にいる子どもなのです。

自分にとっての良いマンガなのです。

 

本作では寺田氏の別の側面は描かれないままです。

トキワ荘の皆を愛し、野球をする礼儀正しい子供にやさしい視線を投げ孤高にたたずむ寺田ヒロオ氏の姿を映します。

そして静かに彼がトキワ荘に別れを告げて物語は幕を閉じます。

 

wikiによればその後の寺田氏は人づきあいも少なく病気になっても治療もせずに60代で亡くなったとあります。

市川準監督に関する記述では50代の若さで亡くなられています。

そこにも奇妙な重なりがあるのでしょうか。

 

今であれば寺田ヒロオ氏がマンガを描く場所はネット上にあると思えます。

現在でも出版ものはどうしても「こうであるべき」ルールに縛られますが、ウェブマンガなら氏も活躍できたのでは、と考えてしまいます。

 

しかしそれだけではない氏の絶望があったのかもしれません。

 

私としては今までまったく観てこなかった市川準監督作品を観ねば、と思っているところです。