養老孟子氏の著書を読み進めています。
本著の中で特に気になったもののひとつが「第六章 脳死と村八分」です。
日本というのはいまだに村文化である、という言葉はこれまでにも聞いてきましたが改めてその意味を教えてもらいました。
世界中で廃止になっていく「死刑」が日本では一向に進まないのは「村のみんなの迷惑」である者を追い出す、という意味合いの「死刑」はなくならないというわけです。
確かにここに書かれている通り日本で問題になる場合は「冤罪である可能性」への疑問だけが大きいように思われます。
そして「第八章 安楽死とエリート」です。
この章には恐ろしい話が書かれています。
深沢七郎『みちのくの人形たち』の内容は悲しく凄まじいものでした。
東北のとある家は代々産婆をやってきたのですが村人は嫁が産気づくとその家に屏風を借りに来るというのです。その屏風は普通なら何もないのですが逆さまに置かれている場合には間引きしたいというサインとして産婆に伝えたというのです。
これは日本に限った話ではなかろうと思われます。
こうした話は世界各地で様々な形となって物語られているのではないでしょうか。
そしてそうした話に多くの人が非常に惹きつけられてしまうのも確かです。
ここまでなかなか面白く読んできたのですが次の『超バカの壁』になると少し様相が変わってきます。
題目に「女性」が入ってくるのですがすると突然論調がおかしくなってくるのです。
これまで話されていた「人間」や「日本人」という主語には「女性」は含まれていなかったのでしょうか。
こと「女性」についての考察になるとなんだか奇妙な論理になっていく、というはよくあることです。
養老氏はここまでずっと「一元論で語ってはいけない」と書き続けてきたのですが「女性」についてになると途端に一元論になってしまうようです。
例えば「男性は極端な性格を持っている」「女性は安定しようとする」「男性は意味のない趣味を持ちやすい」「政治は男性的な仕事であり女性に向いていない」といった考察が次々と書かれていくのですがこれまでの歴史で女性が非常に抑圧されてきたことを考えれば女性の本性というものがどれほどわかっているのか女性である自分でもよくわかりません。
しかもこれから先養老氏や同じような考えを持つ人々(男女問わず)がなんと言おうとも女性と男性が同じような職種についていくことはもう明らかです。
特に政治家、という仕事は男女どちらかに偏ってはならないものです。
それは性格などということで成立できる分野ではなくむしろ様々な性や年齢や人格の政治家が存在するべき職種であるのです。なぜなら自分と違うパーソナリティに対して人は常に疎かになりがちだからです。
つまり男性だけが政治家であれば絶対に女性に良くした政治はできず年配者だけであれば絶対に子供にはよくできないからです。
出来得る限り多々な考察が必要なのです。
なかなか真っ当な思考をされると思われた養老氏でも結局はフェミニズムに対して極端な偏見があります。
本著ではまた子供の教育やいじめ問題や外国に対する考察などが語られていますが突然考察が浅くなっていくのが感じられました。
養老氏自身「自分の本に書かれていることがすべて正しいわけではない」と言われているのですし、その通りだと思います。
もう少し読んでいきたいと思っていますが三冊目にして急に人が違ったかのように浅薄になってしまったのは残念でした。