昨日の記事に「この考察は的外れだ」という指摘があったのですが私にとっては的にめり込む考察であります。この考察をして書かなければ私にとって山岸凉子を読む意味がありません。
では続けます。
ネタバレしますのでご注意を。
巻末に『逃げるは恥だが役に立つ』著者海野つなみ氏との対談が付録されていました。
一貫して男尊女卑という制度に苦悩する女性を描き続けた山岸氏が対談の相手に選んだのが彼女だというのはとても興味深いことです。
『逃げ恥』は申し訳ないのですがテレビドラマや噂でしか知らないでいる私ですがそれでも男女の決めつけられた役割を変えていくにはどうしたらいいのか、という前向きな思考作品であると思っています。
それと比較して山岸氏は作品中で男女の役割を破壊したことがあったのでしょうか。
私はあえてそうした男女の役割を踏まえて物語にしている、とも思っていたのですがこの対談を読むと山岸氏にとってはそうでないと物語が考えられないのだと感じました。
脱線しますが山岸氏世代の女性漫画家たちはかなりの割合で未婚なのですね。
有名作家になるほど未婚率は高いのではないでしょうか。私が愛読した萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子、山岸凉子たちがそろって結婚せずにいても有名男性マンガ家たちはほぼ結婚しているのを知った時は「そういうものなのか世の中は」ともやってしまったものでした。
もちろん私が特に愛読していた女性漫画家たちがそうだっただけですべての女性作家が結婚していないわけではないのですがそれでも過去にさかのぼるほど女性漫画家の独身率は高いのではないでしょうか。
その答えが山岸涼子氏の徹底した「男女の役割」思考にあると思ってしまうわけです。
男女役割思考で仕事に没頭する女性漫画家が結婚するのは困難です。
しかし男女役割思考で仕事に没頭する男性漫画家ほど結婚はするはずです。
家事育児は女性の役割と考えていれば男女でそうした対比が生まれてしまうのは当然です。
しかも山岸凉子の理想の男性が家父長を絵にかいたような姿なのです。
背が高く威圧的であり男性的な美男であり冷静な知性を持つリーダーでなければ恋をする相手にできないのです。
最も理想として描いたのは『アラベスク』です。ヒロイン・ノンナの前にはひょうきんな味のあるエーディク、可愛らしい弟的なレミルも現れましたが彼女が選んだのはユーリ・ミロノフでした。
私は面白いエーディクが好きだったのでなぜノンナがしかめ面で厳格なユーリを選ぶのか不思議でした。
彼はノンナの教師でもあります。ここにも山岸氏の嗜好が伺えます。
彼女が描くヒロインは優れた男性から教え導かれることが多いのです。話し合う、のではなく導かれるのです。
ここが『レベレーション』につながります。
ジャンヌの前に現れた男たちは皆愚かしく彼女よりも劣るのでジャンヌは誰のことも好きになれないのです。
結局ジャンヌに喜びを与えられたのはイエスだけでした。
「神」と「イエス」は非常に密接で時に混同してしまいます。
そして信仰とは時に非常にエロティックでもあります。
神と結婚したという言葉もあります。
ジャンヌを導けたのは神のみでした。
ジャンヌを導いた声はイエスの声であり彼女が従う価値のある男性はイエスだけだったのです。
山岸凉子氏は「最初なかなかジャンヌに共感できなかったけど終わりになるほど彼女が理解できるようになった」と書いていますが当然ですね。
神(イエス)の声で導かれ戦争に立ち向かう、という行為はさすがに山岸氏ならずとも女性としては抵抗があります。
しかし登場してくる醜悪で愚鈍な男性たちからの攻撃に抵抗し、心の中で信じるのは最も美しく知性ある神の導きだと信じ続けるジャンヌは山岸凉子そのものです。
とはいえ私はジャンヌでもないしそうした信仰者でもないのでジャンヌの戦いが悲しく思えます。
山岸凉子がジャンヌを作品の中で「ジャンヌ・ダルク」ではなく「ジャンヌ・ラ・ピュセル=処女のジャンヌ」と書き続けていたことにも胸が詰まります。
氏のジャンヌは低俗な男たちにレイプされそうになった時鎖で自らの首を絞めさえもするのです。
もしある種の男性マンガ家がこの物語を描いたらこの場面は「サービスシーン」とばかりにページ数を割いて描くのでしょうが山岸凉子にとってそんなことが許されるはずがないのです。
彼女の分身となったジャンヌがそんな愚劣な男たちに穢されるはずはないのです。
彼女に触れることができたのは天使と神だけでした。