ガエル記

散策

『レベレーション』山岸凉子 完結したジャンヌ・ダルクの物語 その1

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『レベレーション』6巻。

山岸凉子氏が描いたジャンヌ・ダルク物語が6年を経て完結しました。毎年クリスマス頃に発売されていたので覚えやすく毎年楽しみでした。

 

以下ネタバレします。他の山岸凉子著作についてもネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

 

 

実は『レベレーション』山岸凉子が初めて「優れた男性」からの援助なしでそれを願うこともなく生きていった女性の物語だという思いで読み続けていました。

むろんジャンヌ・ダルクの物語は様々な情報でも映画でもまた安彦良和『ジャンヌ』からも彼女の生末がどのようなものであったかは多少わかってはいたつもりでした。

が、やはり男性が書いたジャンヌ・ダルク物語では多くの男性が彼女に惹きつけられ彼女を愛していたという部分が強調されます。

安彦氏『ジャンヌ』はジャンヌの死後の物語です。ジャンヌに憧れる少女エミールが彼女の足跡をたどる、という形式の物語になります。

エミールはジャンヌとともに戦った美男の貴族アランソン公爵に巡り合い彼がいかにジャンヌを敬愛していたかを聞くことになりこの物語での見せ場のひとつとなります。

しかし山岸凉子著『レベレーション』では確かに美男公爵として登場しジャンヌでさえ好意を持ってしまうのですが彼は以後まったく姿を見せることもなくつまりジャンヌとの深いつながりがあったとは思えない展開になっています。

 

とにかく『レベレーション』は「頼りになる男」「主人公が恋焦がれる男性」が一人も出てこない物語でした。

なぜこのようなことを書くのかというと山岸凉子という作家は「主人公である女性が優れた男性を頼って生きる」物語を描き続けてきたからです。

山岸氏が規定する「優れた男性」というのは必ず「誰よりも知性的で男性的で背の高い美しい容貌」でなければなりません。

なぜそこまでこだわるのか?と思うほど必ず高身長でなければ男性と認めたくないようであり知性と人格と美貌がなければヒロインが恋する男性としては不合格なのです。

『レベレーション』にはこうした「ヒロインの恋人」になる資格を持つ男性がまったく登場しませんでした。

山岸版美男公爵アランソンが安彦氏が描いたような男性的ではなく女性的な美貌であったのもヒロインの恋人にはならない徹底的なダメ押しでした。

最後にジャンヌをわずか助けることになる二人の僧侶もジャンヌの兄ピエールも容姿を見ただけでジャンヌの魂を救える男性にはなり得ないことがわかります。

そしてジャンヌ・ラ・ピュセルに心寄せるのは多くの女性たちだったという記述が続くこともあって私は「ああ、山岸凉子は『レベレーション』という集大成作品でヒロインを救うのは女性たちだったと描いたのだ。女性が求める〝優れた男性”など何の助けにもならないと描いたのだ」とこの6年間思い続け読み続けてきました。

 

「長い作家人生で山岸凉子は最終的に女性にとっての頼りは女性たちであり男性に求めても何の救いもならない。

今まで描い続けてきた〝優れた男性”なんかいない、と悟ったのだ」

 

ついに最終的境地に達したのだな、という思いでした。

 

最終巻6巻の末尾、ジャンヌに思いを寄せる若き美貌の僧侶モーリスの頼りなさを目の当たりにして私はこの思いを強固にしていました。ジャンヌはついに男性に救われることはなく求めることもなく生き抜いた、と。

 

 

ところが、次の瞬間ページをめくり私のこの6年間の思いは一気に砕け散りました。

 

そこにいたのは

 

エス

 

だったのです。

 

ああ、たしかに「神の子イエスは男性でした」

 

しかもこの世界で最も美しく知性ある男性でした。

 

結局ジャンヌは最も美しく男性的で究極の知性であるイエスによってのみ

救われたのです。

他の誰でもありませんでした。

 

 

6年間

山岸涼子はついについに優れた男性に見切りをつけたのだ」

と信じ続けてきた私は・・・・。

 

それどころか山岸凉子のヒロインは究極の男性に救いを求めたのだというオチに気づきませんでした。

気づかなかったせいで物凄いどんでん返しをくらって今文字通りひっくり返っています。

 

山岸凉子は私にとって萩尾望都と双璧の少女漫画家の存在になります。

どちらかと言えば男性的である萩尾望都と極めて女性的な山岸凉子という対比でもあります。

萩尾望都の物語の引き金が「両親からの愛情の枯渇」であり常に「父母から愛されない子供」を描き続けた萩尾望都に対し、山岸凉子の引き金は「異性からの愛情の枯渇」というべきものでしょうか。

「優れた男性から愛されたい女性」というしがらみを描き続けてきた作家であると私は考えています。

愛されるはずの親から愛されない子供、というものほど悲しいものはありません。

そして優れた異性からの愛を期待し続ける女性というのは何とも虚しいものであります。

山岸凉子の作品は(あまりに初期の作品は読んでいませんが)一貫してその虚しい女性を描き続けてきました。

『レベレーション』こそは彼女の集大成であり、そこで彼女は虚しい女性から脱却し得たのだ、と私は思い込んでいたのですが最期の最後でその思いは消滅しました。

むしろ最大の虚しい女性を描き切ったといえます。

 

この思いについてはしばらく書き続けてみます。

よかったらお付き合いください。