漫画でもアニメでも小説でも映画でも音楽でも絵画でもその評価を左右するのは自分の感覚に合うかどうかというのが第一になってくるのが当然なのですが、萩尾望都のマンガは超越した技巧を持ちながら且つ自分の感性にぴたりとあってくるので如何ともしがたいのであります。
萩尾望都氏は自分にとっての2大少女漫画家であります山岸凉子氏の作品との双璧なのですが、山岸氏の作品が物凄く面白いものでありながら私にとっては非常に神経を逆なでする、というか掻き毟られるというかぞっとし、うめき声をあげたくなるものなのに対して萩尾望都の世界はとても居心地の良いものであり(もちろんすべてそうではないけど)特にこの「銀の三角」世界の心地よさは本のページをめくることでその中に入ってしまう自分を感じてしまうのです。
遠い未来のSFのようでありながら遠い過去に起こった伝説のようでもあります。
萩尾望都のマンガはとても不思議でどれは止まった絵であるはずなのに記憶の中では動いているのです。
突然映画のワンシーンが頭にひらめいて「なんだったかな」と頭の中で検索していくとそれは萩望都のマンガだったことがあり、「いや動いている場面だったんだけど?」と自分だけで困惑したことがあります。他のマンガでこんなことを感じたことはないのですが、萩尾望都の作品だけは私の頭の中で動いているようです。
「銀の三角」もまたそういう感覚を何度も起こさせるものです。
風の音、楽器の音色、美しいラグトーリンの黒髪が生きているように舞い絡みつきしっとりと滑り降りていきます。ラグトーリンの指が弦をはじき、光を放つのです。
狂気のリザリゾ王は異形のものとして我が子を何度も何度も刺し殺す。その時何の反応も示さない子供が音にならない声を放つ。この異形音が時空の結晶をゆがめ世界は破壊される。
なんという怖ろしいイメージなのでしょうか。これは親から虐待を受ける子供のイメージなのであり、その叫び声は音にならず、しかし世界を破壊してしまう力を持つのです。
パントー=子供が叫び声をあげないようにするためラグトーリンは幾度も時空を行き来するが結局それを解決するには「なにもないことにする」しかなかったのです。
幾度も幾度も親から殺される子供、というこれ以上ないほどの苦痛を描くために萩尾望都はこんなにも美しい物語を作り上げなければならなかった。こんなにも美しい物語にしなければそんなにもおぞましいことを描くことはできなかったのです。
狂気の王の子供=パントーは何の反応も示さない。自分の心を閉ざした子供。
親に愛されない子供。幾度も虐待を受け続けるしかない子供。
銀の三角人は子供をなかなか作れない。
「最後の銀の三角人=ミューパントー」銀の三角人というのは作者・萩尾望都その人のことなのですね。
悲しく悲しく美しい物語です。