ガエル記

散策

「風立ちぬ」宮崎駿

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とても面白く様々なことを考えさせてくれる深みのあるアニメ作品でした。特に主人公の恋愛関係においてここまでの機微を描いているものは実写映画にもそうそうあるものではない、と感じました。

 

ものネット上で上がっているこの作品の感想を探すと「一途な愛に感動する」というものを越えるほど「主人公・堀越二郎の身勝手さ」に反感を持つ人が多く、「菜穂子のけなげさ」にしんみりする人がいる一方「却って気持ち悪い」という人が散見できます。

 

私としては昭和初期の日本、という意識が先にあって観ていたのでそういう設定というのが当然、と思いすぎて共感も反感も少なかったのですが、皆さんの素直な感想にちょっと驚きながらも「いや、そう思う事こそがこの映画の本意なのだ」という思いに至りました。

 

この映画は「二人の愛の形を美しいと感動しながらも男の身勝手だと反感を持ち、菜穂子のけなげさに涙ぐみながら気持ち悪いと思うのが正解の作品」なのです。

 

本作品は宮崎駿作品としては珍しい実在のモデルがいるアニメ作品ですが、大まかに言うと二人のモデルから成り立っていますね。

まずは名前からくる「ゼロ戦」の設計者・堀越二郎がその輪郭でありその内面は小説「風立ちぬ」作者・堀辰雄であるということのようです。

なぜ宮崎駿氏はこういう不思議なキャラクターを作り上げたのでしょうか。主人公のモデルが二人から成り立っている、というのはなかなか変わった趣向ではないかと思います。私はゼロ戦の設計者・堀越二郎も「風立ちぬ」の作者・堀辰雄についても全く知らないので漠然とした考察ではありますが、宮崎氏がこの作品の主人公のキャラクターを二人のモデルから作り上げたのは「そうしなければこの物語は語れない」理由があるからだと思うのです。

 

先に自分の考えを言ってしまうと私はアニメ作品「風立ちぬ」の主人公・堀越二郎は二人のモデルだけではなく「当時の日本男性」全員なのだと思っています。

昭和初期の日本男性すべてが「風立ちぬ」の主人公、なのですがそれを一人のキャラクターに落とし込むために堀越二郎堀辰雄という全く違う二人の実在の人物を混ぜ合わせてしまったのではないでしょうか。

私は「これは当時の男だ」と最初から思いながら見ていたので皆さんの素直な「これは良い男だ」「いや身勝手だ」という感想に驚いたのですが当たり前なのです。

「当時の男は頑張り屋の良い男であり、身勝手」なのですから。

「当時」というのはやや適当な言い方ですが「明治以降、開国してから諸外国に負けまいと頑張っていた当時」という意味合いです。しかもその男たちはそれは当然のことであり、自分たちに誇りも持っていたであろうし、そのためには様々な犠牲があったとしても邁進せねばならないのだ、と信じていたのです。

それはある面から言えば美しいほどのたゆまぬ努力であり、片方からは身勝手であったのです。

それなら菜穂子は「当時の日本女性の鑑」であります。当時のこうであって欲しい、こうあるべき女性の姿、として菜穂子は形作られています。

彼女のけなげさに感激・共感するのはそれが男性でも女性でもかつての日本女性の美意識をいまだに持っているのですし、(実は私も若干持っています)彼女が気持ち悪い、と感じるのは現在の人間として当然のことで私も「こんな女性は消え失せたがいい」と思っているのです、美しいと思いはしても、です。

 

 宮崎駿監督は本作品において主人公を「当時の日本男性」ヒロインを「当時の日本女性」としてそれぞれにとりあえずの男性の形、女性の形を与えて表現したのだと考えます。

なんだか大げさですが、そうすることでこの物語の作る意味があるのです。

 

タイトル「風立ちぬ」の風は時代の大きな変化のことです。「時代は変わった。さあ、私も頑張らねば」みたいな強い前進志向を感じさせます。司馬遼太郎の「坂の上の雲」と同じような開国した日本の強い上昇志向と重なります。

本作・堀越二郎はその風に乗って舞い上がっていこうという当時の強い意志を持った日本の男たちの一代表です。司馬遼太郎氏は「明治の頃の日本人(主に男性と言えますが)は自分の頑張りが日本を先に進めるという意志があった」というようなことを言っておられたと思います。本作は昭和ですがその意識は同じです。

親友・本庄が二郎の寝顔をみて「日本の飛行機づくりを一人で背負ったみたいな顔しやがって」と言いますが、その通りなのです。

 

菜穂子は当時の女性の代表です。堀越二郎のような日本を作っていこうという気概の男に惚れ込み、そのためなら自分の体がどうなっても構わない、というこちらも女性ならではの気概を強く持っています。

私は当時の日本女性のこの気概が怖ろしいのです。

かつての日本女性の美徳は「優れた男性が立派な仕事を全うさせるためなら女はどんなにでも犠牲になる覚悟があります」ということだったのです。

菜穂子の生きざまはこれに尽きます。

だからこそ二郎を励ますためなら病気でも駆けつけるし、肺病で衰え醜くなるであろう姿は見せまい、二郎さんには美しい自分だけを思い出してほしい、と心から願い実行するのです。

菜穂子のその気概を知っているからこそ二郎はその愛情を受けることを躊躇いません。

自分が愛する女性はそうあるべきなのです。

だから「これは本当の愛情なのか?」などと考えることはないのです。

「当時の日本男女の愛はこうであった」のですから。

ただし私たちは「現在の男女の愛」を考える人間です。

二郎と菜穂子の愛にかつての美意識が思い起こされ感動するのも当たり前だし、疑問を持つのはもっと当たり前なのです。

そして私は「現在の男女の愛」は決して二郎と菜穂子の愛であってはならないと思っています。

 

二郎は「美しい飛行機を作りたい」と言いながら結局戦闘機を作り、多くの怖ろしほど多くの人間を殺したのです。

 

それは時代のせいで仕方なかった、というのは言い訳にすぎません。

人間はもっとすごくなりたい、という欲望を持っていて、そのためには戦争に利用されることも無視できるのです。

 

二郎は何度も自分の愛する美しい飛行機によって人間の命が失われる、という宣託を受けながらも自分の欲望「すごくなりたい」という気持ちをあきらめきれませんでした。

優秀な頭脳、卓越した技術を持っている者がそれを捨て去ってしまうことができるでしょうか。そのために怖ろしいほどの犠牲者が出ても人間は自分の欲望をあきらめきれないのです。

 

でもあきらめるべきでした。

そう私は思います。

 

でもあきらめきれなかったのが堀越二郎であり、人命を奪い愛する人の人生を奪い自国すら破壊してしまうと予感しても自分の欲望を捨てきれなかったのです。

それが当時の日本男性の姿でした。

そして女はその犠牲になることを喜びとすることを美徳とされたのです。

彼女たちはほんとうにそれでよかったのでしょうか。

 

戦時中も多くの女性が犠牲となりました。夫を亡くし、息子を亡くし、それを笑って耐えることを強制されました。

娘子軍」「からゆきさん」と呼ばれる強制された売春婦たちが外貨を稼ぎ日本の外国進出の足掛かりになるのはよく知られた話です。

男性たちはそれを知っていても「それが女の役割」と考えていました。「そういう女の仕事はそういうもの。お国のために尽くせ」ということだったのでしょう。

二郎と菜穂子の関係はまさにその通りの日本の男女関係を具現化したものです。

これに唯一異を唱えるのが二郎の妹ですね。「菜穂子さんは良い人なのにかわいそう。にいにいは菜穂子さんが無理をしてるのをわからないの」

しかし二郎は妹の意見など聞いていません。

医者を志す妹は「当時の日本女性」から「未来の日本女性」に変わっていく姿です。

一方、黒川夫人は良い女性として描かれてはいますが「当時の日本女性」を良しとしていて二郎の妹の行動を押しとどめてしまいます。

いや黒川夫人だけではなく二郎の妹以外、本作品の女性はみな二郎が「良い女性だ」と思うキャラしか出てきません。菜穂子の侍女・絹もそのタイプです。二郎の母親がまずその原型となっているのですね。

二郎の妹だけが「二郎が良いと思わない女性」として描かれます。私としては彼女だけが希望の星です。

 

多くの人が本作の堀越二郎を「身勝手だ」「これは愛じゃない」と感じ、菜穂子を「むしろ気持ち悪い」と感じたことに私はほっとします。

この二人の生き方・愛情が最も美しい、という声が大半になった時、本当に日本は終わるでしょう。

 

繰り返しますが、本作アニメ「風立ちぬ」の堀越二郎は当時の日本男性そのものであり、自分が夢をつかむためには何の犠牲も厭いませんでした。

菜穂子はそんな男のためには命を犠牲にし彼が嫌う美しくない姿を見せもしませんでした。それが日本女性の鑑だったからです。

日本はこういう女性の犠牲の上に高度成長し続けました。

その中に女性の惨たらしい犠牲、女性の役割と言える強制売春・強制性暴力・妊娠の強制・堕胎の強制なども含まれていることも男たちには取るに足りないことだったのです。菜穂子の姿はそれらとまったく違いません。

 

二郎の妹・かよだけが救いですが、彼女は現在でもなかなか二郎のような男性に認めてはもらえないようです。

 

さて日本はこれからどうなるのでしょうか。

 

最後、菜穂子が二郎に「生きて」と呼びかけ、二郎が「うん、うん」とうなづきます。

ぞっとする光景です。二郎が勝手に思って納得している光景にすぎないのです。

 

二郎は早く死んでほしいです。

そうでなくてはならないのです。