ここ数日楳図かずお『漂流教室』を読み、そのなかに萩尾望都は他の誰よりも楳図氏の影響を受けているのではないかと感じてしまいました。
萩尾氏は影響を受けたマンガ家好きなマンガ家としていつもまず手塚治虫をあげていますし次に横山光輝、わたなべまさこなどの名前を今まで見てきました。そのなかに楳図かずおと記されていたことはなかったように思うのです。
もちろんこれは私の勝手な思い込み、妄想にしか過ぎないので『漂流教室』で私が感じたどの符号もまったくの偶然にしか過ぎないのかもしれません。
たまたま萩尾・楳図のおふたりが共通する感性を持っていて似てしまったとは考えられなくはないのでしょう。
しかし反面『漂流教室』にあって萩尾望都作品に絶対ないものがあったのです。
それが『漂流教室』の最も大きな要素である
「息子を必死で助けようとする母親の愛情」
でした。
以下すべての萩尾望都すべての作品のネタバレしますのでご注意を。
萩尾望都作品は「親の愛」がまったくない、もしくは乏しいものが連なります。愛があっても既に存在しないという設定も多いのです。
両親の愛情を直に受けていないこどもたちを描いた作品ばかり、とさえ言えます。
まずはもっとも有名な代表作『ポーの一族』のエドガーとメリーベルは実の両親に捨てられています。ふたりの物語の始まりは捨てられた場面から、と言ってもいいのです。
エドガーの妹への愛情は強いものですが萩尾氏自身は「兄」がいないので想像しやすかったのかもしれません。それでもエドガーとメリーベルが過ごした期間は短いのです。
(実質の時間はある程度長かったのでしょうがマンガ作品としてとても短い)
次に『トーマの心臓』はドイツのギムナジウムが舞台、つまり両親と離れ寄宿学校に暮らすこどもたちの物語です。
捨てられたわけではないとはいえ、両親を極力描かずにすむ題材です。
(竹宮惠子氏はこの設定を萩尾氏が〝盗んだ”と訴えることになってしまうのですが彼女はこの設定に心底逃げ込んだように思えます)
しかも主要人物はほぼ親から事実見捨てられた少年ばかりです。
ユリスモールは父親が死亡、母親は厳格な母に縛られユリスモールは家庭に近寄れません。
エーリクもまた父親が死亡、母親は良い人ですが次々と恋人を変える上にエーリクの自殺未遂を見逃します。
オスカーは母親が死亡。育ての父親は失踪し実の父親とは作品中は認め合うことがないままです(直後養子になる予定ですが)
短編作品もあげていくとキリがありませんが親から消される話、母親を殺す話、などが続きます。
名作短編と言われる『小夜の縫うゆかた』も母親がすでに死亡。『秋の旅』は母子を見捨てた父親に会いに行く息子の話です。
名作SF短編『あそび玉』も実の親子ではない、という設定です。主人公である息子がいなくなっても両親が「なんとしても取り戻す」というような熱い展開にはならないのです。息子も軽く別世界に行く決心をしてしまいます。
ずらっと作品名をみていくとほぼ両親もしくは片親がいない、親とのつながりが薄い、という設定ばかりです。
次の代表作『11人いる!』の主人公タダも両親が死亡したこと自体が物語の鍵になっています。
『アメリカン・パイ』は何度読んでも泣いてしまう名作ですが実の娘の死を前にしてあっさり去っていく両親がちょっと疑問ではありました。しかし物語があまりにも感動的なのでその部分が気にならないという不思議です。
レイ・ブラッドベリ傑作選では「宇宙船乗組員」「びっくり箱」「集会」という親を失う、親の奇妙な束縛から逃れる、親に失望されているこどもたちが選ばれています。
『百億の昼と千億の夜』はそもそも親子の愛情という題材ははりこんでいません。
『スターレッド』ではレッド・セイは故郷・火星に対して激しい慕情を抱きますがなぜかちらっと姿を見せた親のことを思い出しはしません。彼女の「親のことをちらとも思い出さない」のは徹底しています。
地球で彼女を育ててくれたパパ・シュウには感謝していますが。
ジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』のマンガ化。大好きな作品ですが、やはり親が死んだ、ことで自由な生活をおくる子供たち、という設定を選ぶのは徹底的です。
『メッシュ』これはもう徹底的に「親に捨てられたこども」という題材で描いています。
『エッグ・スタンド』素晴らしい作品です。そしてやはり母親を殺しています。
『マージナル』なんというか・・・この世界が男性ばかりで「母」という存在がたったひとりしかいない、という設定です。
そのたったひとりの母から生まれた男性たちの話です。
めちゃおもしろい作品で大好きです。
『ローマへの道』見捨てられたこども、そのままですね。とてもつらい話でもありますが珍しく救いのある話になっています。
そして『イグアナの娘』現実に日本人で母親に嫌われる・厭われる娘の話、を真正面からやっと描けた作品、と言えましょうか。
それでもイグアナになってしまった、という設定でなんとか逃げている気もします。そのまま直視するのは恐ろしいのです。
そしてさらに『残酷な神が支配する』
この年は萩尾望都が長くあの手この手で逃げてきた親との対決を真正面からぶち当たる決意をしたのでしょうか。
とはいえやはり外国舞台で義理の父親からレイプされ続ける少年、という逃げ道ではありますが。
物凄い大作で萩尾望都の代表作の一つにあげられますが私はこの作品だけは好きにはなれないのです。凄い力量、凄い技術、とは思いますが。
事実この作品で私はしばらく萩尾望都から離れてしまいました。
『バルバラ異界』読んだのは単行本発売から数年経ってからでしたが結局この作品で私は再び萩尾望都に戻りました。
本作は『残酷な神が支配する』の真逆に実の父親が息子を守りたい一心で奮闘する物語です。
とはいえ出だしはその父親が長い間息子を見捨てていたために息子からは激しく嫌われている、という設定になっていますからやはり、としかいえませんが。
それでもこの素晴らしいSF作品は私にとって全萩尾望都作品の最高峰と思っています。
出だしは見捨てていたとはいえ、萩尾氏の作品で父親が必死で息子の愛情を求め彼の幸福を願っていく新境地となった、と私は感激しました。
が今回楳図かずお『漂流教室』でその感激は単に萩尾氏の技巧だったのではないかと思わされました。
萩尾氏が創作した父親の愛情は、楳図かずお『漂流教室』に登場する母親の愛の姿を模倣したものではないのか、と思うのです。
これはショックでした。
萩尾氏が真似をした、というようなことではありません。
これは「盗作疑惑」などというようなものではないのです。
やはり親の愛情というものを心から感じられない萩尾氏にとって「息子を思って走り回る父親」という物語を創造することはできず『漂流教室』の息子を助けようとする母の姿を借りることでしか描けなかったのだ、ということが悲しく思えたのです。
事実、その後も萩尾氏の作品が親の愛情に満ちたものに変化するわけではありません。
それは『バルバラ異界』で萩尾氏の新境地を感じた私には「なぜ元に戻った?」という疑問になったのですが萩尾望都氏は新しい境地に達したりしたのではなかったのです。
『王妃マルゴ』ではすっかり元の「母親の愛情を与えられない見捨てられた娘」の話に戻っています。そして物語中に一度も母親の愛情を感じる場面はありません。
より『漂流教室』の題材〝二つの世界”に似通っている『AWAY』は設定自体は『漂流教室』をまざまざと思い起こしますが肝心の「母子の愛と強いつながり」は完全に失われてしまいました。
『バルバラ異界』と比較しても『AWAY』は内容はおもしろくても感動がないのです。
いくら仕掛けが緻密で驚異でも感情が揺すぶられなければ人は感動できないのです。
もしかしたら萩尾氏はそのことに気づいていない、のでしょうか。まさか、とは思うのですが。
その後、私は詳しくは調べてはいませんが再び『ポーの一族』を執筆中です。
ある意味中断してしまったように思えていたこの作品の再開はファンとしてはとてもうれしいものですが萩尾望都氏は結局「親子の愛情」というものを心底信じて描くことはないのかもしれません。
無論「親子の愛情」などというものは幻想にしか過ぎなくて生存と子孫を残すためのプログラミングにすぎない、ということなのかもしれません。
唯一父親の愛情を描いたかに思えた『バルバラ異界』も肝心の息子の幼少期を父親は見捨てているのですし、それ以後急に君を取り戻したい、という父親など逆に酷いとも言えます。
そしてその後安定のー親に見捨てられたこどもたちーの物語に戻っていきます。
少し前たかつて共に暮らした竹宮惠子氏への返答のような著作『一度きりの大泉の話』はとても辛いものでした。
両親から愛情を与えられなかった萩尾氏は竹宮氏・増山氏との共同生活に最近流行りの「疑似家族」のような安らぎを求めてしまったのではないのでしょうか。
しかし萩尾氏はそこでもふたりに見捨てられてしまいました。
その理由が竹宮氏の言うように「萩尾氏の才能への嫉妬」だとしても彼女自身は捨てられたのです。
それから50年経って「仲直りしましょう」と言われても(しかも直にではなく本の上で)キリヤ少年のように頑なに拒むのは当然です。
作家としては萩尾氏の葛藤は凄い作品を生み出す原動力になったのかもしれません。
しかしその心の痛みを思うとその「疑似家族」が幸福であったなら、とも思います。
が、そんな幸福はこの世界にはないのかもしれません。
親に見捨てられたこどもたちは凄い作品を生み出す人が多いように思えます。
逆に言えば幸福な子供時代を過ごした人はたいした作品が生み出せないとも言えます。あたりまえですが神様は残酷です。