ガエル記

散策

『91衛星(サテライト)SOS!!』横山光輝

1980年月間少年チャレンジ掲載

 

昨日に引き続き横山光輝最期のオリジナル作品、と銘打って記事を書こうとしているのですが今年表を見たら1987年『仮面の忍者赤影(新)』というのがあったのでこの説はなくなったw

しかしまあ乗りかかった船なので「初出オリジナル作品最期」ということで書き進めましょうか。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

先日ひらさんからも解説のあった「宇宙SF」の一つになる。

SFはそれが映画にしろ小説にしろマンガにしろ物語だけでなく背景をどのくらい詳細に描き込むかにあるのは確かだ。

『宇宙船レッドシャーク』では自身が納得できなかったと言われるものが本作ではかなり充実していると思える。

まずは宇宙船

デザインの変化は著しい。

船内のデザインもまた。しかし服装は案外あっさり。

 

主人公・峰が乗る調査船は未知の惑星に遭遇する。さらに地球宇宙局によって組み立てられた90個の衛星の記録にはない「91個めの衛星」がそのそばに浮かんでいた。

船長は峰と共にその未知の惑星の調査に向かう。

この一巡の動向を緻密に描いていく横山演出は以前とまったく変わらない。

隊員が男性のみなのも変わらず。

 

船長と峰は砂に覆われた大地の先に建物の跡を見つけ降り立つがそこには地球人とは違う形の人骨が夥しく打ち捨てられていた。

 

ふたりは調査船へと戻る。暴動か戦争で大量虐殺があったのかもしれない、というのが船長の判断だった。

翌日は91目の人工衛星の調査を他の隊員がふたりかって出た。

マスクメロンを思わせる筋が走る衛星のデザインだ。影に隠れていた宇宙船にまずふたりは入り込む。そこにも地球人とは違う形の人骨が山と積まれていた。

船内のデザインが不気味なのもおもしろい。

 

が途中でふたりとの交信が途絶えてしまう。どうやら衛星の壁が電波を遮っているようだった。

二時間経過しても応答がなく船長は再び峰を連れて人工衛星へ向かう。衛星は自動的に開く入り口があった。

が、ふたりのすがたはない。

探し続けるふたりは倉庫らしき部屋にはいる。

と、目の前の孔口からドサッと音を立てて大きなカプセルのようなものがふたつ現れたのだ。

ナイフで切ってみると中から小さくパッケージされた食糧らしきものがぎっしりと詰まっている。

さらに進むと先ほど応答が途絶えたジョナサンとスミスの宇宙服が破壊され散らばっていた。

ううう。右下のコマ「ジョナサン」という名前を使ってしまう日本人がやりがちなミス「ジョナさん」ここは緊迫した場面なので笑わせられるとツライ。

 

恐怖に満ちた緊迫感の中で船長が進む。

と、突然床が動き出し船長ははずみで倒れてしまう。

物凄い速さで穴に向かっていくのに抗い船長は壁にしがみつくが壁から触手のようなものが伸び船長の身体を穴へ誘導した。

船長からの通信に峰は救助に向かう。

だが再び目の前に三つ目のカプセルが搬出された。

更に別の穴からは船長のヘルメットが。

峰の足元が動き出す。危険を察し峰は衛星の機械類を撃つ。

あちこちで爆破が起き始めた。

峰は脱出し残っていたアーネストと共に衛星を離れた。

 

峰は自分の推測を話す。

「食料危機に見舞われていたこの星の人々は死者の骨肉を加工して食糧に作り変えていた。だがそれでも間に合わず戦争がはじまり飢えと戦ですべてのものが死にたえたのだろう。だが衛星はいまだに働き続けていたんだ」

衛星の爆発を見て峰は91衛星が役目から解放された、と感じた。

 

この本作SFの欠点を突くことよりもやはり興味は何を題材にすることかにあると思う。

(つまりここまでの科学力があるのならば・・・というような)

すべての作品がそうであるけどSFは特に作者の願望や恐怖が具体的に表現されてしまう。

女性を求めている男性作家はそうした欲望をSFに結実させてしまうし女性作家の多くが女性性の悩みを作品の中に入れ込んでしまう、ル・グイン萩尾望都などが生殖にこだわる作品を多く描いていることから見ても。

 

第二次世界大戦を体験してしまった先人たちはどうしてもその恐怖から逃れることができない。

横山光輝氏がマンガ作品で一生「戦争」を描き続けていったのもその恐怖からくるものなのだろう。

それは手塚治虫火の鳥』であの冷酷キャラのロックが「戦争だけはしてはいけない」と叫んだことからも感じられる。

楳図かずお漂流教室』は恐怖SFだがその内容は「戦争で追い詰められた子供たち」そのものでしかない。

漂流教室』は戦争の恐ろしさを最も強烈に描いたマンガ作品だ。

学校の外は荒れ果てた土地であり子どもを飢えさせる恐ろしい大人たちが描かれる。その恐怖の核になるのはやはり「飢餓」である。

戦争の恐怖を描いた作品の多くが「飢餓」を訴える。

 

本作を読んだ者は映画『エイリアン』をデザイン的に思い起こしてしまいそうだが『エイリアン』の中で「飢餓の恐怖」は描かれてはいない。得体のしれない怪物に捕食されてしまう恐怖のほうだ。

 

アメリカ人にとって第二次世界大戦は「飢餓の恐怖」ではなかっただろう。むしろもっと以前の南北戦争などでは描かれても実体験として飢餓に苦しんだものの気持ちはわからない。

むろん私だってわからない。戦争を子供時代に体験した先人たちの苦しみの多くはこどもゆえに「食べ物がない」だったはずだ。

 

1980年、46歳になった横山光輝氏の恐怖はやはりまだ「戦争と飢餓」だったのだ。

また『漂流教室』に戻るがあれほど楳図かずお氏が恐怖した飢餓だが、先日『漂流教室』をもとにアニメ作品になった『Sonny Boy』では飢餓の恐怖は描かれなかった。これはその恐怖がわからない世代にとって重要なポイントではなかったからだと思う。その選択は正しかったと私は思っている。

あの作品での恐怖は「人とわかりあえないこと」にあった。

 

しかし横山光輝世代の恐怖はいつまでも「戦争と飢餓」なのだ。

横山氏最期のSF作品と言っていいだろう本作の題材がやはりそこにあったのかと思うと悲しくもあり戦争を恐怖する。