「どろろざんまい」参ります。
第21話「逆流の巻」
タイトルの逆流、これには「ぎゃくる」とルビが振られています。辞書によると
「仏語。生死輪廻の流れに逆らって、悟りへの道におもむくこと。→順流 (じゅんる) 」
とあります。
このタイトルがこの回をそのまま表しているのでしょう。といってもこの回ですべてが解決するわけではないので、その発端というべきでしょうか。
百鬼丸は前回でゆっくり人間への道を歩んでいたのが鵺の男の言葉で再び鬼の世界へ入っていきます。このままでは鬼神になってしまう、とどろろは感じています。
多宝丸は優雅な御曹司でいられたものを兄である百鬼丸への嫉妬ともいえる憎悪を持ったことで悪鬼の心を産み出してしまいます。
原作・旧版では途中で百鬼丸に殺されてしまう運命だった多宝丸が新版で改変されたのはこの「逆流=ぎゃくる」を描く為であったのでしょう。
そしてもっとも大きく変わった人物がふたりの母親・縫の方でした。
原作マンガでは百鬼丸を思い続け、夫・景光、子・多宝丸からは余計なことはするなといさめられるだけで何もできなかった女性でしかありませんでした。アニメ旧版では夫から殺されてしまうという悲しい女性です。
その縫の方は新版アニメでは自分の愚かさを嘆き悔い、どろろから「ひどい母親だ」と誹られても挫けずに「百鬼丸に会いたいのです」という願望を口にします。
原作マンガ「どろろ」が手塚治虫によって生まれ長い年月を経てやっと何もできないままだった縫の方は願望のみで歩き出したのです。
「逆流」は寿海、醍醐景光にもそして兵庫や陸奥の運命にもかかっているということなのでしょうか。
そして白馬ミドロ号には誰よりもその運命があったように思えます。
そしてどろろは?
盗賊の娘として生まれ育ち、女の体でありながら両親から男として育てられたどろろは出会った百鬼丸やそのほかの人々を見ながら「本当の生き方」を探し続けています。
第23話「鬼神の巻」
どろろの切ない叫び「これからなにをするかってことがつかめてきた。でもそれには兄貴がいなきゃ。目でも腕でもそんなのは鬼にくれてやれ。ほしけりゃおいらが目になってやる。手になってやる」という言葉、このことがそのままかなっていたら前に書いたようにもう一つの選択ができたのかもしれません。
どの選択が幸福なのか、正しいのか。
それはそのまま現実になるとは言えないとしても。
第24話「どろろと百鬼丸」
何もかも手に入れていたはずの多宝丸に百鬼丸は「なぜ足りない?」と問う。
燃え盛る城の中で戦う多宝丸と百鬼丸。
そこへ駆けつける母親・縫の方と百鬼丸の養父・寿海。
醍醐の象徴である城が燃え落ちる中で家族が相まみえることになるわけですが、ここには家父長である醍醐景光はいませんね。
縫の方は百鬼丸に「愛しい」という言葉をかけることができました。寿海はお前に与えるべきは心だったと伝えることができました。そして母親と共にいながら母の愛を感じることができなかった多宝丸はその愛を与えられたのです。
人を殺めたことでずっと苦悩し続けた寿海はこうしてやっと救われたのでしょう。
そして家父長である醍醐景光のみは魂が救われることなく戦争という地獄の道を進むことになります。
ここにきて「領地の安寧」ではなく原作通りの「天下取り」願う父・景光でありました。
そして百鬼丸はその父に仏像を託して再び旅に出ます。「俺は人だ」と「あんたも鬼神になるな」と言って。
ここで父・醍醐景光は百鬼丸の魂が鬼神が安寧の代価として欲しがるほどの価値があったのだと思い知ります。
たぶん景光の魂はその代価になるほど鬼神は欲しないでしょう。
その後のどろろと百鬼丸の未来はどうなるのでしょう。
どろろは武士に頼らない民の村を作り上げるのでしょう。どろろの親譲りの意志の強さと人々をまとめ率いていく能力は以前に示されています。
百鬼丸の旅はどんなものでしょうか。原作とは違い鬼神をすべて倒し人の体となった百鬼丸は今度は強い心を探していくのかもしれません。
美しい娘になったどろろの姿と柔らかな微笑みができるようになった百鬼丸が映し出されて「どろろ」新版は終わります。
「どろろ」リメイク、という話を聞いた時、そして初めて観た時に百鬼丸の姿があまりに違うことに驚いてやはりリメイクというのは無理なのかも、と思いました。
途中まで観てそのままになってしまっていたのをhuhuさんの声掛けで観る気持ちが起きこうして「どろろ」新版の意味を知り感じることができて本当に良かったと思います。またhuhuさんは深い分析をされて私をここまで導いてくださいました。
その分析はここまでの「どろろざんまい」のコメントに書かれていますので、みなさんどうぞそちらを是非読んでみてください。このアニメ作品の持つ意義はそこにあると私も思っています。
huhuさん、ありがとうございます。
今までリメイクアニメ(そして様々なリメイク作品)というのは絶対に原作を越えられないし、絶対に改悪されてしまう、と思ってきましたが、そうではないことがこの「どろろ」新版によって証明されたのだと思います。
時代によって改変されるべきものもあるし、元の作品をもっと違う方向で表現しなおしてみたい、という強い気持ちがあればリメイク作品は素晴らしいものになるのですね。
単純に元の作品をそのまま新しい技術で作り直す、ということではなくそうした思いが必要なのです。
「どろろざんまい」これでいったん終了とします。
また書きたくなるかもしれません。
この作品はそれだけの力を持っていると思います。