ガエル記

散策

「どろろ」新旧比較してみる その9

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どろろざんまい」新版での16・17・18話でまだ途中ですがここでそれぞれの良さと欠点と他との差異を考えてみたいと思います。

 

手塚治虫著「どろろ」原作マンガは勿論すべての原点です。なんといってもこの凄まじい物語を産み出し作り上げることができたのは手塚治虫だからこそ、としか思えません。

可愛らしい絵で明るい未来を描いたマンガ、という表面的なイメージのある手塚治虫は怖ろしい話が幾つもあります。私は手塚マンガのそちらのほうに強く惹かれます。

百鬼丸の父親・醍醐景光は一国の領主でありながら更なる権力を願うために鬼神たちに我が子の体の48か所を捧げてしまいます。

母親は夫に逆らう力を持たず僅かの希望を託して生まれたばかりで身体の48か所を失った赤ん坊をたらいに入れて川に流します。それを拾った医師・寿海は体中が欠損した赤ん坊に生きる気力を感じて彼を育て彼が失った体の部分を手術で補う決意をします。

木や焼き物で義手や義足を作り上げたのです。彼自身もこれをつけて動く訓練をし自由に動けるまでになりました。

医師との会話はいわばテレパシーで行える能力も持っています。寿海との生活は楽しいものでしたが次第に彼には不気味な妖怪が常につきまとうようになります。

寿海は彼の腕に刀を仕込む手術を行い、彼に百鬼丸という名をつけて旅に出るように言い渡します。百鬼丸は自分を育て素晴らしい体を与えてくれた寿海に感謝し名残惜しみながら旅立ちます。

そしてすぐ「おまえは48の魔物に出会うだろう。その魔物と対決して勝てばお前の体はなみの人間に戻れるかもしれぬ」という声を聞く。

そうして百鬼丸の魔物退治の旅は始まったのです。

 

なんという不思議な話を考えたのかと思います。

この物語は強い家父長制がもたらした罪と罰であります。

家父長制という日本にもあるこの制度は今でも一見緩くなったようでいてその根は深く強いものです。報道される様々な犯罪の原因に家父長制からくる因果を感じることができます。

家父長制はイコール男尊女卑にもなります。その為に社会で女性へのしがらみや負担はなくならないのです。

この物語において家父長制は百鬼丸の体の48か所を奪い、そしてタイトルロールである「どろろ」の生き方をゆがめさせます。

どろろという一見口が悪く乱暴で自らを大泥棒だと名乗る「女の子」は実は両親から「男の子」として育てられおり誰もがそうだと信じていました。どろろ自身女の子であることをまったく感じさせようとはしないのですが、手塚治虫はどうして物語のヒロインをこのような形で造形したのでしょうか。

しかもタイトルそのものとなるヒロインをあまりにも「可愛くない」少女にしてしまうのは商業的にはあまり得策とは思えません。

今も昔もヒロインはこの上なく可愛い少女であることが求められます。性格も読者が共感し、同情するようにと作り上げられるわけです。

「こんな可愛い女の子がかわいそうに」「なんてけなげなんだ、守ってあげたい」「早く百鬼丸と恋をして結婚させてあげたい」などのような感想を持ってもらうためのヒロイン造形がどろろには微塵もありません。

確かに元気な男の子的な可愛さはありますが、手塚氏がどろろに女の子らしい繊細さや、ロリータ的なエロチシズムをすべて放棄させたのは今見ても驚くばかりです。

手塚治虫の最高傑作のヒロインでありながら大好きなヒロインに選ばれることはないのでは、と思われるのです。

手塚治虫自身、他のマンガ作品、いや「どろろ」作品中でも女性の立場は弱く虐げられることが多いのです。どろろも酷い目に何度もあうのですが女性的な弱みをまったく見せず男性的に打ちのめされた様子に描かれているのは手塚治虫は「弱い女性」を描きたくなかった、からなのでしょうか。

現実はそういう弱い女性というか家父長制度に負けてしまう女性がいる。負けて泣いたり死んだりするしかない女性たち。しかしどろろは父も母も強い力の前に死んでしまったのを見ながら生き抜いてきてそれでも自分を大泥棒だと言って威張り散らす。

百鬼丸に近づいたのは刀を奪い取るためで恋をしたり結婚したりするためではないのです。

こんな女主人公(ヒロイン)は他にないでしょう。(ちょい役・脇役ならあったとしても)

手塚治虫は本の表紙うらに「百鬼丸のほうが奇抜なのだから何故タイトルを百鬼丸にしなかったのかと聞かれますがぼくはどろろの性格が大好きなのです」と書いています。

手塚氏は壮絶な運命を背負った百鬼丸よりもどろろという少女の人生のほうが凄いのだと思っていたのではないでしょうか。

 

高い身分で美しい奥方であっても夫の命令通り我が子を川に流すしかできない百鬼丸の母親、夫の言いつけで金のありかをどろろの背中に書きつけて飢えで死んでいったどろろの母親、大勢の(他人の)子供たちを養うために身を売っていた少女みお。

そういった女性ならではという人生を歩まないためには、どろろは「男として生きる」という道でしかありえない、と手塚治虫は考えたのでしょうか。

この描き方は今現在描くと「性同一性障害」というカテゴリに入れられてしまいそうですが、私はどろろがそうであるとはこの段階では言えないと思います。両親から男として育てられ本人もそのことを受け入れやすい性格だったのでしょう。暗示にかかっているようなものもあるかもしれません。体もまだ女性的になる第二次性徴前です。

その時期を経て彼女がこれからどういった人生を選択するのかは手塚治虫の原作「どろろ」が成長する前に終わっているのでなんとも言えません。

ただ、男の子として成長してきただけでなく、どろろが気が強く困難を目の前にしても機転を働かせ、自ら犠牲になる危険を受ける覚悟を持ち大勢を指揮できる力を持っている、という描き方はどろろが将来女領主になれる素質がある、と手塚治虫は希望して描いたのではないかと思いたいのです。

 

私自身、以前どろろの存在の意味をまったくわかっていませんでした。

普通に男の子設定だったらよかったのに、と思っていたのです。

何故手塚治虫どろろを女の子として描いたのか、どうしてマンガのヒロインをまったく可愛くない少女として描かなければならなかったのか、百鬼丸以上の存在だと手塚治虫が考えてタイトルにしたのはどうしてなのか、そのことをよく考えなければなりません。