ガエル記

散策

どろろ」新旧比較してみる その6

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今日も「どろろざんまい」参ります。

さてアニメ新版では14話「鯖目の巻」15話「地獄変の巻」となります。私がダビング失敗(タイトルと時間表記出てるのに中身が真っ黒だったという)で見損ねた二つの回ですがちょうど2話構成になってて、しかも新版としては非常に重要な回だったのですね。この2話を観れないと「どろろ」新版の意味が解らないことになるといういわば核心部分でした。

ざんまいの前一度観終わった時、なにか説明不足のように思えたのはこの2話がなかったせいでしょう。

 

新版「鯖目の巻」「地獄変の巻」はマンガ・旧版の持つ内容と意味合いはまったく違うものになっています。

そして新版における「どろろ」の新解釈はこのエピソードに至って強調され明確にされたと思えます。

24話中の14・15話、物語は半ばを過ぎ新しい展開を望み始めます。

父親の祈願の引き換えに失ったからだの箇所を取り戻すという一念で百鬼丸はあがきながら生きてきました。観客は彼に共感し懸命に応援したはずです。

そしてあと少しとなったこの時点で「百鬼丸の失った体のおかげでこの国の安泰が約束されている」つまり「百鬼丸が体を取り戻せば国は滅ぶかもしれない」というアンチテーゼが示されてしまったのです。

観客としては「なんだって?」と衝撃を受け、「そんなことって」と打ちのめされ「じゃあ仕方ない。百鬼丸残りはあきらめて我慢してくれよ」とまで考えてしまったことでしょう。

でも考えてください。

それって国のために体を犠牲にする、ってことなのですよ。

それは戦争時においての戦死、また様々な産業の発展において過労死であるとか廃棄物による病死、原子力発電所放射能汚染での死亡などに対し「多少の犠牲は仕方ないよ。あんた、お国のために我慢して死んでくれ」という事と同じなのです。

 

しかしここで「どろろ」作品は「じゃあ、自分のために自分の意志を通すことで世の中がどうなってしまうのかを見てください」と表現していきます。

百鬼丸が自分の体を取り戻すために鬼神と戦うことで村の秩序は崩れ火事を引き起こしてしまいます。

しかしその秩序もまた数多くの子供の犠牲の上に成り立ったものでした。

それでもどろろは平穏で豊かでそれゆえに心優しかった村人たちが荒んでいくのを目の前にして「どうしてこんな風になってしまうんだ」と嘆きます。

 

そこで再び考えなくてはなりません。

国が豊かで安寧であるために子供たちの命が、百鬼丸の体が、つまりあなたやあなたの家族の命が幸せが犠牲になることは「仕方のない」ことなのでしょうか。

多くの戦争や歪んだ政治の物語を小説や映画で見て来てそのたびに「戦争はいけない」「独裁は怖ろしい」「皆が幸せで安心できる生活を築いていきたいね」と決意するのですが、改めて百鬼丸の犠牲を目にすると「少々我慢してもらおうか」となってしまう。その犠牲は安心が崩れるたびに別の生贄を求められ増えていく、そのたびにあなたは目をつぶり「多少の犠牲は仕方ない」とつぶやき続けることになる。自分が犠牲者にならない限りは。

 

そして「どろろ」新版はもう一つの物語も含んでいます。

この2つの回でどろろはなんども「兄貴もうちょっとおいらの話聞いてくれたっていいじゃないか」という言葉を何度も放ちます。

 

自分の目的に懸命になっている百鬼丸とそれを支えようとしているどろろ、というここまで固く組み合わされていた連帯がここで崩れようとするのです。

それは先に言った「おいらたちのやったことは、やっていることは間違いなのか、もっと別の方法があるのではなかったのか」という疑惑がどろろの心に浮かんだことともあいまってどろろ百鬼丸に「どうすればいいんだろう」と問いかけているのにがむしゃらに目的に突き進む百鬼丸にはその声の重要性が理解できないでいます。

 

これは家庭の中で夫が家族のために必死で働き稼いでくるのは大切なのだけど、妻が「仕事ばかりじゃ子供たちが遊びにも行けずかわいそうよ(実は自分が寂しい)」というのを「うるさいな、仕事が第一だろう」と聞く耳持たずになりいつのまにか家庭崩壊してしまう、という文脈と同じなわけですが、仕事一筋の百鬼丸に判るはずもないのです。

2話の始まりにどろろの両親が稼いだ金のありかをどろろの親とどろろ自身の背中に記して「いつか世のためにこの金を使う」という大望を持っていたことを示します。

百鬼丸はこれに何の興味を持ちませんが(目的はひとつなので)琵琶丸はこのことが「おまえさんたちの選択肢になる」と予言します。

つまりはこの言葉こそが「どろろ」新版の予言です。

 

さてここで選択肢。

 

どろろ」物語で百鬼丸が最後、「目」を取り戻すことだけはあきらめていたら縫の方も寿海も弟・多宝丸とも仲良く暮らしていけたかもしれませんね。

「目」が戻らない、というのは人間にとってかなりきつい選択ではありますが、そのきつい選択をすることもできた。プラス国の安全祈願も少し効力を持つわけです。

先に「体を犠牲にするなんてとんでもない」とは言ったのですが、その選択肢もあった、と後に百鬼丸は考えたりはしなかったのでしょうか。

たしかどろろが「おいらが兄貴の目になるよ」という言葉もあったように思うのですが。

私自身は百鬼丸が大好きなので目も戻って欲しいのですけども。

マンガでは「目」は早い時期「妖刀の巻」で戻ったのですが、新版で最後になったのはこのことを考えさせるためだったようにも思えます。

やはり「目」が戻らない、というのはかなり迷うことだと思うのです。

 

こうして「どろろ」新版の重要なテーマがはっきりと示されました。

 

人間が社会の中で生きていくことで一番大切なことは何なのか、いつも考えねばならないこと。その正しい答えが必ず見つかるわけではないのです。

より良い答えを私たちは考え選択することを常に要求されます。

その社会とは国であり仲間であり家族であり夫婦でもあります。