ガエル記

散策

「どろろ」新旧比較してみる その3

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お父さんの造形かなり違いますなー。

 


さてさて、どろろざんまい、続けますよー。ネタバレだらけですのでよろしくです。

 

どろろ」の物語で印象的なものは前回書いた百鬼丸とみおの悲しい恋の物語です。

これはアニメ旧版・マンガでは百鬼丸どろろと出会ってすぐ思い出語りとして描かれ、アニメ新版では第5・6話に渡って「守小唄の巻・上下」として細やかに百鬼丸どろろふたりの経験となります。

アニメ旧版とマンガでは次に万代の巻がありその次に「無惨帖の巻」で今度はどろろの思い出語り(ただしこちらは百鬼丸どろろの考えていることを読み取るという超能力を使って)でアニメ旧版ではこちらが2話に渡って語られます。新版では第7話「 絡新婦の巻 」第8話「さるの巻」というややおかしみのある化け物退治の後、第9話のみでどろろが熱病に浮かされながらたどたどしく話したことをイメージした形で表現されています。マンガ・旧版と比較するとどろろや父母が受けた惨たらしさはやや弱めになっていると感じます。名場面と思われるどろろの母が素手で煮えた粥をもらう場面だけは外されてはいませんでした。名場面というのも怖いですが、貧しさを表すのにこれ以上ない表現であるでしょう。(しかしどうにかできそうな気もしませんか?酷すぎますね手塚氏は。女性をひどい目にあわすことにかけてはかなりの熟練者なのです、あの方)

しかしこのマンガのタイトルが「百鬼丸」ではなく「どろろ」なのは手塚氏のその思い入れがあるからですね。奇抜な運命の百鬼丸よりどろろの持つ運命のほうが手塚治虫は重いと感じたのでしょう。

そしてマンガでは一応最後に明かされる「どろろは女」という秘密が新版では9話であっさり告げられることになります。

この違いはなんなのでしょうか。

勝手な解釈ですがマンガが描かれた1967年頃に早くから「女の子」だとしてしまうと「女の子ならもっと女らしさが出るはずだ」というような余計な忠告が入ってしまうことを嫌ったのではないかと思ったりします。最後で突然思いついたのではないのは2巻でどろろが水浴びをするのを嫌がるのと結局水に落ちてしまい胸を隠すという仕草をすることで示しているのですが百鬼丸が気づかなかった様子だったので今まで通りにふるまうようになる、乱暴な言動や風呂にはいらない、のですから手塚治虫どろろを「女の子っぽく」したくなかったのでしょう。ここまで男の子然とした態度で行動させてしまったのもサファイヤを産み出した手塚治虫らしい好みと言えるのではないでしょうか。

男性マンガで「女性が男性として生きている」というような設定にするのはあまりないことではないかと思います。男っぽい女、というだけでもあまりなかったのでは。

今でもそんなにはないと思いますが50年も前(1960~70年代)にはほとんど描かれてないのではないでしょうか。

そんな中で手塚氏が描いたどろろはかなり特異なものだったはずです。男みたいにしている女の子、というだけのことが「特異なこと」と表現するのも大げさのようですが、特に男性向けマンガの中で女性キャラというのは「お色気担当」という役目だけで登場するようなものです。手塚治虫自身も「マンガのかき方」で女性キャラの説明をそんな風に書いていたと記憶しています。

男性マンガにおいて男は主人公であり親友、仲間、敵、ライバル、面白いやつ、卑怯な奴、という様々な役割がある中で女は主人公に好意を寄せるマドンナ的存在であるか、主人公を惑わす悪女でなければその他大勢の個性のない顔になってしまう。

どろろ百鬼丸を兄貴とは呼んでいても対等な立場でありマンガでは最後でもそのまま別れていく。そして「そのエネルギーを権力との戦いに使うんだ」と「女であるどろろ」に指導者として生きろというような示唆をするのですね。

マンガは最後駆け足のような描き殴り感があるとはいえ、そう言う時ほど作者の本音が出てしまいがちでもあるものです。

手塚治虫氏はどろろに通常の女性観「百鬼丸のお嫁さんになって幸せに」という暗示は残していないのです。

そして百鬼丸に「おまえはお前の道を行け。おれはおれの道を行く」と告げさせる。これはちょっと薄情なようにも聞こえますが主人公男女の最後の言葉としてはかなり変わった別れではないでしょうか。やはり通常としては「おれはおまえのそばにずっといるよ」というような甘い言葉をかけさせる。もしくは女性に言わせてしまうものです。感想はいろいろあるでしょうけど、どろろと百鬼丸が対等な立場として描かれているからこそだ、と私は感じました。

どろろはここで「てやんでーっヘソかんでくたばっちまえー」「あにき・・・」と泣きわめきますがそれもまた女々しく同情を買うのではないのがいかにも男の子らしいどろろではありませんか。きっとこの後すぐに「いつまでもめそめそしてられっか」と立ち直る姿が浮かびます。

 

その点、アニメ新版では明確にはなされていないけどそういった未来予想観は垣間見えていているのを考えると手塚氏の特異さはやはりただ者ではないと思えます。

ただマンガ版百鬼丸が「完全なからだになったらまた会おう」とだけわずかにあっさり言っているセリフを新版では重く受け止めて解釈したのでは、とも思えます。

マンガでその部分は大きなコマになったりせず他のセリフの後にちょこっと言わせてしまっているのですよね。

いきなりラストの話になってしまってますが、新版のラスト、どろろが成長した女性の姿を見せ、百鬼丸が微笑む、というイメージだけで終わらせているのは苦肉の策ともいえます。

原作の意味合いが好きであるほど、どろろと百鬼丸を通常の「恋愛と結婚」の範疇に固執させてしまうのは違和感となってしまいます。

原作でも百鬼丸の顔が見える最後のコマは振り返って笑顔を見せる、というものでここも新版アニメは忠実に描いているわけです。

とは言え新版ではすでに体は取り戻した百鬼丸ではありますし、マンガでは「完全なからだになったらまた会おう」ではあります。

そしてマンガの最後のページでは「百鬼丸はそれからどこへ行ったのか、ついにだれにもわからなかった」「あの四十八体の彫刻をひめた地獄堂はさらに五十年ののち戦火のために焼けてしまったということである」となっています。

50年!もしかしたらどろろと百鬼丸はさらに50年後に出会えたのでしょうか。日本のマンガやアニメでは主人公たちが年をとっておじいさん、おばあさんになってから再開した、という展開はほとんどありません。(たとえば「きみの名は」)

でももしかしたらどろろと百鬼丸はそうだったかもしれません。どろろは勿論すでに誰かと結婚し子供どころか孫もいるでしょう。百鬼丸はどうでしょうか。女性的な希望では誰とも結婚はせずどろろに再会したのではと考えたくもあります。

そして勝手な妄想的にどろろは連れ合いをもう亡くしていて、年を取ったふたりーどろろと百鬼丸はそれからやっと一緒に暮らした、というのはどうでしょうか。

 

今回は突然最終回に飛んでしまいましたが、次回は再び元に戻ってじんわり続けますので、よろしくお願いいたします。