ガエル記

散策

「どろろ」新旧比較してみる その11

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どろろざんまい」参ります。

さてついに「どろろざんまい」アニメ新版の最後まで到達して話していきます。ここから先、新版ははっきりと他の「どろろ」とは違う物語になっていきます。

鬼神を倒すことで身体を取り戻すことが百鬼丸の目的、という設定はそのままでその意味はまったく違うものになっていくのです。

 

第19話「天邪鬼」重要な意味を持っていた前回とこれから始まる戦いの垣間見るほっとするひと時、といった感じでしょうか。

原作では百鬼丸が恋心を抱く話といえば「守小唄」のみおに対してのみだったのですが、新版のオリジナルエピソードとして何故この回があえて作られたのか、ギャグ系の話でもあってちょっと不思議でもあるのですが、鬼神に奪われた体をほぼ取り戻しつつある百鬼丸が次第に人間らしい気持ちも育ちつつある、として「思春期的表現」だったのではないかと思ったりもします。

刀を修理してもらうため立ち寄った刀鍛冶の家で「天邪鬼」というタイトル通り自分の気持ちのあべこべを話してしまう、という状況に陥ってしまうのですがそのことで逆に互いに自分自身の心を確かめることになるのです。

今まで意識していなかった男女という性的な認識をふたりは感じはじめます。

 

そして第20話「鵺の巻」前回で人間らしさに目覚めたかのような百鬼丸は今回の始まり山の紅葉の中でどろろの「自然の美しさ」の話を懸命に聞いています。心を持っていなかった百鬼丸どろろの心にふれることで人間の心を持ち成長していくのを見るような心地よさを感じさせてくれます。

そしてこれまで化け物退治ことしか考えていなかった百鬼丸どろろのことを深く思うようになっていくのですが、鬼神・鵺との戦いで再び今までの百鬼丸、体を取り戻すために鬼となっていく百鬼丸に戻ってしまうのです。

 

この回も新版のオリジナルエピソードなのですがこの三郎太と鵺の合体した鬼神の姿と百鬼丸に殺される最期の場面は「デビルマン」のシレーヌの最期の姿と重なりました。

瀕死の瑕を負った美しい悪魔シレーヌはカイムと合体しデビルマンと戦います。

物語自体が重なっているわけではありませんが、悪魔と合体して人間でなくなってしまった不動明ともう少しで人間になれそうだった百鬼丸が「おまえは人間じゃない」という言葉で再び鬼に引き戻されてしまうイメージが重なるように思えました。

 

冒頭でどろろと感じた美しい紅葉の上に飛び散る血しぶきが百鬼丸の心の荒みを思わせるのです。

 

その後、どろろから「こんなのひどすぎるよ。やめてくれ」と言われおでこをこすり合わせられても百鬼丸は再び闇の世界へ戻ってしまいました。

百鬼丸はその名の通り鬼でしかありえないのでしょうか。

 

という嘆きを感じながら物語は最終章へ入っていきます。

 

百鬼丸の弟・多宝丸も次第に鬼となっていきます。

しかしこの名前の違いはなんでしょう。

百の鬼という怖ろしい運命づけられた名前と、実の親から宝物だと名付けられた子供と。

それでも弟・多宝丸は母から愛されなかった、という一点で百鬼丸に勝てない、という呪縛から逃れられないのですね。