先日観た『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』が良かったので続けてこちらも鑑賞。
あまりの面白さに『ハサウェイ』がややかすれて思えるほどでした。
本来のガンダムシリーズというのはこちらの道なのではないかとすら思えるほどです。
とはいえレビューを見ると本作『機動戦士ガンダム NT』は驚くほど評価が低いのですね。「ガンダムの歴史から外して欲しい」とまで書かれているのです。
しかし私は本作こそがガンダムが目指したつまり富野由悠季が描こうとしている世界なのではないのでしょうか。
などと書けるほど私はガンダムを熟知してはいないので実は想像でしかないのですが一番よく観たファーストガンダムで世に認知される「ニュータイプ」がどんなものであるかを本作でさらに説明してくれたと感じたのです。
科学と精神はどこまで進化できるのか私たちは理解できていません。
テクノロジーの対義語は何なのでしょうか。サイコロジーやPsychiatry(サイカイトリー)を挙げてもいいのでしょうか。
科学の対義語は宗教とも占いとも魔法とも哲学ともいえるのかもしれません。
本作でも主要キャラクターであるミシェルが東洋的な占いを行っていることで科学と反対の価値が共生する世界観であるのを意味しています。
未来どんなに科学が発展しようとも対義である宗教・占いはなくなるどころか逆に拠り所になっていくのではないでしょうか。
ガンダムシリーズで重要な要素となる「子どもたち」
アニメ自体が「子供むけ」であると認識されていることから主人公が常に少年少女であるとされてはいますがガンダムはそうした意味だけではなく「子供たち」を描き続けていると思っています。
それも「大人に翻弄され苦悩する子どもたち」です。
ファーストガンダム主人公=アムロ・レイはすでにその規定にのっとっています。
科学者の仕事に埋没し精神異常をきたす父親と子どもを理解できない母親に愛情を求めながら与えられなかったアムロは「ニュータイプ」と呼ばれる超能力者となってガンダムを操作します。
そして後年の『オルフェンズ』では身体改造をすることで強制的な「ニュータイプ」を量産していきますが改造に耐え切れなかった子どもたちは死か障碍者になってしまうわけです。この世界では科学の対義として「任侠」の世界が描かれました。
そして宇宙の中で後ろ盾のない子どもたちは「ヒューマンデブリ」と称されるほど命の価値が低い。
『オルフェンズ』そして『NT』もカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』の世界観を感じてしまいます。子どもたちは肉体も精神も社会から利用される価値でしかないのです。もちろん大人であってもそうでありますが。
歴史を翻ってもルーマニアのチャウシェスクのみでなく立場のない子どもたちは常に利用されて殺される運命でしかありませんでした。
しかし先に製作された『オルフェンズ』はかなりの高評価だったのに本作の評価の低さはどうしたことなのでしょうか。
それは本作『NT』のほうが『オルフェンズ』より生々しく強烈に価値の低い子どもたちの凄惨を表現してしまったからではないでしょうか。
『オルフェンズ』では子どもら仲間たちの連帯が心地よかったのですが本作では個々が孤立しその悲壮は極まっています。友情も愛もここには霞のようにしか存在しない。
それを観させられるのは過酷なのです。
まあ私はとにかく断片的にガンダムを観ているので本作否定派の気持ちが理解できていないのかもしれません。
しかしこの
「最後に若く美しい女性が死ぬことで世界が救われる」
ストーリーはなんだろう。
それだけは疑問です。