ガエル記

散策

『静かな生活』伊丹十三

ちょっと興奮しています。日本にこんな素晴らしい良い映画があったとはそしてその作り手がずっと好きだった伊丹十三監督だったとは、二重の意味でショックです。

 

この数日伊丹監督作品を観続けていてほとんどが以前観ていたか少なくとも話題になったのを史っていたものでしたが本作品は存在すらまったく知りませんでした。今は悔しい。この映画の存在を知っていたかったしできるなら早く観たかった。残念です。

 

とはいえ当時観ていて自分が理解できたのかは解らないし今観ることが絶好のタイミングなのかもしれません。

とにかく今観て素晴らしいと思いました。

少しでも多くの人に観て欲しい映画です。

 

しかし本作品『静かな生活』は人気のあった伊丹映画の中で最も不人気で低評価の作品だと書かれています。いったいどういう理由なのでしょうか。

製作時は1995年。バブルがはじけ人々が落ち込み始めた時期ということでしょうか。ちょうど『エヴァンゲリオン』がテレビ放送を始めた時期でもあります。

もちろん『エヴァ』も放送当初は評価されたわけではなかったのですがそれまでの少年向けアニメと違う自分自身を見つめていく物語はその後人々特に若い世代を強く惹きつけていきます。

本作は自分自身、ではなく他人を見つめていく物語、ではないでしょうか。

語り手の少女は障碍者である兄を生活の中でずっと見つめ支え続けていきます。

この姿勢は今問題ともなっているヤングケアラーと言えます。若い人が自分の人生・青春を犠牲にして家族のケアを押し付けられてしまう状態はあってはならない、という問題です。勿論私自身もそれは優先して改善されるべきだと思います。

が、そう思ってもいる上でも本作は優れた作品であり心が慰められる作品でもありました。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

本作は大江健三郎氏原作で障碍者であるイーヨーは実際に大江氏の長男であります。彼は知能の問題を抱えながらも音楽の天才でもありこの映画の音楽担当でもあるのでした。

語り手である妹・マーちゃんは嫋やかな少女で細くて力がなさそうに見えますが(ほんとに弱そう)芯がしっかりした娘さんでもあります。

確かに「自分の青春を犠牲にしている」と見えてしまうのですがそれは他人の目線であり本人はそこに幸福を見出しています。

それは背景が裕福な作家の家庭であり優雅とも言える暮らしをしているからだ、という反発を生んでしまうのでしょうか。

この映画が伊丹監督の失敗作であると評され長い間顧みられなかったのは何故なのか、同時に私自身がこの作品に今とても慰められているのは何故なのでしょうか。

 

日本映画では「障碍者」を描くことが大きなタブーになっているように思えます。映画だけではなく日本の大きなメディアであるマンガやアニメでも主役級で活躍することは稀です。さらに知的障害者をメインに持ってくることはほとんどないのではないでしょうか。

しかし本作でイーヨーはごくあたりまえにメインキャラとして活躍し当然のように魅力を見せてくれます。

しっかり者だけど力のなさそうなマーちゃんと知的には危なっかしいけど力強い感じのするイーヨーは互いに補っている関係とも見えます。

生まれた時に頭に傷を負っていたイーヨーの経験を踏まえて次に生まれたマーちゃんは小さく丸い頭で生まれたのだ、と語られます。

その次の弟はふたりを併せ持ったような人物に見えるのでそうした関係性を持たなくてもいいのでしょう。

 

本作は他の伊丹作品のとんでもないほどの大きな笑いは潜めていますがそれでも日本映画にはあまりない豊かなユーモアは健在です。

山崎努演じる(大江さんである)パパは一家の災難である「下水の詰まり」に対し皆が見守る中で意気揚々と立ち向かいます。「これで解決だ」とばかりに下水管の蓋を開けクリーナーワイヤーと薬剤を施します。

しかし翌朝詰まりは逆に最悪となり庭は水浸し。そこへ業者氏が「困るなあ、素人考えは」と登場しあっという間に勘所の下水蓋を見つけて見る間に詰まりを治してしまうのでした。家族は大喜びです。

パパはこの事態に酷く落ち込みます。

「自分は何の役にも立たない。このまま死んでしまった方がいい」

このエピソードは深刻ですが同時に心の中で大笑いしてしまいました。

自殺したい理由はおおよそこのようなものなのかもしれません。

自殺の原因が「下水の詰まり」なんて記されたら恥ずかしいですが本人は真剣なのです。

しかし実際「下水の詰まり」にはほんとう自殺したいほど悩まされます。あれはいったい何なのですか。詰まってしまった時はどうしようもない無力感に襲われます。この映画でパパに一番共感しました。

 

マーちゃんはある時「イーヨーがもしかしたら幼女性虐待の犯人なのではないか」という疑惑を持ちます。茂みに隠れて下校時の小学生を狙っているのを目撃してしまったのです。

その運びで別の男が幼女を襲っている場面に遭遇してしまうのですがその対決方法が乗っていた自転車のベルをチンチン鳴らし続ける、です。

あまりの無力感にここも笑ってしまいましたが(状況的には笑えない)しかし考えてみたら無力なのに立ち向かうマーちゃんはやはり偉いと思います。

その後「イーヨーの幼女性虐待疑惑」は勘違いで実はモーツァルトピアノ曲を聞くために茂みに隠れていただけだったと解ります。マーちゃんは安堵します。

 

そして物語の山場へと向かいます。

イーヨーの体調を改善するため二人はスイミングを始めます。

イーヨーには専属のコーチ「新井君」がつきます。男らしく人情味のある男性でイーヨーもめきめき上達して二人は彼に好意を持つのですが、この男が実は以前作家であるパパと因縁があったのです。

彼はある殺人事件に絡んでいて犯人かとの疑惑があったのですがその後無罪となります。彼はこの事件の詳細を恩師であったパパに打ち明けるのですがその記述を元に書いた小説でむしろ彼はいっそう人々から性犯罪者として認知されてしまった、というのです。

彼は恩師を恨み続けていたのでした。

 

一見善人に見えた「新井君」が次第におかしく思えてくる様子はぞっとします。実際はどうだったのか、はわかりません。

しかしここでもマーちゃんとイーヨーは二人一組で困難に立ち向かうのです。

 

様々な困難を乗り越えマーちゃんとイーヨーはやっと「静かな生活」を取り戻します。

その笑顔にほっとしました。

長らく日本は「自己」を見つめてきました。

とはいえその答えが出尽くすことはないでしょう。

その時期に製作された本作は「他」を見つめ「他」とつながる意味を問うた作品であったと思えます。

それは決して伊丹十三監督の失敗作なのではなく時期の問題だったのではないでしょうか。

今現在この映画『静かな生活』は人々が求めている作品なのではないかと私は感じています。

他でのレビューの低さもあってなかなか手に取る人が少ないのではないか、知的障碍者の話という題材で躊躇されてしまうのではないか、というのはあまりにも勿体なく悔しい。

これは当たり前に良い物語です。

知的で上品でユーモアがありささくれた心を慰めてくれます。

 

イーヨーを演じた渡部篤郎のかわいらしさはもちろん、他レビューで「ダイコンだ下手だ」と評されている佐伯日菜子のマーちゃんも私はとても良い演技演出だと感じてまったく嫌になりませんでした。むしろこれが良いのでは。普通こういうものです。

 

他作品とは全く違った味わいの本作を観て私は伊丹十三監督の実力を思い知らされました。

この人は桁違いに凄い人なのだ。

あまりにも早い最期でした。

今更ながら惜しまれます。