ガエル記

散策

『あげまん』伊丹十三

実はこの映画怖くて観る勇気が出なかった。多分未鑑賞だと思います。今回鑑賞しても他作品のように記憶が蘇ることもありませんでしたから。

結果から言うと思い切って観てよかった。そして伊丹十三監督に謝りたい。伊丹監督は私が疑いを持つような人ではなかったのでした。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

何を疑い何を謝りたいのか。

それはたぶん多くの人がこの映画タイトルの意味を知って感じることに起因します。そして案外レビューを見るとそのまま受け取って納得している人も多いしそのために「伊丹映画にしては面白くない」と不満を持つ人もかなりいるようです。

もしかしたら不満を持つのは男性が男性に多く、逆に女性は疑いを裏切られて面白かった、と感じるのではないでしょうか。

 

さて私そして女性の疑いとは。

女には男を出世にに導く「あげまん」と男の力を落としてしまう「さげまん」がいる。「あげまん」をつかんだ男は幸運であり逆の女をつかまぬよう男は気をつけねばならない。

本作のタイトルでそうした展開が繰り広げられるのを予想した人は多かったのではないでしょうか。

男性ならば「へえそうなんだ?」と興味を持つかもしれませんが女性ならば私もそうでしたが「なぜそんな馬鹿々々しい価値判断をされなければならないのか?それで言うなら女にとっての「あげちん」とやらもあるだろうが?」しかしそんな話は本作中にも出てこない。

 

がそこがこの作品の肝であるのにたどり着けば本作の意味はおのずと解るのです。

 

そうです。私は「結局思慮深いと思えた伊丹監督もそうした昭和男的女性価値観を持つにすぎないのだ」とおぞましさを感じてこの映画を観ることができなかったのでした。

しかし今回やっと鑑賞し終えて私が持っていた疑惑はまったくの杞憂だったわけです。

 

この映画で描かれるのは政界財界に生きる男たちが女に対していかに愚かな欲望と身勝手な振る舞いをしているかの風刺画です。自分の能力や努力でなしに付き合う女性が運を授けてくれる、などという馬鹿さを『あげまん』というタイトルで示しているのですがさすがにこの皮肉は高等すぎはしませんか。

とにかく出てくる男は低俗な阿呆ばかり。しかもヒロインたるナヨコはその中でも極めつけ(というか極めつけばかりだが)のダメ男を好きになってしまう。

 

まあ確かにナヨコ自身芸者の世界に入ったのだから男の欲望を否定してはいないのだろう。そうした世界が嫌いなら断固として逃げ出す道もあったのだろうけど映画ではそこらは描かれない。

ナヨコが男を必要とすること自体は間違いではないのだけれどそこに来る男たちに浮気をしない貞節を求めるのは誤りのように思えてはしまう。貞節を求めるなら別の世界に住むべきだ。

まあとにかくナヨコは性愛の世界に歩みだしその中で男たちの欲望を知っていく。

 

ナヨコとモンドの出会いからして電車の中の痴漢騒ぎで始まる嫌な展開なのでここからすでに脱落してしまいそうでしたが我慢しました。

痴漢冤罪というのは男性作家がよくやる演出ですがここからしても伊丹監督は「嫌な男が痴漢冤罪を女になすりつける」という皮肉を込めています。これも案外難しくてここで「このヒロインは痴漢冤罪騒ぎをする」と思ってしまうと間違いなのです。

さてナヨコは花柳界から得意客のつてで金融界に進みますがやはり男性との関係が強いのですね。様々な形で男性の欲望と出会ってしまいます。

それでもナヨコがまっすぐに生きていけるのは持ち前の率直な強さゆえであるのでしょう。

それに比べ男たちはそんなナヨコに頼ることしか考えていない。

見苦しく無様なのです。

たぶんかっこいいステキな男性はこの世界には住めないのです。

 

とはいえ同時に社会は政界財界に牛耳られていてそこにいる男たちは自分たちこそが偉いのだとふんぞり返る。

ラストはそうした男たちとともにそこから離れられないナヨコ自身をも皮肉っているように思えました。

 

この鋭い笑いはきついものです。

女の能力に頼りながら強がって見せる男も愚かしいしそうした男から離れられない女もまた悲しいものです。

 

 

「人間というのは他の人間を思いのままにするのが最も楽しいのだ」的なことを言う人物が出てくるがいやそれこの政界・財界そして花柳界の話でしょ。まともな人間はそんな欲望は気持ち悪いと思う、と思いたい。