ガエル記

散策

『キリング・ストーキング』クギ その4 『嘆きのピエタ』キム・ギドク 

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前回の説明どおりかつて心酔していた映画作家キム・ギドク作品でしたが『うつせみ』(私は『空き家』となっていた頃観ましたが)を最後に次第に離れギドク氏の人格にも疑問を抱いてこの作品『嘆きのピエタ』は観ないままでした。

『キリング・ストーキング』に出会わなければ観ないままとまではいかなくとも鑑賞はずっと先になっていたはずです。

前回の『悪い男』は心酔して観たものですが今回は複雑な思いを持ちながら観ることになりました。

しかし本作『嘆きのピエタ』は確かに素晴らしいものでした。

それは間違いないと信じます。

 

以下ネタバレですのでご注意を。

 

 

 

キム・ギドク監督『嘆きのピエタ』初鑑賞でした。

なんの予備知識もなかったのでとても驚きましたし想像した以上に素晴らしい作品でした。

暴力はすさまじいものでしたが性表現は本作では露悪的ではない代わりに母親と息子の性描写(実は違うが観客はそう思って観る)という禁忌の描写が映し出されます。ただ着衣のままなので裸体を見せたいための演出ではないのですね。

 

タイトルに「ピエタ」という言葉があることからもこの映画がキリストをイメージして作られているのはすぐにわかるわけです。主人公イ・ガンドの行動は聖書に書かれたエピソードを現在社会に置き換えたのではないかと思えるように寓話的です。

とはいえ本作からは様々なイメージも導かれます。

母親と名乗る女性にガンドが自分の太ももを切って差し出し「母親ならこれが食えるはずだ」と言います。

これは韓国の「子供が年取った親への忠義に自らの太ももの肉を切って食べさせる」孝行話からきていると思います。

 

が、実は母親と名乗り出た女性の話は虚偽でした。実はその女性はかつてガンドの取り立てで死んでしまった男の母親でした。

子を奪われた母親は、親のいないガンドに一度母親の愛を与えそれを奪い取る、ということで復讐を果たそうとしたのです。

ガンドはその目論見通り突然現れた女性を自分を捨てた母親だと信じ込み愛してしまいます。

ふたりが店で眼鏡を選び、かけた顔を見て喜び合い街を歩く様子はこの酷く辛い映画の中でほんのわずかに見られた幸福の瞬間でした。

母の手料理を食べ母が編んでいるセーターの出来上がりを心待ちにするガンド。

それまで人の愛というものを全く知らずに生きてきたガンドは初めて人を愛し許す気持ちを感じてしまったのです。

 

心を持たずにいたガンドは苦しむことがなかったのですが母の愛を知ってからガンドは苦しみ始めます。

 

ガンドは高利貸しの借金取り立てという仕事をしてきました。彼の取り立てはまったく人情のないものでした。返済できない人々を次々と障碍者にすることでその保険金を手にしていたのです。不自由な体になった人々は苦しみますがガンドはなんの感情を持つこともなかったのです。

しかし母親の愛情を知ってからのガンドは一人一人に同情し自分のしてきたことを恐れ始めます。

今まで冷酷だったために落ち着いていた心は怯えてしまうのです。

そして母親がいなくなってしまうのではという不安にもさいなまれていきます。

あれほど傲慢だったガンドは母を失ってしまうかもしれないという恐怖で駆け回りひれ伏して謝罪し母の代わりに自分を殺してくれと叫びます。

 

ラスト彼は磔になり血を流したのでした。

 

しかしキリストは復活します。イ・ガンドは死んではいないのではないでしょうか。

 

 

この記事は『キリング・ストーキング』を書くために起こしたのでふたつの作品を並べてみたいと思います。

『嘆きのピエタ』を知らないで『キリング・ストーキング』を先に読みました。

『キリング・ストーキング』が痛みのある愛、という表現をした作品だったので私はキム・ギドクを思い起こしてしまいました。

昨日書いた『悪い男』も重なる部分があるのですが『嘆きのピエタ』になるとはっきり共鳴します。

不思議です。

クギ氏はキム・ギドクの本作品を観られているのではないでしょうか。

主人公ガンドの冷酷さ、体の大きい美形であること、そして母親への欲求が強くあること、失われそうになって慌てていく様子などイメージが共通すると感じました。

主人公が垣間見た幸福な場面にもそれを感じます。

 

続きます。