読み終わったばかりで今はぼーーっとなっている状態です。
私が読んだのは紙媒体のほうではなくネットで公開された全編です。
感受性の強い若かりし頃は感動することが溢れていたのですが年を経てから神経は鈍くなりどんな作品を観ても読んでも衝撃を受けることは少なくなりました。
かつて夢中になった今でいう「推し」的な存在はもう出会うことがなくある意味安穏とした生活を送れてはいるのですが情感のない寂しい状態でもあります。
それが当たり前になっていた時、前ブログにコメントを書き込んでくださった方がありました。
ビル・コンティさんと言われる方でブログを書かれていたので覗いてみると
実をいうと腐女子の癖に私は「BL」に興味がありません。「BL作品」と書かれているともう読まないし、観ないのです。
ずっと以前はきっと良いものに出会えるはずと探していたのですが申し訳ないけどどうしてもこれと思うものに出会えないままもうほとんど観ることもも読むこともなくなってしまいました。
ビル・コンティさんのブログに紹介されていた『キリング・ストーキング』はその世界を知っている人には有名な作品なのかもですが私はまったく知りませんでした。 ビル・コンティさんのコメントがなければ私は本作品に出会えていませんでした。ほんとうにありがとうございます。
描かれた人物もやせこけた顔色の悪い少年(実は少年ではないのですが)のようで好みとは言い難いのですが何故かとても気になって「試し読み」を読んでしまいました。
そこまですることも昨今ないのですが。
そして試し読みをしてみると確かに絵の技術はとびぬけた才能だとわかりましたが設定は自分がとても「嫌いな系列」のものであるとも判明しました。
最初に言ったように主人公は痩せこけた顔色の悪い童顔だけど成人した貧相な男です。
その男が好きな相手は逆に体格の良い俺様タイプだけどモテモテのイケメンという組み合わせで正直両方とも魅力を感じません。
しかもその関係は互いの極端な精神障害によって成立する依存関係でありこれにも私は強い嫌悪感を持っています。
いつもどおり「やっぱりBLって無理」となってやめるはずでした。
本作の試し読みは結構長いのですが普段なら途中で切ってしまいます。しかもキャラクターもストーリーも嫌いなものなのですから。
ところが気持ち悪い本作の試し読みを終えて心は揺さぶられました。
キャラを好きにもなれないのになぜこんなにも手放せないのでしょうか。
まるで作品のなかのふたりのようにその関係を断ち切れなくなってしまったのです。
私は最近まったくやることのなかった購入ボタンを押してしまいました。
以下ネタバレしますのでご注意を。
上にも書いた通り今読み終えたばかりで頭の中はぼんやりとしています。
あれほど嫌いだったウジンもサンウももう会えないかと思うと(いや会えるんですが)とてもつらいようでもあるしほっとしているようでもあります。(嫌いなので)
ふたりの関係はよくあるDV関係そのものです。
暴力を介してのみその関係が成立する。
最もよく聞くのは夫婦や恋人同士で力を持つ男のほうが何かの拍子でかっとなり女を殴る蹴る。
女は泣き顔は腫れ骨折することもある。気が収まると男は急に女に優しくする。女は愛されていると思う。そしてまた男はかっとなると女に暴力をふるう、セックスを強要する。女は泣く。そして「私が悪いからいけないんだ」と思う。
傍目から見れば「そんな恐ろしい状態なら逃げればいいじゃない」と言って女はその状態から抜け出せない。男もまたその女なしでは生きていけない。
傍目はあきれ果てる。
『キリング・ストーキング』はそうしたいかにもよくある男女のDV関係を男同士に置き換えただけ、と言えます。まったくそれ以上でもなくそれ以下でもないのです。
私はそうした関係にある男女に強い苛立ちと嫌悪を持っています。男同士だからと言って許容するわけではありません。
しかしなぜなのでしょうか。
私はこの物語から離れることができませんでした。
作者クギ氏は作品中の説明によれば韓国の人物と思われます。
私はある頃から韓国映画をよく観てきましたが衝撃だったのは日本の作家にはない強烈な愛情と暴力の表現でした。
それは苛烈といってもさしつかえないでしょう。
愛するにしても嫌うにしてもうすぼんやりしたぬるい日本作家のそれと違い韓国の愛憎は極端です。
その中で私が出会ったのはキム・ギドクという映画監督でした。
彼が描く愛憎は強烈な肉体と精神の痛みなしにはあり得ません。
ぞっとする観るに堪えない激痛の愛憎がむき出しで表現されるキム・ギドク作品に私は当時はまっていました。
先日キム・ギドク監督が急逝され、その時に彼の人格について批判がなされました。
彼を偉大な映画監督というのはやめて欲しいということでした。
彼は仕事で関わった女性たちに性暴力を繰り返したきたのです。
その話は以前にも聞いていました。
私はそうした暴力にもちろん強い嫌悪と批判を持っています。しかし一方ではかつてのめりこんで観た記憶がざわめくのです。
そのどうしようもないアンビバレンツを私は操ることはできませんでした。
無論作品がどれほど素晴らしくても実生活で人を傷つけてはいけないし言い訳にはなりませんがそのことで私はそうした「痛い愛」の作品から遠ざかっていたと伝えたくて書きました。
まだその思いも薄れない今この作品に出会い再び「激痛の愛」を呼び覚まされてしまいました。
この作品を読みながら思い出したのは映画『愛の嵐』です。
リリアーナ・カヴァーニ監督の描いた恐ろしい禁断の愛の物語です。
演じたのはシャーロット・ランプリング。
折れそうな細い体がウジンと重なったのもありますが「これは愛とは呼べない。これは許される関係ではない」決して認められるものではない愛の形を思いました。
もう一つ思い出したのは先日観たばかりだからでしょうか。
『マイ・チャイルド・レーベンスボルン』というゲームです。
これも私はまったくゲームをしないのにどうしても気になって購入したものでした。
『キリング・ストーキング』の物語は愛されない子供たちの物語でもありました。
しばらく私はこの物語を語っていこうと思っています。