ガエル記

散策

『家族愛』と『疑似家族』

コンテンツの中の「家族」についてちょっと書いてみたい。

「家族」という漢字を見るとややイメージがわきにくい気もしますがここで言うのは親子兄弟ということです。

かつての作品では家族の強い絆が描かれていて涙を誘ったりしたのですがいつしか「それは本当なのか?」という疑問が起き始め物語に親兄弟が登場しなくなり最近では「毒親」という表現が増え昔は信じられてきた「子どもを命懸けで守ろうとする良き父良き母」は幻想でしかなく実際には子供を虐待してしまう親たちがいかに多いことか、が描かれ今現在は「新しい家族の形」が様々に表現されているようです。

 

以前は子どもを虐待すると言えば義父母である設定だったのが実際は実の父母である場合が圧倒的に多くまた当の本人である実父母がそれを虐待だと認識しておらず愛情だとすら思っていたりするわけです。そしてその虐待を受けた子どもたちが成長して再び我が子に虐待を繰り返す。そうした接し方しか学んでいないのだから当然なのかもしれない。

子どもを支配し思った通りにならないと言葉や暴力で傷つける。それを愛情の証だと信じている。

そうした考えや行動を「毒親」という言葉として認識し表現し始めたのは最近でそれまでは描かないことで処理してきたように思えます。

 

しかし人間はやはり愛情が必要なのでしょう。

それも家族愛という打算ではない絶対的な愛情が欲しくてしょうがないのです。

少し前に『万引き家族』という疑似家族映画が話題となりました。

他人同士が寄り添って暮らす物語は以前にもあったはずですが「疑似家族」という認識をはっきりと出したのです。

 

少年マンガにおいて家族はどのように変わってきたのでしょうか。

かつては『巨人の星』に見られる明確な家父長制が描かれ子どもたちは父の支配下にあることが語られました。母親は登場しませんが姉が弟をそっと見守る愛情として描かれています。

同じ梶原一騎原作でも『あしたのジョー』では丹下団平とジョーの関係は一種の疑似家族のようでいて丹下氏はあまり父権を強調していませんし女性が家族内にいません。これは作画のちばてつや氏の影響かもしれませんが。

その後少年マンガでは家族を深く描くことが極端に少なくなっていくように思えます。

スポーツやSF的戦いに家族の存在を混ぜ込むことが面倒だったのかもしれないし強い父権や母性は邪魔だったのかもしれません。

 

がアニメ界で家族を描いた作品『エヴァンゲリオン』が登場します。

ここで描かれる家族はいわば昔的な強い家父長制を感じさせる父親(ゲンドウ)と存在が希薄なのに息子にまとわりつくような愛情を持ち続ける母親像(アヤナミ)です。この時代にはまだ言葉がなかったはずですが明らかに彼らはシンジの毒親です。

息子のシンジはそこから逃れるように美しい年上の女性及び同世代の美少女と同居生活を始めますがこの形態はあまり「家族」を感じさせません。エロチックな異性との同居にセクシャルな興奮を感じたいだけのように思えます。

庵野監督はあまり家族を必要としていないのかもしれません。

 

時代はかなり経ってからになりますが庵野監督の同胞ともいえる幾原邦彦監督は『輪るピングドラム』で明確に毒親と離れた疑似家族が描かれます。

さてここで「家族」であるかないかはどこなのかと考えなくてはなりません。

エヴァンゲリオン』においては疑似家族のイメージは希薄です。

しかし『ピングドラム』での疑似家族は子どもたちばかりであっても生活費の苦悩があり体の弱いひまりをどう保護するか医療費の心配が重なります。毎回の食事も彼ら自身が考え用意するのです。

家族を作ることは楽しい面以上に大きな犠牲を払う必要があるのです。自分自身の時間を削り家族のために支払ってこそ家族は強く結びついていく。

エヴァンゲリオン』ではそうした日常の犠牲は描かれず『ピングドラム』では絶えず自己犠牲が描かれていく。

少年マンガにおいてはやはり『エヴァ』的な同居はあっても『ピングドラム』的な家族は描かれてこなかったと私は思います。

 

ところが現在アニメ化もされた『チェンソーマン』ではこの疑似家族の家族愛が描かれていきます。

早川アキはマキマ氏によってデンジとパワーを押し付けられ不満ながらも疑似家族をしょい込みます。

ふたりの男とひとりの女性の同居生活ですがこの女性パワーは生活能力がまったくなくむしろ頼ることしか考えていない。

アキが食事を作りデンジがトイレ掃除をする。こともあろうにパワーの排せつ物がこびついて取れないと愚痴りながらゴシゴシ懸命に掃除するしかない。

後日パワーが戦いでメンタルを病んだ時は子どもに接するように看病するデンジとアキの姿が描かれました。

それまで少年マンガで主人公が女の子に看病され世話をされることはあっても男子主人公が女の子の世話をしてあげる、という描写はほとんどなかったのではないでしょうか。

ただ家族愛というのはこうした日常の犠牲の中で成立するものなのです。

いざとなったら命を懸けるとかお前のためなら死ねるとか贅沢をさせる、とかではなくトイレ掃除や看病やご飯づくりなど自分の時間を犠牲にするところに家族愛は存在します。

そこを明確に描いた『チェンソーマン』は少年マンガの革命をしたと言えるように思えます。

もちろん私のごく少ない少年マンガ知識で語っていることではありますが。