ガエル記

散策

『三国志』横山光輝 第四十三巻

張飛表紙絵9回目。43回中9回は多いねえ。横山先生の愛を感じる。

しみじみ。たんに描きやすいだけ?

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

おどおどしながら急に逃げ出した男を槍で止めたのは馬超だった。

門番たちは「そぶりが怪しい」とその男を調べると手紙を持っているのがわかった。馬超が読んでみると彭義から孟達へ宛てたもので「栄転の話は君と劉封を引き離すための罠」とあった。

馬超は逃げ出した男を牢に入れ自ら彭義を訪ねて調べることにした。

 

突然の馬超の訪問を彭義は酒で振る舞い談笑した。

馬超は「漢中王は最近彭義殿に粗略になったように見えまするな」と振ってみた。すると酔いのせいもあってか彭義が「その通りじゃ」と渋い顔になる。

馬超がさらに「拙者にも冷とうござってな」と言うと「漢中王ももうろくしてきたということじゃろう。馬超将軍がその気になればこの国は簡単に奪れますぞ」と答えるのだった。

馬超は「その通りかもしれぬ」と笑顔を見せた。

 

翌朝馬超は玄徳に会い「謀反の芽が生じてございます」と彭義の手紙を渡す。玄徳はすぐに彭義を捕え処刑した。

これを聞いた孟達関羽に援軍を送らなかった件で出世はもう望めないと魏への出奔を決意した。

上庸へ使者が飛び劉封は五万の兵を率いて孟達を追う。

 

孟達は魏王に会い降伏を申し出た。が偽りかもしれぬと言われ関羽を見殺しにしたと漢中王から害意を持たれて身の危険を感じていると申し開きをする。

そこへ蜀の劉封が国境を侵してあちこち焼き払いながら襄陽へ入ったとの報告がある。

軍勢五万と聞いて魏王曹丕はここで孟達に「劉封の首を奪ってくるならお前の言葉を信じよう」と言い渡した。

 

孟達は襄陽城へ入り徐晃に魏王の手紙を渡した。徐晃孟達劉封討伐を認めた。

孟達劉封の陣へ到着すると彼に対し降伏を促す手紙を使者に託した。が、劉封は「養父・玄徳を裏切って魏へ降れ」という内容に怒り手紙を破り捨てる。

劉封は使者を斬り捨てさせ「裏切者に目にものを見せてやれ」と出陣した。

孟達と相対し劉封は一騎打ちをするがすぐに劉封は逃走してしまう。追いかける劉封を待ち構えていたのは徐晃・夏侯尚だった。二手に分かれて戦うしかない劉封軍にさらに孟達が引き返し突っ込んできた。もはや劉封に勝ち目はない。

劉封は血路を開いて上庸へと逃走するしかなかった。五万の兵が百騎余りとなっていた。

が、上庸の城にはすでに徐晃の旗が翻っていたのだ。別動隊によって占拠された後だった。

城壁から矢を射こまれ劉封はしかたなく成都へ帰るしかなかった。

 

漢中王玄徳は息子劉封が全滅に近い状態で逃げ帰ってきたと聞かされた。

それを耳にした将のひとりから「まったくの腰抜けだ」と声がもれる。

この声を聞き玄徳はこのままでは将たちの束ができなくなる。私情を捨てねば、と覚悟した。

 

面目ございませぬ、と平伏している劉封に玄徳は声を荒げた。

「面目ないと思ったらなぜおまえだけ帰ってきた。関羽にも援軍を送らず今またお前の兵も全滅と聞く。お前ひとりの決断の鈍さで何万人の人間が命を落としていったと思う。生きてて恥と思わぬか」

関羽の時は孟達に反対されまして、と言い訳する劉封関羽とは義兄弟であった。お前には叔父にあたる。援軍に駆け付け時を稼いでいれば助けにいけたものを。

「このような惨敗は今までの例にならって処刑。そちが我が養子であろうと私情は許されぬ」と玄徳は言い放った。

劉封を軍律にあわせて罰せよ」と命じた。

 

劉封は連れて行かれた。

ここで老臣が玄徳に進言した。「劉封様は関羽将軍の援軍に行かなかったことをずっと悔いておられたそうです。そして襄陽の陣では孟達から渡された降伏を勧めた手紙を破り捨てたとのこと。どうぞお命は助けてください」

玄徳は「不憫な奴じゃ処刑を中止せよ」と声をあげた。

がその時「劉封様の処刑終わりましてございます。ご検分くださいませ」と劉封の首が届けられた。

「わしは怒りにまかせてなんと早まったことをしてしまった」と玄徳は我が子劉封の首の前で泣き伏した。

 

魏では魏王を皇帝にしようという動きが重臣たちの間でひそかに進められていた。

重臣たちは皇帝を訪ね魏王に帝位を譲れと迫ったのだ。

皇帝にはどうすることもできない。

皇后である曹丕の妹は「兄にすぐ参れ」と命じられたと言って去っていった。皇帝の側仕えも「なぜ臣の諫めをお聞きにならぬ」と言うばかり。

そこへ魏軍の将がずかずかと入り込み符宝郎を探し回り「玉璽を渡せ」と迫る。驚き抵抗する符宝郎を斬り捨てた。

さらに皇帝は宮殿が軍兵に囲まれているのを見る。

 

皇帝はついに魏王に世を譲ると決意した。もはやどうすることもできないのだ。

 

国を譲る詔書と玉璽が届いたと聞き魏王曹丕は喜び急いだ。

しかしこれを司馬仲達が制止したのだ。

「あまり軽々しくお受けすると天下のそしりを受けましょう。何度もお断りなされてそれを天下に伝えてからお受けするのがよろしかろうと考えまする」と仲達は進言した。

魏王は「なるほど。力で奪ったように世間に思われてはならぬのだな」

 

めんどくさいw

でもこれが大事なのだ。

 

うやうやしく詔書と玉璽を持参した使者に対して「なに献帝が余に国を譲ると」と魏王は言い「それはならぬ」と告げたのだ。

「余はまだまだ天子となるだけの人徳を備えておらぬ。お受けするわけにはいかぬ」

 

むむむと言ってはいないが明らかにむむむとなっている使者たちは「わかりましてございまする。魏王のお言葉をお伝えいたしまする」と帰っていった。

このコンビもなかなか良い。

 

詔書と玉璽を突き返された皇帝は

皇帝はふたりの娘を魏王に嫁がせることで魏王に敬意を表せねばならなくなった。

それでも仲達はまだ魏王をとどめる。

仲達はもう帝位につくことを急ぐ必要はなく帝位を奪ったとそしりを受けることを案じなければならないというのだ。

(いや、奪ってるよね)

「では何度断るのじゃ」

良い顔だな

 

かくして皇帝自らが高台(うてな)を造りそこで皇帝が直々に国を渡す儀式を行う、という手はずとなった。

受禅台と名付けられた高台が造営された。

吉日、帝は高台に立たれ帝位を魏王に譲るという詔を読みあげられた。

こうして献帝から魏帝へと国は譲り受けられたのである。

国名は大魏と号され年号も黄初元年と改められた。

 

「劉氏よ」と前皇帝は呼ばれる。「天に二日なく、民に二王なしと申します」と言われ「ひざまずいて大魏皇帝の命をお待ちくださいませ」

こうして献帝は一頭のろばとわずかな旧臣をともなって田舎へと落ちていかれた。

 

このことは漢中王玄徳の元に報じられた。

「国を譲られたのではなく奪われたのじゃ」(そう思う)

関羽の死、劉封の死、そして漢朝が滅んだことが玄徳に衝撃を与えた。

その日から玄徳は病の床に伏してしまった。

 

翌年三月ひとりの漁師が網を投げた時何か光るものがかかった。手に取ると

黄金でできたそれを漁師は漢中王に献上した。

まず軍師にそれが届けられた。

孔明は見るなり「これは帝位につく者が持つ玉璽」

その昔洛陽の大乱の時、漢家から持ち出され久しく行方知れずとなっていた宝章だと孔明は気づく。漁師に恩賞を与え重臣たちを集めた。

ひとりが「玉璽は献帝から魏の曹丕に譲られたのでは」と問う。

「あれは後に作られたものに違いない」

「するとこれが本物で」

「そうじゃ間違いなく本物」

それが今玄徳のもとに届けられたのである。

 

こんなことある?

凄いなあ。

孫堅の時は井戸から現れ今度は川から登場。

うーんなんだか『ロード・オブ・ザ・リング』を思い出してしまうわね。

火山に捨てに行かなきゃいけないのでは。

孔明が仕込んでいたんじゃないかって気もするけど。