ガエル記

散策

『三国志』横山光輝 第五十三巻

孔明表紙絵7・5回目。苦悩だなあ孔明

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

蜀の各部隊は剣路を越えて続々と漢中へ引き揚げてきた。どの部隊も困難特選を物語るように疲れ果てていた。

 

孔明はまだ帰ってきていない趙雲を心配していた。

「それにしても」と孔明は考えずにはいられない。「あの威風堂々の進軍がたった一つの綻びでこんな大敗になってしまうとは。惜しい男だが馬謖の責任は問わずばなるまい」

そこに趙雲が帰ってきたという報が入る。孔明は喜び迎えに出た。

自らしんがりを務めた趙雲こそ真の武士と褒めたたえ孔明は賞金を与えようとした。

が、趙雲は自分だけが恩賞を受けては謗られる因ともなりましょう。それよりもやがて冬になれば何かと物不自由になりまする。これを諸軍勢に分かち合えば諸軍の心も温まりましょう、と辞退した。

 

孔明はかつて故主玄徳が趙雲を厚く重用していたことをさすがにと今あらたに思い出した。

と同時に馬謖の罪も穏やかな処分では済まされないと感じた。

 

数日後軍法会議が開かれた。

孔明はまず馬謖の副将だった王平に事の次第の申し開きをさせた。

王平は当時丞相から道筋の要をしっかり押さえよと命じられたこと、だが現地につくと馬謖が山頂に陣取ると言い張ったこと、自分が反対すると兵法を知らぬと笑われ仕方なく西十里に五千の兵のみで陣取ったこと、そして孔明に絵図を送ったことを話した。

王平は丞相のお指図通り最善を尽くしたつもりです、と弁明した。

孔明は退ってよい、と伝える。

孔明の緊張した顔が悲しい。

馬謖は入室して跪いた。

孔明馬謖に言う。

「そなたは子供の頃より兵書を読みよく戦策を暗誦し、わしもそなたならやり通してくれると期待して街亭に出陣させた。わしは街亭は我が軍の喉元にもあたる重要な地であることを教えもし守り通せたら長安攻略の最大の大手柄とまで言ったはずじゃ」

馬謖はうつむき

孔明の気持ちを思うとつらい。馬謖、街亭の時とは別人のようだ。なぜあの時はあんなに強情になっていたのか。孔明に対する態度とまではいかなくても王平に対しても少し敬意を持てていたらと思わずにいられない。

この表情は孔明の「たわけ者」に反応してなのでしょうか。

以前会話していた時たぶん孔明はいつも馬謖を褒めたたえていたのではないのかな。

「あなたはいつも自分を頭が良いと褒めていたではないのですか」という甘えの表情に見える。

馬謖は「王平がなんと申したかわかりませんがあれほどの魏の大軍が来たのでは誰が当たっても防ぐことはできませぬ」と反駁した。

孔明は「だまれ」と叫ぶ。馬謖の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったんだろう。

王平は五千の兵をもってよく戦った。それゆえ敵は王平に伏兵がいるかそれとも詭策があるのではないかとあえてちかづかなかったという。それにひきかえ汝は王平の注意もきかず山上に陣取る愚を犯しているではないか」

「しかし兵法に〝高きによって低きを見るは勢いすでに破竹”とありまする」と言う。

孔明は「馬鹿者」と再び叫び「なんたる愚。生兵法とはまさにそなたのためにある言葉だ」とうつむいた。

孔明は「功を焦り蜀全軍を退却のやむに至らしめた罪は重い。そなたは・・・そなたは死刑じゃ」と言い伝えた。

そなたは・・・と一度言いよどんでいるのが辛いです。

馬謖は「死罪は覚悟しておりました」と言う。孔明は「お前の遺族は死後も孔明が面倒を見る」と答える。

孔明がこんな風に苦しんでいる場面は他にない。

 

蔣琬孔明に「お待ちくだされ」と声をかけた。

「この国家多難の時になぜ馬謖のような有能な士をお斬りになりまする。国家の損失ではありませぬか」

孔明は「蔣琬。君のような人物がそのような質問をするか」と答えた。「四方の国が争っている時に軍律をおろそかにして敵を破ることが出来ようか」

そして「本当の罪は余の不明にある」と言ったのだった。

うーん。ほんとうにそう思ってしまう。

孔明馬謖を使ってしまったことが最大の失敗だった。

史実では玄徳が生前「馬謖は頭は良いが実行力がないから大役に使ってはいけない」と孔明に話していたという。先帝の言葉を退けてまで馬謖を買いかぶってしまっていたというのはいったいどういうことなんだろう。といっても人間の好みというのはそういうものなのかもしれない。孔明ほどの知恵者であってもそれが見抜けなかったと。

 

馬謖は首を打たれ孔明はその首を見て泣き崩れた。その首は陣々にさらされた。

その後首は糸をもって胴に縫い付けられあつく葬られた。その遺族は長く孔明の保護によって不自由なき生活を約束された。

 

一方魏・長安では司馬懿が皇帝・曹叡から労いの言葉を賜っていた。

仲達は「しかし蜀軍はいまだ漢中に留まっています。陛下が蜀を討つことをお許し賜るなら蜀に攻め入ります」と言い皇帝もこの言葉を喜んだ。

ここで孫資が「かつて曹操様は漢中は天の牢獄、武を用いるべき地ではないと仰せられました。今もし蜀を討たんとすれば呉が我が国の虚をついて侵入してくるでしょう。それがしは国境の守りを固めひたすら国力を充実するべきと考えます」と進言した。

仲達は「一理ある」と答え皇帝もこれに同意して魏は孫資の方針が取り上げられることとなった。

 

再び蜀・漢中。

孔明蔣琬に「兵士の動揺はどうじゃ」と尋ねると「馬謖が斬られたことで二十万の兵皆涙を流しました。そして軍律を守らねばならないと気持ちを引き締めたようにございます」

孔明はそれを聞いて安堵した。だが自分自身の責任も明らかにせねばならないと言って自ら丞相から降格することを皇帝劉禅に伝えた。

劉禅はそれはならないと答え孔明は再び「私自身この度の過ちは死刑に値すると思っている。が、先帝のご遺託もありそれを果たすまでは寸命だけはお許し願いたい。丞相の位を辞することだけはお許しください」

劉禅は丞相は他の者には務まらぬと考え名称のみを右将軍と変え今までと同じように総督させることとした。

これを孔明は受諾して収まることとなった。

そして孔明は「今度の大敗はわしにはよい薬となった。戦というものは智でもなく兵の数でもない、と知った」と蔣琬に語った。

「これからは数に頼らず軍律を厳しくし将兵を鍛錬し真の精鋭を作る」

 

それ以後孔明は兵士の調練に励み軍需物資を整え捲土重来を期した。

 

だがひとつ気がかりなことが起った。

趙雲が戦の過労がたたったのか病に倒れたのである。

 

そして魏では孔明が漢中に留まり軍事調練に余念がないという報がはいる。

重臣らは蜀に攻め入り禍根を断つべきと進言しあった。

が、司馬懿仲達はこれらを制した。「たしかに我らは街亭で蜀に勝利したがそれは馬謖の過ちから得たものであり孔明の計略に間違いはなかった」と説明した。「それがしは要路に城を築き守りを固める方が良いと考えまする」

さらに仲達は「陳倉に頑強な城を築いておいたほうがよいかと」孔明は街亭の道を再び取らないと考えると陳倉の小道を追撃して奇襲によって長安を落とす計略を取るのではないかと考えたのだ。

かくして仲達の進言した陳倉築城を雑覇将軍郝昭が任じることとなった。

 

それから間もなく揚州都督曹休から急使が届く。呉の鄱陽の太守周魴が我が軍に寝返ったという報告である。

魏が兵を出してくだされば呉に導くと。

これには司馬懿も手助けに行きたいと願い出た。

しかし賈逵が口をはさむ。

周魴の言葉が疑わしいというのだ。これは仲達殿をつり出す策略ではないかと。

しかし仲達は事実であれば絶好の機会、として周魴に偽りがあったとしても決して敗れぬ態勢をもって三道から兵を進めてはいかがでしょう。

曹叡はこれを良しとして賈逵にも救援を求めた。

 

呉の孫権はこの動きを聞き周魴曹休をとうとう信じ込ませたかと肯いた。

孫権はこれは呉蜀同盟の条約によるものだと説明し陸遜に指揮をとらせた。

陸遜、許さない=独り言です)

待ち受けていた呉七十万の大軍も三手に分かれて進撃した。

陸遜率いる呉の本隊は周魴との打ち合わせどおり東関へ向かった。

 

その頃曹休周魴と会見していた。

「貴公から申し出のあった七か条、はなはだ理にかなっている故中央でも容れることになり三路より大軍が南下することになった」

感謝する周魴曹休は「まだ喜べぬ。そちは謀略にたけている故信頼できぬと申す者もあってのう」

これに周魴曹休の権を取るや自分の首にあてた。

止める曹休周魴は「呉を裏切り魏に降ったものの疑われては自害しかありませぬ」

曹休は「落ち着かれよ。完全に疑っているのであればここまで兵は出すまい」

これに周魴は髪を切って差し出した。「父母より残された髪を切って心のあかしといたします」

曹休は「これからは味方じゃ」と酒を酌み交わし「この作戦が当たれば呉を討ち破ることができる。その時は貴公の功労は大きく曹休も名誉に預かれる」

 

酒宴後曹休のもとに賈逵が訪ねてきた。周魴を疑いしばらく情勢を見られてはと進言にきたのだ。

周魴と手を組み呉討伐を目論む曹休にとって賈逵の進言は手柄を横取りしようとする不埒者と見えた。怒り「こやつを斬れ」というのを周囲に止められたものの賈逵と行動を共にするのは認められず賈逵の兵はその場に残されたままとなり曹休は東関へと向かった。

 

この報を聞いた周魴は安堵しこの顛末を書いた手紙を陸遜に届けさせた。

手紙を読んだ陸遜周魴曹休を石亭まで道案内すると知り徐盛を呼び待ち受けよと命じる。

 

計画通り周魴曹休を石亭まで道案内し「ここを越えると東関でございます。まずお味方の大軍をあそこに分配すれば東関を容易くてにいれられます」と語った。

曹休はその通りに石亭の山上に陣を築いた。

 

が陣を築いた後、西南のふもとに呉の兵がいるという報がはいる。

曹休周魴によるとこのあたりに呉兵はおらぬということだったが、とすぐに周魴を呼ばせた。

しかし周魴は陣のどこにもいない。

他の兵に聞くと昨夜から周魴とその家来の行方がわからないというのだ。

このことはすぐ曹休に知らされ曹休周魴の謀だったのかと怒った。が曹休は大軍を率いている。少々の謀でびくともするものではないと張晋に数千の兵を率いて山を駆け下らせた。

がふもとで待ち受けていた徐盛の軍は意外に多かった。

味方の兵が総崩れとなりやむなく張晋は引き揚げ曹休に報告した。

曹休は自ら兵を出して負けたと見せかけ引き揚げるのを合図に張晋、薛喬のふたりに挟み撃ちさせる計略をとることにした。

 

一方の呉陣でもおなじような命令が出されていた。

呉の二大将も命令通り進撃した。

張晋の部隊の前には呉の朱桓が現れ襲撃を開始。陣に火が放たれた。その頃全琮の部隊も薛喬の陣へと斬りこんでいた。

激しい戦闘となったが数で勝る呉軍がついに魏軍を蹴散らした。

朱桓全琮は二つの道から魏の本陣へと襲い掛かった。

魏本陣は大混乱となりさらに中央からも呉軍が殺到してきたと報が入る。

曹休はたまらず本陣を捨てて逃げた。

夜闇の山道を逃走していくと軍勢にぶつかり曹休はもはやこれまでと覚悟する。しかし「そこにおわすは曹休閣下では」という声は賈逵であった。

「やはり周魴の罠でしたな」という賈逵に曹休は謝罪した。

賈逵は「ここは無事に引き揚げることでございます」と家来に無数の旗を立てさせ多数の魏軍がいると見せかけ曹休とともに引き揚げていった。

 

追撃してきた徐盛軍は多数の旗を見て敵軍の備えと考え「曹休を逃がしたは残念だが戦果は充分だ。引き揚げよう」と去っていった。

 

この報告を受けた司馬懿は「そうか。やはり賈逵の心配したとおりだったか」と引き揚げることになった。

司馬懿孔明相手じゃない時は案外失敗が多い気がするんだけど)

 

呉軍の戦果は大変なものだった。多大な戦利品とともに降伏の兵は五、六万に達した。

周魴孫権に感謝され関内侯に封じられた。

また曹休の敗退を国書をもって蜀に使者をやり、諸葛亮に進撃するよう申し遣わすこととなった。

 

一方曹休は石亭の戦いに敗れ意気消沈して洛陽へ引き揚げたが道中背中に大きな腫れものができそれが原因で間もなく息をひきとった。

そこへ司馬懿が引き揚げてきた。曹休が亡くなったと聞き目を伏せた。

が、周囲の者は司馬懿がなぜ急いで帰ってきたかと問うた。司馬懿孔明が魏軍の敗北を知ったなら再び長安を狙うだろうと急いで帰ってきたのじゃ、と答える。

しかしこの言葉を「呉軍の強さに驚いたのを誤魔化している」「街亭の一戦に味を占め呉には勝てんが蜀には勝てるとみているのだ」と受け止め悪口を言いあうのだった。

 

漢中では孔明が酒宴を開いていた。

「今夜の酒宴は我が同盟国呉が魏に大勝したとの吉報があり陛下がお喜びでお酒を賜られたのじゃ。皆でその喜びを分かち合おう」

皆は酒を酌み交わしながらいまこそ街亭の恨みを晴らす時。呉にだけ大きな顔をさせておく必要はない。と騒ぎ立てた。

しかしこの時孔明趙雲の息子二人が訪ねてきたという知らせが入る。

趙雲が先ほど息を引き取ったというのであった。

生ある者は必ずいつかは滅びる。

わかっていても孔明の胸は万感の思いであった。