ガエル記

散策

『三国志』横山光輝 第四十三巻 その2ー蜀皇帝ー

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

成都にて。孔明をはじめとする重臣たちはそろって漢中王玄徳にご決心をうながそうと拝謁した。

「今こそ皇帝の御位につき万民を安んずべき時と考えまする」

笑顔だった漢中王の顔が険しくなり大声で話を遮った。

「しかし玉璽が漢中王の手元に届いたのは天の啓示。今こそ漢朝の宗親たる我が君が進んで漢の正統を継ぐべきであるとかんがえまする」孔明がどんなにかき口説いても玄徳は「不忠不義の人と呼ばれてしまう」「その話は二度といたすな」の繰り返しであった。

孔明は退出するしかなかった。

 

その日以後孔明は病と称して出仕しなくなった。玄徳は心配でたまらず馬車の用意をさせた。

寝床にいた孔明だが寝たままでは失礼になる、と衣服を整えた。

挨拶をする孔明に玄徳は「起きてて大丈夫なのか」と声をかける。

「心の病でございましたので起きることはできまする」と答える。

玄徳は「先頃の進言を余が拒んだことが原因か」「はい」と孔明

「この孔明、我が君に仕えてはや十余年いま蜀をとってようやく理想のいったんが実現されました」

孔明は静かに語っていく「昔は天下のためと燃えるような情熱をもってございました。それが近ごろ老いて一身の無事のみが願うところとなったのかとかんがえまするうちつい病の床に伏しましてございまする」

玄徳は「たしかにわしがこのまま黙っていたら魏の曹丕の即位を正当なものとして認めたことになるのう」

玄徳は曹丕の即位は認めないと知らしめるために皇帝になると誓い孔明は「そして天下を統一し戦火の消える泰平の世をおつくりくださいますよう」と言い添えた。

 

かくして建安二十六年四月玄徳は玉璽を受けここに蜀の皇帝を天下に宣した。

年号も章武元年と改元し、国も大蜀と号した。

 

皇帝となった玄徳は皆の前で関羽の仇である呉を討つと明言した。しかし趙雲は「今は呉ではなく魏を討つ時。もし魏を後にして呉にかかれば必ず魏と呉は共に蜀に向かってきましょう」と反対の声をあげた。

驚く玄徳に趙雲は皇帝の今ほどの言葉は私情であると言い切った。

これには孔明も同意見だというのだった。

 

閬中を任されている張飛は毎日酒浸りであった。

関羽が殺されたというのに仇を討とうとしない玄徳に焦れていたのだ。

もともと酒乱の気がある張飛はしばしば家臣に暴力を振るうようになっていた。

 

張飛は「そうじゃ成都に行ってじきじきに申し上げよう」として皇帝の前にひれ伏した。「なにとぞ生きているあいだにこの恨みをはらさせてくだされ」

玄徳はついに関羽の仇を討つ決心をしたのだ。

張飛はむせび泣いた。

重臣らはなおも皇帝に反論した。

皇帝は「黙れもう何も言うな」と制した。

「朕は関羽の死を聞いた時、呉とはともに天をいただかずと決心したのじゃ」

孔明もこれに反対だったが

玄徳の心にも打たれるし孔明の甘さにも涙してしまう。

やさしいんだよ孔明って。玄徳には特にね。

 

張飛関羽の仇討をついにアニキに決意させたまでは良かったがその後気持ちが爆走し部下を虐待してしまうのだ。

しかもその内容が「弔い合戦ゆえすべてを白で統一して三日で準備しろ」というなんとも馬鹿な怒り方でそこまで怒るなら最初から自分でコツコツ用意してろよと思ってしまいます。

命令を聞かなかった部下范彊と張達ふたりを縛り付けて鞭打ちし無理やり引き受けさせてしまう。できなければ首を斬ると言われたふたりはやむなく張飛を暗殺してしまうのだ。

 

その夜も酒を飲み酔って床についた張飛を范彊・張達は剣で腹を突き首をはねて持ち去る。呉に落ちのびて張飛の首を降伏の証拠にするためだった。

 

関羽の最期と比して張飛の最期のなんとあっけなくみすぼらしいことか。

蜀へ来てから張飛は以前とはまったく違う成長した戦いぶりを見せて将軍の風格を見せていたが品性はまったく変わっていなかった、というのがなんとも悲しい。

関羽は最後まで玄徳への忠義のために荊州奪還に固執し呉への嫌悪を露わにしてしまったために命を落とした。

張飛は最後まで酒に溺れ粗暴な性質を変えることができなかったために部下に恨まれ殺されてしまったのだ。

人間は本質を変えることはできない、とまではいわなくとも非常に困難であるし自分から変えようと思わなければ変わらないのだ。

 

蜀皇帝玄徳は七十五万の大軍を率いて呉へと行軍していた。

ある場所で野営している時に張飛将軍の家臣呉班が到着し「張飛将軍暗殺される」を報じた。

その報を聞いた玄徳は驚く。暗殺した家来は呉へと逃亡したと聞く。

 

 

翌日再び軍を進めた玄徳の前に張飛の嫡子張苞が現れる。続いて関羽将軍の次男関興も到着し玄徳は涙する。

張飛関羽の息子たちを得て玄徳はこの弔い合戦なんとしても勝たねばと決心を強くしていった。

 

呉軍が前面に現れたとの報が入った。

張苞関興は互いに先陣を望み言い争ったため矢を射って腕前を競うこととなった。

関興は飛ぶ鳥を射落とす腕前を見せたが張苞は他の武器ではと言い出し再び競うこととなる。玄徳はこれに「なんで味方同士で喧嘩をする」と怒った。

謝罪するふたりに玄徳は父親たちのように義兄弟となるよう勧めたのだ。

張苞関興はこれで義兄弟となり共に先陣を担うこととなった。

 

呉軍の先陣は孫権の甥の孫桓と朱然将軍五万の兵だったが張苞関興は鬼神の如き働きで呉軍を崩していった。

蜀軍の初戦は大勝利であった。

 

孫桓・朱然は守りを固めたが蜀はこれを策略で再び叩いた。孫桓の陣に火を放ち救援に駆け付けた軍勢をまたもや張苞関興が襲ったのだ。朱然も孫桓も退却するしかできなかった。

孫権にこの弔い合戦の意気が天を突くばかりと報じられる。重臣甘寧韓当周泰などの老練を起用するよう進言した。

 

章武二年の正月を迎えた。

玄徳は連戦連勝を祝って酒を酌み交わしながら「それにしても多くの将が老いた。この寒さもひとしおこたえるであろう。だが若い関興張苞などが役に立ってきたので朕も心強く思うぞ」

配下たちも彼らを褒めたたえた。

 

その言葉を聞いた老将軍・黄忠は雪の中槍を持ち十人ばかりを引き連れ陣を出ようとしたのを見張りの兵に呼び止められる。

かっけー。

無謀だけどこの絵がかっこよすぎて泣きそう。

こうして切り抜くとよりその素晴らしさが伝わってきます。寒いから帰ろうおじいちゃん。いやじゃ。

見張りは老将軍を止め呉軍が強化されたことを告げるが黄忠は笑うだけだった。

美しい。

 

見張りは「見殺しには出来ん」と後を追わせ帝に報告させる。

玄徳は張苞関興を助けに向かわせる。

 

この頃黄忠は呉陣の中を進んでいた。十騎余りなので誰も疑わなかったのである。

黄忠は先手の大将潘璋の帷幕を見つけ呼ばわった。

これに呉軍は驚きひっ捕らえろと騒ぎ出した。

75歳!すごすぎい。

さすが五虎大将軍の一人、と潘璋は恐れおののき逃げ出した。

逃がさぬと追いかける黄忠に呉軍は慌てて矢を射かけた。

倒れる黄忠将軍に「捕えろ」

黄忠~~~~(´;ω;`)

威圧される呉軍の兵士たち。そこへ張苞関興が駆け込んできた。

呉軍はたちまち逃げ出した。

(´;ω;`)ウッ…(´;ω;`)ウゥゥ…( ノД`)シクシク

「敵は逃げ敵将もどこかわかりませぬ」

「もう充分なお働き。そろそろ陣に引き揚げくだされ」

 

老将軍が重傷と聞き玄徳は駆け付けた。

「おお老将軍」

「陛下のような高徳のお方の側に七十五歳のこの年までお仕えできたことは人に生まれてこれほどの幸せはありませなんだ」

陛下もお体をいとわれ・・・と言いかけ黄忠将軍は息を引き取った。

 

蜀の誇る五虎大将軍の三人目がこの世を去ったのである。

 

75歳の死だったということもあるけど黄忠将軍もまた最期の最期まで自分らしい生き方をされて本当に幸福だったのではないかと思います。

以前仕えていた韓玄を思うと玄徳の仁徳を誇らしく感じての奉公だったと思われ、見事な生き方だったのではないでしょうか。

 

最期まで黄忠将軍に惚れ惚れしました。

 

この記事中に張飛の死の惨めさと黄忠の死の見事さを対比するように書くことになったのも演出なのでしょうか。

張飛は魅力ある豪傑でしたが残念。変化して黄忠のようになってほしかった。あり得ないとは思えど。