ガエル記

散策

『三国志』横山光輝 第四十五巻

孔明表紙絵2・5回目。

と言ってももう表紙絵回数ここからは数えてもあまり意味がないのですよね。ぐすん。

とりあえずネタバレ注意のための前置き文章なので続けます。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

呉にとってもっとも重要な防御線、濡須の城。この濡須城を守るのはまだ二十七歳の朱桓だった。

若いながら胆力もある彼は魏軍の先手が現れたという報にも伏兵を確認し慌てることはなかった。

この少人数で魏の大軍を防ぐことを案ずる部下に対して「戦は兵の多少ではなく大笑の駆け引きで決まる」と答えた。「炎天下を行動してきた魏軍は疲れ果てている上に大人数ゆえに食糧難に陥る。我らががんばっていれば勝手に崩れていく。まずは旗を伏せ兵を隠して無人の城の如く見せよ」

 

魏軍先手はまんまと騙され城壁を登り始めたところを攻撃され怯んだすきに一気い攻め討たれてしまった。

救援に向かった曹仁軍もまた伏兵によって背後から襲われ挟み撃ちとなってしまう。

魏軍は大敗し数知れぬ武器や馬を呉軍に提供してしまう羽目となった。

さらに炎天下にさらされ続けた魏軍には疫病が蔓延し倒れる者が続出した。

南郡に攻め入った曹真軍は城内に潜む陸遜の兵と城外に伏せてあった諸葛瑾の兵の挟み撃ちに会い大敗。

さらに曹休軍も呂範軍に撃破されるという報が入る。曹丕は呉軍が疲れ果てているに違いないという見込みが外れやむなく魏に引き揚げるしかなかった。

これより呉と魏は不和となった。

 

白帝城に逃げ込んだ玄徳はそれから体の調子を崩していた。

呉に大敗し蜀の将兵の多くを失った心労が大きな原因となっていた。

 

ううう。かわいそう、と言いたいがやはり人命を無駄に失わせてしまったのだから仕方ないとも思う。

それに引き換え曹操は何度も多くの人命を失わせても見事に復活していた。やはり人の上に立つ者は並みの人間ではない。それは決して良いことではないがそうならなければ為政者にはなれないのかもしれない。

 

時は過ぎ成都にいる孔明のもとに「玄徳危篤」の報が届く。玄徳は「丞相に至急会いたい」と孔明を呼んだのだ。

孔明は太子劉禅成都に残し劉永劉理の二皇子を伴って急いで白帝城に向かった。

 

玄徳は横たわったまま「おう孔明よくきてくれた」と声をかける。

なんというおやつれかたじゃ、と孔明は思った。

孔明は励ますように「陛下には漢朝のために天下統一という大きな仕事がございまする」と話しかける。

玄徳はこれにうなずきながらも「この体ではその志も半ばで別れることとなった」という「だがわしの亡き後も御身がこの世にあれば蜀は安泰じゃ」

玄徳の悩みは太子劉禅がまだ幼年でどのような人物に成長するのかわからないことだった。

そこで玄徳は「もし劉禅が帝たる天質を備えているものならばよく助けてやってもらいたい。しかし帝王の器でない時は丞相君は自ら蜀の帝となって万民を治めてもらいたい」と言った。

そして息子たちに「私の言葉をよく覚えておきわしの死後は丞相を父と思うてお仕えするのだ」と伝えたのだ。

そして息子たちを孔明に聖拝させた。

玄徳は趙雲にも息子のことを頼み「少し疲れたやすませてくれ」と目をつぶった。

皆は退出した。

 

夜星が流れ落ちた。

孔明が急ぎ駆け付ける。

この絵が素晴らしいと思いました。

 

「陛下」と呼びかける孔明に玄徳は「関羽張飛が来ておるわ」とつぶやく。

関羽・・・張飛・・・わかった、すぐ参る」

「陛下」と手を握る孔明に「義弟たちめ、早く来いと・・・せかしおる」

 

見守る孔明たちの前で玄徳は逝った。

 

最期の言葉が結局関羽張飛のことだったのが何度読んでも泣けてしまいます。

なんの後ろ盾もなかった流浪の三人男が義兄弟という契りだけで蜀の皇帝にアニキを成させるまでたどり着いた。

その最期は三人とも悲しいものだ。関羽は玄徳に会えないまま離れた場所で非業の死を遂げ、張飛はその仇討ちを願いながらあっけなく無駄に殺害され玄徳はあれほど民の幸福が大切と言いながら人命を失わせる道を選んだ。その選択は関羽の仇討という私情のものであり皆に諫められたのにその道を選んだのは権威者になったがゆえの傲慢だったのかもしれない。それは他の為政者なら当然だったかもしれないが徳の人玄徳には耐え切れない恥だったのだろう。

 

孔明は玄徳の棺を守って成都に帰った。

葬儀を終えると太子劉禅を皇帝の位に即かせた。

 

玄徳の死はたちまち魏と呉に伝わった。

 

魏の曹丕は喜びこの機会に成都に攻め入ることを考えた。

重臣は反対したが司馬懿仲達は曹丕に賛成だった。

たしかに孔明健在の蜀は難しいが五路の大軍を用いて攻めれば孔明とてあしらいかねまする、という。

第一路は遼東の鮮卑・胡夷に西平関を襲わせ

第二路は南蛮国に益州・永昌など西川の南を襲わせ

第三路は呉に西川の峡口より涪城を襲わせ

第四路は蜀の降将孟達に漢中を攻めさせ

第五路は曹真将軍が十万の兵を率いて陽平関より堂々と蜀に攻め入らせる。

曹丕はこれを聞き「見事じゃ」とその方針をとった。

 

蜀・成都劉禅皇帝は五路から敵が攻め入ると聞き驚き孔明を呼んだ。が孔明は病気と言って参内していない。

重臣孔明の邸に出向いても「明朝参内する」の答えのみであった。

 

が翌日暮れても孔明は姿を見せなかった。困惑する劉禅重臣は「こうなれば陛下自ら孔明の元へ行幸され意中をお問いあそばすしかございませぬ」と言い孔明の態度を非難した。劉禅は「もう申すな明日丞相によく聞いてみよう」と答えるだけだった。

 

劉禅孔明邸を訪ねると孔明は奥庭のいけのほとりで魚の遊ぶのを根気よく眺めているという。

劉禅は屋敷内に入った。

果たして孔明は確かに池のほとりでぼんやりと立っていた。

劉禅が「魏が五路より我が境を侵そうとしているをしっているか」と尋ねると

「はいそのような大事を知らずによいものではありません」と答える。

そして皇帝を奥へと手招いた。

劉禅は供を残しひとり孔明の後に続いた。

 

なんと孔明は四路から攻め入る敵にはすでに手を打っていたのだった。

第一路の胡夷には馬超

第二路の南蛮兵には魏延を。

第四路の孟達には李厳の兵を当たらせる。孟達李厳大親友であり孔明は威厳の手紙として文章を作り親友李厳の手紙として孟達に送らせました。おそらく孟達は良心の呵責で進むも退くもできず仮病を使うしかない。

第五路の魏軍には趙雲を。屈強の要害であり指揮が趙雲ならば滅多に破られる恐れはない。

孔明は続ける。

問題は第三路、呉の動きである。

呉は魏に攻め入れられた恨みがあるのですぐに魏の言う通り動くとは思えませぬ。

だがもし他の四路で蜀が危うくなれば呉は魏に味方して矛先を向けてくる恐れがあります。

「私が思案したのは呉をうごかさぬため昔の恨みは水に流して蜀と呉が国交回復をすることです」

しかしそのような大役をはたして誰ができるかと。

 

孔明劉禅が話し込む建物の外で供たちは待っていた。

やがて陛下が孔明とともに外へでてこられた。

この供は陛下が笑っておられるのを見て「よかったよかった」と笑い出した。

孔明が「何がおかしい」と問うと「はい愉快でたまりませんから」と答える。

孔明はその臣に「そうか少し話がある待っていたまえ」と伝えた。

劉禅は「では頼むぞ」と言って帰られた。

 

孔明は一人残らせたその男に名前を聞く。

男は「鄧芝」と名乗った。仕事は蜀の戸籍を調査しているという。

「戸籍の事務など君の適任ではあるまい」という孔明に鄧芝は笑いながら「そのようなこと考えたこともございません」と答える。

孔明が先ほどなぜ笑っていたのかと聞くと鄧芝は答え

「陛下のあの安心された笑顔。丞相が魏の侵攻に対して自信ある対策を語られたからでございましょう。蜀の民としてこれは喜ばずにはいられません」

孔明はさらに「この国はいま蜀と魏と呉に分かれているが、まずどちらを討つのが良いと思うか」と問うた。

鄧芝は私は政治家ではありませんのでと前置きして「魏は逆賊ですが力も大きく急には討てませぬ。それゆえゆるゆると時期を待つことです。そしてなるべく呉と連合して長い目で見た方がよいように考えまする」

孔明は礼を言って帰らせた。

そして鄧芝の考えが自分と同じであることから使者にできると感じたのだ。

 

孔明劉禅皇帝に鄧芝を呉への使者に勧めた。

皇帝は戸籍係の鄧芝を呼び使者に任じたのだ。

こうして鄧芝は即日出発した。死を覚悟の旅立ちであった。

 

 

玄徳の死もまた歴史の一ページにしか過ぎない。

孔明は着々と仕事をしていく。

でも彼の心にどんな思いがあるのか、深く考えてしまうのだ。