ガエル記

散策

『三国志』横山光輝 第四十五巻 その2ー使者鄧芝ー

ネタバレしますのでご注意を。

 

呉・孫権重臣たちは魏からの要請「五路侵攻作戦」に参加すべきかどうか大騒ぎとなっていた。

魏を信じるべきか否かで激論となり孫権は「陸遜に意見を聞いてみよう」ということにした。

陸遜の答えは「申し入れをはねつけるのも否というて蜀を攻めるは危険。進むと見せて進まず戦うと見せて戦わず戦況を眺める」というものだった。

孫権はこれに同意し長江を遡って蜀の様子を伺う。

この頃四路より攻め入った魏軍は蜀軍に手痛い反撃をくらっていた。

遼東の胡夷軍は馬超に蹴散らされ、南蛮勢は魏延の擬兵の計で潰乱した。

その昔蜀の一将だった孟達は蜀に攻め入り親友と戦うを嫌がり病気と称して兵を動かさず中軍の曹真は趙雲のために陽平関から斜谷にまで追われていた。

「それでは四路より入った魏軍は総敗北と同じではないか」

孫権陸遜の意見を聞いてよかったと安堵した。そして我が軍も引き揚げるよう命じたのだ。

魏の五路さくせんは失敗と終わった。

 

へえ仲達ってすごいのかと思っていたらこういうポカもやってるのね。しかもかなり壮大な失敗。他人まかせで儲けようというのは無理だわね。

 

 

さてこういう事態の後で鄧芝は使者として呉に到着した。

「これは孔明の策略に違いない」ということで孫権はその人物を試すことにした。

鼎を置いて油を入れ煮えたぎらせ通路には武器を持った兵をならばせたのだ。

そのうえで鄧芝を通した。

武器を持って居並ぶ兵の列の間を鄧芝は歩かされた。「ふふふ。なかなかものものしゅうございまするな」

そして煮えたぎった油の入った鼎が見えた。

孫権の前に立った鄧芝は微動だにしなかった。

「我が前に来て平伏せぬとは無礼であろう」

「それがしは三寸の舌先で余の心を動かせるとでも思ってやってきたのか」

鄧芝はハハハと笑い「呉国の利害を思うたればこそ使者となり申した。その一人の使者のために武士を並べ油を煮えたぎらせて脅すとは何たる度量の狭さでござる」

これには孫権も声が出ず兵を下がらせた。

鄧芝は呉が魏と組んでも害が多きことを説き蜀と呉が組んで魏と戦えば天下統一もなし得ると説いた。

そして鄧芝は「自分が信ずればこそ一命もかけられるのでございまする。口先でない証拠をお見せいたす」と走り出した。

驚く孫権重臣たちの前で鄧芝は煮えたぎった鼎に突き進んでいったのだ。

「ああっ止めい」

「詭弁を弄して大王をあざむかんとしてないことを自ら命を絶って証明いたす」

 

鄧芝の死を覚悟の熱意は孫権の心を大きく動かしたのである。

 

孫権が良い人でよかったよ)

 

魏の曹丕は蜀と呉が同盟を結んだと聞いて激怒した。五路侵攻作戦に呉が消極的だったのはそのせいかと即座に呉と蜀を討てと命じた。

重臣の一人は十年間は力を蓄えた方が良いと訴えたが曹丕は怒ってこれを退けた。

仲達は呉には長江の要害があるため呉に進むとなれば今より多くの戦船が必要と論じた。これには曹丕もあと千隻の造船を命じることになった。

曹丕が乗る巨大な船を始め三千隻の戦船が呉に向かった。

それはさながら浮かべる長城であった。

 

この報は孫権に届いた。またもや陸遜を呼ぼうとする孫権に徐盛が名乗りを上げる。必ずや魏の大軍を粉砕しますと。孫権は徐盛を総司令官に命じた。

 

徐盛は入念に準備をして魏軍を討とうと皆に命じるがこれに孫韶が反論した。時間をかけず速攻をするべきだというのだ。孫韶は孫権の甥になるが徐盛はこの反論に怒り打ち首を命じた。

これを聞いた孫権は驚き助命に走った。

徐盛は大王が命じた総司令官の命令に従わぬは軍法を犯すものでありそれを処罰するは当然。大王は親族だからとお許しになるのですか、と。だが大王にそこまで言われれば死罪は許しましょう、と言って孫韶に今後は指図に従うかと問う。

が孫韶は「いやだ」と答え去っていった。

孫権は徐盛に謝り「二度とあれを用いるな」と言った。

 

孫韶は手勢三千で長江を北に渡った。

それを知った徐盛は丁奉に命じて三千の兵を援軍として後を追わせた。

 

その頃魏の大艦隊は呉の対岸に迫っていた。

かがり火ひとつなく人影もない。この大艦隊に恐れをなして逃げ出したのだろうと曹丕は満足して眠りについた。

翌朝、曹丕が目を覚ますと呉の対岸にものものしい備えが出来上がっている。

これは徐盛が防御施設に草や布を覆いかぶせて敵の目をくらましていたのである。

そして一夜にしてすべての偽装を取り払ったのだ。

さらに張りぼての城壁や無数の藁人形に旗や槍を持たせて大軍が備えているように見せたのである。

曹丕は怖れを感じて淮水に引き返すよう命じた。

 

ところが突然嫌な雲が現れ風が吹き荒れ始めた。

大艦隊は大揺れとなり帆柱は折れ互いの船がぶつかりあった。

なんとか淮水の港にたどりついたものの曹丕は悪酔いし背負われて下船した。

船の損害も大きかった。

そこへ蜀の趙雲が陽平関より出撃し長安めざして攻めていたとの報がはいる。

曹丕は全軍嵐が収まり次第引き揚げよと命じた。

この時だった。

あの孫韶が淮水にある曹丕の陣を襲ったのだ。

馬上から矢を放ちあちこちに火を放つと陣はたちまち火に包まれる。

多くの死者が出た本陣を見て曹丕はやむなく船で引き揚げようとした。淮水の上流にさしかかると葦が生い茂っており船はその中を通過することになる。

突如その葦が燃え始めた。呉軍は大量の魚油をかけておいていっせいに火を放ったのだ。大艦隊は燃え上がった。

曹丕は兵を集結し軍を立て直せと命じたがその時またもや呉の伏兵が突き進んでくるのが見えた。張遼が矢を受け傷を負う。

その間に曹丕は馬で逃走した。

魏軍はここでも手痛い打撃を受けた。

魏の名将張遼はこの時の矢傷がもとで死んだという。

 

この時の魏の損害は曹操赤壁の大敗に匹敵するものだった。

 

呉の孫権は大戦果に狂喜し戦功第一は徐盛、第二は孫韶、第三は丁奉として恩賞を与えた。

 

その頃蜀にも一大事が起っていた。

南蛮王孟獲が十万の軍勢をもって益州南方に迫ったのだ。

それに呼応した武将たちとともに巴城に攻め入ってきた。

趙雲はこれを聞き引き返した。

長安を奪い曹丕の度肝を抜くところだったのが残念だった。

 

孔明劉禅に南蛮討伐を願い出た。五十万の兵を率いるという。

これに重臣が反対した。南蛮は不毛の地で疫病の国、丞相殿が行っては危険。大将ひとり差し向ければいいのではないかと。

が、孔明は南蛮の地は文明に遠い。これを従わせるは武力だけでなく仁が必要。それゆえ人に任せられない、と答えた。

ここではっきり心服させておかねば国家に不安を招くと。

孔明の行動はすばやかった。ただちに五十万の兵を集め益州南部へ向かった。

この時亡き関羽将軍の三男関策が孔明を訪ねてきた。彼は関羽とともに戦死したと思われていたのが重傷を負って養生し駆け付けてきたのだという。

南征軍はさらに進む。益州南部の自然は厳しく気候も熱く困難を極めた。

 

孔明軍を待ち構える高定・朱褒は一泡吹かせてやろうと意気込んでいた。

彼らは顎煥という大男に出撃を命じる。

魏延軍は孔明の命令でこの顎煥を生け捕りにした。

 

さて孔明はこの大男を使ってどういう計略を行うのだろうか。