ガエル記

散策

『史記』第四巻 横山光輝

ネタバレしますのでご注意を。

 

第一話「先從隗始 先ず隗より始めよ!!」

あの有名な「先ず隗より始めよ」の語源を描いたものですが多くの日本人が思う話ではないのが面白い。

たぶんほとんどの日本人解釈は「大変なことをやろうとする時は自分からはじめるべきです」という相手への忠告として使用するのが多いのではないでしょうか。

ところがこの話は昭王が国を建て直すため人材を集めたいがどうしたらいいものか、と問うた時に隗が「それならばまず隗、つまり私から始めなされませ」と答えたものなのだ。

つまり「大変なことをやろうとするなら身近にいる私(のようなつまらないもの)を優遇すれば優れた人物がそれを聴いて遠くからでもやってくるでしょう」という話です。「あなたからやりなさい」ではなく「私を大事にしましょう」と言ってるわけです。

日本人は多くの言葉を中国から輸入していますが往々にして意味が変化してしまうのが興味深いところですね。

 

ところでまた面白いのがこの話隗の話ではなく昭王の話なのですよ。

ややこしい。

 

時の燕の国王は国政に無頓着で宰相子之にすべてを任せてしまっていた。子之の横暴に太子平は立ち上がり子之打倒を計画する。これを聞いた斉王はこの機に乗じて燕を討ちとろうと案じ太子平に協力を申し出る。大国斉の申し出に喜んだ太子平は城門を開けてしまった。

斉軍は燕王と宰相子之を殺して燕国を支配下においてしまったのだ。

太子平は悔やんだが遅かった。

燕はそれから二年間斉によって支配された。

二年後太子平はやっと国君になることを許された。これが昭王である。勿論斉への忠誠を誓っての即位であった。

 

ここから若き昭王は郭隗先生に問いかけて優れた人材を集め国家を再興したいと願うのだ。

隗から始めた昭王に各地から優れた人材が集まってきた。この中に楽毅もいた。

秀才で兵法にも精通し諸侯が基礎って望んだ人物であった。

昭王も楽毅を重用した。

昭王はまず国の再建に力を注いだ。農民と苦労を共にして人心の収攬に努めた。

がこの間にも斉は凄まじい勢力拡大をしていた。領土を広げることも千余里であった。

 

二十数年が経ち昭王は楽毅に永年の恨みである斉への討伐を問いかける。

楽毅は斉の勢いは天下に覇を唱えるもので燕一国で討てる相手ではない、と答える。が、どうしても斉を討つというのならば趙をはじめ楚・韓・魏の諸国と手を結ぶしかない、と説くのだった。

「連合軍を作るのか」と昭王はさっそく楽毅に趙王を説くよう頼み他の国にも使者を送ることにした。

五か国連合軍は斉を攻め楽毅将軍はついに斉の主都を落とす。

これに昭王は涙を流して喜んだ。

自ら出向いて楽毅はじめ兵たちを労った。

昭王は楽毅に昌国を封じた。臣下に領土を与えるというのは破格の待遇である。

楽毅はさらに進軍し次から次へと城を落としていった。

六か月で七十余城を落としたのだ。

だが後二城というところで苦戦した。田単という優れた将軍がいたのだ。

この頃、燕では昭王が突然亡くなった。そのため新しく恵王が即位した。

国のために生きた昭王と違いこの恵王は酒と女で遊び暮らす放蕩息子であり楽毅は好んでいなかったし恵王もまた楽毅をうるさく思って嫌っていた。

 

そんな折おかしな噂が宮廷に流れた。

半年で七十以上の城を落とした楽毅がたった二城に五年もかかっているのは彼が斉王になろうと画策しているからだ、というのである。

これを聞いた恵王は楽毅を憎み呼び戻して裁くことにした。

そして別の将軍を差し向けた。

 

この帰国命令に部下は楽毅に例の噂を話した。楽毅は斉の田単将軍の反間の計だと察した。部下はそれを聴いて「それなら帰国すれば誅殺される恐れがありまする」と進言した。

楽毅は「昭王の名誉のためにも他国へ亡命する」と決めた。

もし楽毅が罰されたら「そのような人物を信頼するとは昭王もお人好しな人物と世間が言うだろう、それでは昭王に申し訳ない」という思いであった。

楽毅は趙へ亡命した。趙は喜んで楽毅を迎えた。

そして燕・斉の国境の地に封じて望諸君と呼び両国に威圧を加えた。

 

一方燕の兵士たちは恵王の不当な指揮官交代を怒って士気を失ってしまった。これこそ田単の思うつぼであった。

斉はたちまち反撃に転じ代理の将軍を討ち取り楽毅に取られた七十余城をことごとく取り返してしまった。

 

これを報じられた恵王はおののきすぐに楽毅に書簡を出した。それは自分の言い訳と亡命をなじる内容だった。

「余が呼び戻したのは休養をさせるためだった。それを楽毅が勝手に誤解して燕を見捨て趙に身を寄せるとは。楽毅はそれでいいだろうが先王(昭王)の信頼と厚遇にどのように報いんと思われるか」

これに楽毅は返事を出した。

そこには楽毅の先王(昭王)への敬愛が訴えられていた。楽毅は昭王の大志を感じて昭王に仕え昭王はその楽毅を取り立て楽毅もまたご恩に報いようとした。

そして昭王は積年の恨みを晴らし恥を注がれたこと、さらに崩御の後にも国内に乱れがなかったことは昭王の功業でございます。

楽毅の願いは昭王の功績を讃えご偉業を明らかにすることです。

自分が罪に問われれば昭王の名誉を奪われてしまう。嫌疑をかけられたことを口実に燕を討とうなど義としてできぬことです。

古の君子は人と絶交しても相手の悪口を言わず真の忠臣は国を去ってもその身の潔さを弁明しないものと学んでおります。

 

恵王は自らを恥じた。

そして安心して楽毅の子・楽間に昌国君の位を継がせた。

楽毅は燕・趙の両国から客卿の待遇を受け趙でその生涯を閉じた。

 

陰謀と裏切りの時代にあってこの手紙は多くの人の心を打った。

とりわけ諸葛孔明は尊敬してやまず人生の手本としたという。

 

泣きそう。

確かに孔明の生きざまは楽毅のそれと重なる。

けど孔明には恵王ではなく劉禅が天から与えられた。

劉禅孔明にとことんやらせてくれたからなあ。やっぱり劉禅って良い人なんだよ。

(それでも一回呼び戻したけど良い所でなあ)