ガエル記

散策

『史記』第三巻 横山光輝

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

第一話「因習打破」

これは『三国志』で孔明が南蛮国平定からの帰途河に生贄を捧げる(あっちでは数十人だった)悪習をやめさせるために肉饅頭を代わりに捧げる、という話の元になったものではないでしょうか。

こちらでは西門豹という官僚が鄴の県令に任じられ村の荒廃を見る。

その原因が上に書いた悪習とそれに伴う儀式にかかると称して大金を巻き上げる役人と巫女たちだった。

本作では生贄に捧げられる若い娘を助けて悪習を続けて村人から金を巻き上げていた者たちを代わりに突き落とすという痛快なものになっています。

 

その後西門豹は村人たちに用水路工事を割り当て黄河から水を引いて新しい農地を開墾していくのである。

人々は嫌がったが(生贄と金は出していたのにこっちはいやがるのかw)お上の命令というので逆らえず(あはは)ただちに県民は動員されて工事は始められた。

やがて鄴の農業は大きく発展した。魏の国力は日ましに増大し戦国の強国としてのし上がった。

前四〇八年。周王朝は魏を認め、諸侯の列に加えた。

いい話だったけど結局は戦争に突き進んで行くのだなあ。

 

第二話「改革者の悲劇」

孫子と並び称される兵法家がいた。呉起である。兵法書呉子」を記し「孫・呉の兵法」と高く評価された。

呉起の人生は皮肉の物語である。

彼自身は優秀なのだが人格にどこか足りない部分がある、とでもいうのだろうか。

最初勉学もないまま仕官を目指すがどこへ行っても断られ財産を失うだけに終わった。このことを周囲の人々から嘲笑われてしまう。確かにこれは嫌なことではあるが呉起はこの人々を殺してしまうのだ。明らかにちょっと行き過ぎている。

その後勉学に励むが途中で母の死を知らされるが罪のある身では葬儀にも出られないと使いの人に金を渡して嘆く。その後師匠に「孝がない」と追い出される。理由を言えなかったというけど確かに葬儀に出られないとしてもせめて近くまで行くとか人がいなくなった後墓参りだけするとかの気持ちもない、ということではないだろうか。

それから兵法を勉強していい仕官について嫁を娶るが将軍に任じられる際にその嫁が敵国の出身だと告げ口する者がいて呉起は仕方なく妻を離縁する。

後でこのことをまた謗られる。

こうしたことの繰り返しの人生なのだ。

刹那的な人、というのだろうか。見通しをしない、できない人なのだ。

最期は国王の命で国を増強するために都で遊んで暮らしていた貴族たちを地域振興のために強制的に地方へ分散させ私利私欲にまみれた門閥や役人の収入源をすべて整理するという清廉潔白な政治改革を行う。

この大改革で楚は国力を増し強大国となった。

が国王が世を去ると各地に散らばされていた貴族たちや特権を奪われた役人たちが「語気を殺せ」といきり立って襲ってきた。

呉起自身は悪いことはしていない。むしろ良いことをしたのだが悪徳を貪っていた者たちを怒らせたのだ。

呉起は亡き王の霊堂に逃げ込む。楚の法では王の遺体に武器を触れたものは重罪となっていることを利用しようとしたのだがその法解釈は悪党どもには効かなかった。

この場面が非常に映画的で美しい。

こうして呉起は楚を強めたが再び門閥体制に戻ってしまったという。

 

呉起が兵卒の足の膿を吸い出したのを聞いてその兵卒の母親が嘆いた「これで息子は呉起様のために死ぬでしょう」という話だけどこかで知っていましたwこれだったのかあ。

 

第三話「孫子の兵法」

春秋時代末期と戦国時代にかけてふたりのすぐれた兵法家がいた。

孫武とその後裔の孫臏である。どちらも兵法書を残したため不朽の兵法書孫子」はどちらの書かと諸説がある。原題ではどうやら孫武のものであろうという意見が有力だ。

史記ではどちらの書かはっきりさせずにふたりを記している。

 

春秋末期、呉王闔慮の時代。

孫武の話。

王は孫武の書いた兵法書を読み感心して兵士の調練のやり方を見せてほしいと言って宮中の美女たちを集めた。

孫武は美女たちに鉾も持たせ二組に分け王の寵姫ふたりを隊長とした。

そして号令に会わせて動くように何度も言い聞かせたのだが実際に号令をかけると美女たちは笑い出す。

これを見た孫武は私が悪かったと言ってくどいほど言い聞かせた後再び号令をかけたがまたもや美女たちは笑い転げる。

「静まれ」と孫武は言い「先ほどは私の落ち度だったが今度は違う。命令通りに動かぬのは隊長のせいである。よって隊長は処刑する」

これに王は驚き孫武を制止したが孫武は容赦なく寵姫二人を斧で殺した。

孫武は隊長を次の美女に命じて再び号令をかけた。笑い出す者はなく号令は整然の行われた。

呉王はたじろいだが孫武の才能は認め将軍とした。孫武を迎えて呉は強国にのし上がった。西の強国・楚、北の斉・晋を脅かした。

 

その疾きこと風の如く

その徐かなること林の如く

侵掠すること火の如く

動かざること山の如し

              孫子

 

それから百余年、孫臏が登場する。

孫臏は最初孫濱という字であった。

 

若い頃から兵法を学び同門に龐涓がいた。

龐涓も秀才だったが孫濱が常に上であるのを妬み憎んでいた。

 

やがて龐涓は魏に仕え大将軍にまで出世した。だが龐涓の頭には孫濱がこびりついて離れない。「いずれ斉とも戦うことになるがあの男がいる限り・・・。今のうちに殺しておいた方が将来のためだ」

こうして龐涓は孫濱を殺そうと企み手紙で呼び出し宴会を開いてもてなした。

ところが龐涓の留守中孫濱は斉の間者だという理由で捕まる。

魏王は龐涓を呼び出し孫濱の前で問いただすと龐涓は旧友の前ではさすがにひるみ「斉の間者とは知らず招待した。しかし間者ならば処刑するは当然。ただ彼は竹馬の友。打ち首だけはお許しください」と言い逃れてしまう。

こうして孫濱は打ち首にはならずとも両足を切断され額に罪人の入れ墨をされた。龐涓は友を裏切った自分への罪悪感を打ち消すためにふるまった。

ここで孫濱は友に「私は名を孫濱の濱を臏(膝頭の骨)に変えようと思う」と話した。

孫臏は何事も運命とあきらめたようにふるまっていたが内心は無実の罪を着せた龐涓に激しい怒りをおぼえていたのだ。

孫臏は龐涓の保護下にいたが二年後に田忌将軍が魏に訪れていると知って状況を記した手紙を書き送った。

田忌将軍は出立前に孫臏を助け出し魏から出た。

孫臏は田忌将軍に役立ったことで斉王にも目通りかない軍師となった。

 

孫臏は両足がないことで移動にも馬車や車椅子を使うのが特色で印象的だ。

孫臏は田忌将軍と組み戦功をあげていく。

そして魏の大将軍龐涓の軍を打ち破り龐涓を悔しがらせた。

 

さらに十数年後再びふたりは戦うことになった。

田忌将軍は以前と同じ戦法をとろうとするが孫臏は龐涓が同じ過ちはしまいと考えて戦法を考えていく。

そして田忌将軍に逃げることで勝つ戦法を勧める。

さらに宿営地の竈をそのままにして去り翌日は半数に減らし三日目にはその半数にしてください、と説く。

これは敵の深追いを誘うためだった。

斉軍に脱走兵が増え戦力の衰えを感じさせる罠なのだ。

(これは孔明の陣払いで逆をやってましたね)

「深追いすること百里ならば将を失い、五十里ならば兵の半ばを失う」

田忌将軍は従った。

 

孫臏の罠に龐涓はかかり深追いをしていく。しかも兵を置き去りにして駆け進んだのだ。

孫臏は舞台を仕上げ両側に兵を伏せて魏軍を待ち構えた。

龐涓はその舞台へと飛び込んできた。そこには「龐涓この木の下に死せん」と書かれていた。

いっせいに数千数万の矢が降り注がれた。

孫臏は龐涓の無残な死体を見た。

 

斉軍は魏軍を徹底的に打ち破り凱旋した。孫臏の名は一躍天下に知れ渡った。

だがその後、孫臏は戦いには出ずひたすら兵法書を書き続けた。

 

彼を知り

己を知れば

百戦して

あやうからず。

         孫子

 

孫臏の物語に息をのむ。