ガエル記

散策

『ジャック・ドゥミの少年期』アニエス・ヴァルダ

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なんて幸福な映画なのでしょうか。

監督のアニエス・ヴァルダがドゥミの伴侶だったと後で知りました。

夫の少年時代をこんなに愛らしい夢のように描き出すことができるなんて奇跡のような夫婦に思えます。

 

特に始まりの子供期の少年がとても可愛らしい。

優しく愛情深い母親と真面目で働き者の自動車修理工の父親と仲のいい弟という家族を持つジャック・ドゥミ

フランスの田舎町で生まれ育った彼。裕福というわけではないけれど善良で実直な家庭でドゥミは幼いころから人形劇や映画などを楽しみに成長していきます。

こんなに幸福な少年時代をおくれた人はそんなにいないんじゃないのかと思ってしまいます。

凄い作品を作る人は往々にして不幸な子供時代を過ごしていたりしますが、ドゥミの作品をそんなに観ていないのに言えませんが『シェルブールの雨傘』『ロバと王女』のような不思議作品を作れるのはこのような幸福な少年時代を送ったからこそかもしれません。

それでも映画監督になり得たのは後半の辛い職業学校時代の賜物と私は思います。

 

シェルブールの雨傘』で有名になり、池田理代子ベルサイユのばら』原作の映画を作ったジャック・ドゥミですがプロフィールを見ても寡作で知っている映画作品はありませんでした。

本作でも晩年は絵を描く生活で子供時代の思い出を書き綴っていたと語っていました。

こんなにも幸福な少年期を過ごし念願の映画監督になれたのならもうそれ以上の人生はないと言えるでしょう。

 

映画はスリルサスペンス、苦悩から希望を見出す構成で感動をもたらしますが、全編が幸福なのに感動できる作品は逆に希少だと言えます。

一つ一つのエピソード、場面が美しく幸せなのです。

 

深い愛と幸福で作られた映画を選ぶ機会があればまずこの映画を挙げたいと思います。

『カリスマ』黒沢清

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はまりました。

難解で一つ一つの場面に何らかの意味があるとかどうでもいいと思うほどにおもしろかったです。

なんですか、この奇妙な感じ。

登場人物は非常にごくあたりまえの日本人 としか見えませんがあたりまえであればあるほど奇妙で不気味でおかしいのです。

ということはあたりまえの日本人というのは奇妙で不気味でおかしいということですね。

 

本作のカリスマのなんとみすぼらしいことでしょうか。

しかし人間はそんなものに価値観を見出し争うのです。

 

 

『私はあなたの二グロではない』ラウル・ペック

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I Am Not Your Negro)は、ジェイムズ・ボールドウィンの未完成原稿『Remember This House』を基にしたラウル・ペック監督による2016年のドキュメンタリー映画である。サミュエル・L・ジャクソンがナレーションを務めるこの映画は、ボールドウィンによる公民権運動指導者のメドガー・エバースマルコム・Xマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの回想を通してアメリカ合衆国の人種差別の歴史、そして米国史についての彼の個人的な考察が描かれる[4]第89回アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。(wikiよりコピペ)

 

集英社文庫野崎孝訳『もう一つの国』を読んだ人は私と同じ世代なのじゃないかと思います。

1977年に発行されたその本はどうやらもう絶版になっていてこの本が話題になることもほとんどないからです。私がこの本を買ったのは中学の終わりだったか高校生になってからか定かではありませんが数えきれないほど読み返しました。

同じ頃吉田秋生にはまっていたこともあって(というか彼女自身この本を読まれているし多大な影響を感じさせます)少女期の私のバイブルのようなものでした。

もっと以前の子供期にヨーロッパにあった意識がアメリカ大陸に渡ったような感じでしょうか。

映画でも『真夜中のカーボーイ』だとか『真夜中のパーティ』だとか『スケアクロウ』だとか『ヘアー』だとか『M☆A☆S☆H』『タクシードライバー』『スローターハウス5』『地獄の黙示録』『ゴッドファーザー』『ミスターグッドバーを探して』『ジョニーは戦場へ行った』『エクソシスト』『イージーライダー』『ダーティハリ―』などなどなど私の映画感性は70年代に育成されたことは間違いありません。

ところがこれら大好きな映画を見渡しても「黒人俳優」が主人公ではありませんでした。黒人俳優は常に脇役であったわけです。

もちろんシドニー・ポワチエというとびきりの二枚目黒人俳優がいたことは確かですが白人と同等に様々な配役がされることはなかったのです。

 

以降少しずつ黒人俳優が有名になり始めましたが今現在でもその活躍の範囲は狭いものだと見えますし、黒人キャラだと思ったら実はアメリカ人ではなくイギリスなどの外国から採用された黒人俳優であることもままあります。

ただでさえ少ない採用枠にあえて外国の黒人俳優を使う理由とは?

アメリカの白人のアメリカの黒人への意識をここに感じてしまいます。

 

『私はあなたの二グロではない』強烈な皮肉を放つタイトルにかなりびびりながら観始めましたがジェイムズ・ボールドウィンの落ち着いた語り口に救われました。

本作で彼と並ぶ黒人の代表にキング牧師マルコムXがあげられていますが誰もが知っているであろう(知らない人はとりあえず勉強を)二人と違いボールドウィンの名前を知っている日本人はあまりいないのかもしれません。

わたしにとってはかの二人よりもボールドウィンの著書に彼の気持ちを感じています。

『もう一つの国』はひとりの主人公ではなく幾人もの人々の物語が集まっている小説です。そこには白人の男女、黒人の男女が幾通りもの組み合わせで描かれていきます。

もちろんこれは彼の持つ提案であるのです。例えば白人女性と黒人女性、そして白人男性と黒人男性、いろいろな組み合わせができるのだと。

『ジョバンニの部屋』はフランスを舞台にした白人男性ふたりの物語です。ここにも黒人作家が白人の物語を描く権利と意識を感じさせます。

 

本作でボールドウィンが子供期に白人の女性教師に優しくされたことでどうしても白人を嫌いになれない、と説明する箇所があります。

そして彼の小説を重ねれば彼がアメリカという国で白人と黒人がほんとうに対等に交わっていける理想を願っていたのではないかと思ってしまうのです。

 

それでも現実のアメリカでは彼の死後もまだ、なおいっそう激しい対立が止むことはありません。

遠い国から見ているだけの私はボールドウィンの願いを悲しく思うとともに自国での差別意識もまったく改善されていかないことに苦しまねばなりません。

国と国民が発展し平和に生活するには平等の意識がなければどうしようもないのです。

 

まったく違う国のように思えるアメリカと日本で、差別意識だけがそっくり存在しています。

人種差別だけではなく性差別もまた、ですが。

 

人種差別と性差別を無くし対等である道を選択しなければこの二つの国は消滅するのだろうと考えています。

 

『リチャード・ジュエル』クリント・イーストウッド その2

とはいえリチャードが痛々しいのは「さえない男」だからではなくて「立派なアメリカ市民の鑑」だからなんですよね。

彼はいわゆる保守の人ですね。アメリカ魂を持った男性なわけです。

正義を愛し、銃を信じ、アメリカ政府を尊敬している人物です。お母さんもそういう人物でそういう育て方をしたのでしょう。

彼はまっとうな考え方をしている人なのです。だからこそ母親を大切にし、弱き女性に親切です。コンサート会場でも妊婦さんや黒人の母娘に思いやりのある言葉をかけていました。

銃を所持し訓練していたのもアメリカ男性としては正統派と言っていいはずです。

法律の勉強をし国民を守る仕事につきたいと志願する男性で自分が逮捕されてしまうことは他人を守ろうとする人がいなくなるのだと心配しているのです。

 

弁護士ワトソンはそんなリチャードとは違うタイプの人間だと思いますが彼のあまりにも純粋な愛国精神に苛立ちながらも感動しているのだと思うのです。

今ならリチャードはきっとトランプ支持者でしょうし、日本で生まれているのなら圧倒的自民党支持者で安倍政権では安倍総理を菅政権では菅総理を応援する単純で素直な愛すべき人なのです。

 

日本にもいますね。安倍総理を愛するがあまり投獄されてしまった方が。

 

しょーもないなあ、とも思いますが怖ろしいのは政府とメディアの人間であるということです。

 

リチャードさんのその後の人生が(早く亡くなられてしまったとのことですが)幸福であったらいいな、と思います。

『リチャード・ジュエル』クリント・イーストウッド

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クリント・イーストウッド映画の見本のように面白く楽しめる一作でした。

 

正義とは何かを見つめ人生の価値を考えさせられるのがイーストウッド映画だと思います。その表現は芸術とかマニアックなものではなくて誰が見てもとてもわかりやすく退屈せずに楽しめる作品でもあります。

 

ネタバレですのでご注意を。

 

1996年に実際にあった爆破事件で警備員をしていた実在の人物を描いた作品です。

 

実在の彼は検索すれば簡単に見ることができます。主役を演じたポール・ウォルター・ハウザーはそっくりです。

つまりよくある映画での「美化」はこの場合、絶対に行えないわけです。なぜならその容貌こそがこの物語の肝だからなのですね。

 

映画に出てくる主人公は皆が憧れるかっこいい男性であるのが定番で皆もそれを求めます。

非常事態が起きた時に活躍する男性がブラピのようだったら或いは精悍なマッチョだったら皆それに従ってしまうでしょう。そして疑いをかけられることも大衆がそれに同調することもなかったのかもしれません。

 

が、本事件のヒーローはどうにもさえない背の低い太っちょでした。

女性にも持てず同性の友達もいない感じ。あまりにも人が良くて尊敬されることもなく怖れられることもなく生きてきた男性でした。

大勢を爆弾魔から救った英雄として崇めるには訝しい人物と評価されてしまったわけです。

 

その彼が異常なほどの正義感を持っていて際立った射撃の名手で頭も良い、となってしまうと「こいつは怪しい」となってしまったわけです。

 

現在日本の報道でも全く同じようなことが日々起きていると言っても過言ではないでしょう。

「こいつは叩ける」という人物は徹底的に叩きのめし、視聴者がそれに同調すればさらに叩き続けていきます。

もし反応が鈍ければ報道は収まる、ということです。

 

サム・ロックウェル演じる弁護士ワトソンはイーストウッドの声そのもののように思えます。

「もっと怒れ!奴らに見くびられるな!」

昔かたぎの男の声です。

私も昔人間ですので彼らの戦い方に手に汗握りすっとしましたw

 

主人公ジュエルと弁護士が冴えない見栄えなのと対照的に悪役のFBI捜査官がハンサムである、というのが本作の手法でありますね。

 

ジュエルの行動は彼自身が言っていたように「当たり前のことをやっただけ」なのですが周囲が彼を英雄に祭り上げ、そして次には疑惑で騒ぎ立てる。

こうした現象が起きる時はより落ち着いて考えなければなりませんね。

 

 

 

 

「バカ」の研究 ジャン=フランソワ・マルミオン

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表紙に書かれている Connerie というのがフランス語でバカという意味らしい。

 

インターネットが普及してから私たち以前よりもっと多くの「他人の意見」を知るようになりました。

私のように田舎町に住み他人とのかかわりが極端に少ない人間でもネットを覗き込むが最後怒涛の「他人の意見」を知ることになります。

またテレビで流れてくる情報や言葉にも常にさらされてしまいます。

こうした中で私たちはその意見に感心することも多くあるのですが時折或いは頻繁に「こいつバカか?」

と思わされてしまうわけです。

 

しかし「人をバカというヤツがバカだ」という言説もあります。ここで反射的に「おまえはバカだ」と書き込んでしまったのなら確かにこの言説が成り立ってしまうわけですが本当にそうなのかどうか考えることは自分の糧にもなるかもしれません。

 

とはいえ「私の判断は間違っていないんだろうか」という迷いも起きてしまう凡人にはここはひとつ「頭の良い人」にお墨付きをもらっておきたい、という理由でこの本があるのかもしれません。

 

フランソワ・ジョスト「SNSにおけるバカ」を読むとわが日本国の「SNSにおけるバカ」と同様のバカがお洒落な国として高評価のフランスにも存在するのだとしてほっとできることでしょう。

読んでいるとつまらないひとつの事件によくもここまで沸騰できるものだと笑えますし、本題からそれた「外見への悪口」が過熱してしまうのもどこも同じなのだと怖ろしくもなります。

「手作り料理」に缶詰のサクランボを使うというのはまっとうな事かどうか、がこの炎上議論の話題なのですがもっと真剣に議論すべき案件についてはここまで白熱することはないのだろうな、とため息も出ます。

 

セバスチャン・ディエゲス「バカとポスト真実」は内容はおおいに同意なのですが表現が「ウンコな議論=ブルシット」となっているのがなんとも困ります。

とはいえSNSでは「クソ〇〇」という表現が(女性でも)あたりまえになっていますね。私はどうしてもこの言葉を使うのがダメで今初めて書いた気がしますw

しかし実際、SNSでもリアルでも発される議論のあまりの馬鹿々々しさに「ウンコな議論」としか表現できない場合があるわけですね。

例えば酷い差別発言に抗議する人がいても返ってくる言葉はさらにそれを貶めはぐらかし嘲笑う言葉であったりします。

互いに「おまえが間違ってる」という言葉を回し続けているだけで互いに互いを論破し叩きのめそうとしているけれどどちらものめされまいと歯を食いしばっている状況はなんとも「ウンコな議論」としか言いようがありません。

 

ジャン=クロード・カリエール「バカは自分を賢いと思い込む」の中でケルン大司教が言った「イエス・キリストは神の子であっただけでなく、母親にとってかけがえのない家族でありました」という言葉を史上最大の愚かな発言としています。

この言葉がよくわからなくて考えてみようと思っています。

 

 

『マイ・チャイルド・レーベンスボルン 』

 

 

先日、このツイートを知りました。

私はゲームというものをほとんどやらない人間なのですが(今まで数えるほどしかしたことがないです)このゲームの紹介が気になって見過ごしてしまうことができませんでした。

 

ナチスドイツがその当時純粋なアーリア人を残すためにドイツ男性と金髪碧眼が多い北欧の女性の間に子供を作っていった、という歴史的事実を私が知ったのは最近のことでした。

その子供たちがどんな悲惨な状況の中で生き抜いていった、あるいは死んでしまったのかは知らないままだったのです。

こういう話を聞くと「まったくナチスドイツは恐ろしい」という感想は日本人の間にも起こりますが、そのナチスと日本が同盟していた事実もまた歴史的事実なのです。日本人もまた国民の純粋性を高く謳う思想を持っていましたし、今もまだ持ち続けているように思えます。

 

最近でもよく聞く「あの人は純粋な日本人じゃないから」という台詞があります。

また「日本人は単一人種から成立している珍しい国民」だとか「純粋な日本人でなくなるのは怖ろしい」などという言葉が何の疑問もなく使われたりしています。

こうした言葉が当たり前のように使われてしまうことがどういう歴史を生んでしまうのかをよくよく考えなくてはなりません。

 

またこのゲームのようにそうした思想から生まれてしまった子供たちを憎悪し差別してしまったのは何という悲しい歴史なのでしょうか。

その子供たちに罪はないのです。

しかしそうした思想が悲劇を招いてしまいました。

どちらの歴史も繰り返してはならないのです。

こうした思いを噛みしめながらゲームをしていきました。

 

マイ・チャイルド・レーベンスボルン

マイ・チャイルド・レーベンスボルン

  • Sarepta Studio AS
  • ゲーム
  • ¥370

apps.apple.com

このAppは、iPhoneおよびiPadApp Storeでのみご利用いただけます

 

絵柄もよくある日本のそれではないから落ち着いてゲームをすることができました。

しかし内容は説明にあるとおりとても辛いものでした。紹介してくださった方がすばらしい文章で書かれておられるのでそちらをリンクします。是非お読みください。

 

arcadia11.hatenablog.com

 

ここにも書かれていますがこのゲームの凄い着眼点はゲーマーが被害を受けた子供になるのではなくその子供を育てることにした「養親」になることです。

「この子を守るにはどうしたらいいのだろうか?」

それはゲームの中、戦争中だけではなく今現在でも考えなくてはならないことです。

このようなゲームが存在することを教えてくださったJiniさんに感謝するばかりです。

ありがとうございました。

ツイッターは長短さまざまな批評がありますが、こうした情報はリツイートという形で出現しなければ普段ゲームをしない人間には知りえないことでした。

 

私は一度うっかりして失敗してしまいました・・・ゲームだからこそ笑い話で済みますがこれが現実で会ったら取り返しのつかないことになった、ということです。怖ろしい。それに何度となく心を傷つけてしまいました。これが実際の子供だったら・・・・。

どうぞ皆さんこの子たちを守ってあげてください。