ガエル記

散策

『複雑さを生きる』安冨歩


複雑な世界をやわらかに生き抜く方法〜東京大学教授安冨さんと一月万冊の清水有高〜年収1億円を稼ぐマインドや真の知的思考をするための思考法

れいわ新選組安冨歩氏を知りYouTube「一月万冊」で清水有高氏との対談でその考えを学ぶという奇跡のようなすばらしい体験を現在進行形で味わっています。

 

その中で特に清水氏が推すのが安冨歩著2006年発行『複雑さを生きる』なのですが岩波書店から発行された本著はそこで絶版となってしまいました。

そこで清水氏は本著の版権を買い取り「一月万冊」から再版をされています。

が、ここで清水氏が単純に再版をされたわけではないところに彼のビジネスセンスを感じられるわけです。

難解な本著に安冨歩氏自らの解説(十何時間にわたるという)を付属して34000円で販売するという方法をとられていました。

「いました」と過去形なのはそのセット販売はすでに終了していて今現在は別売りになっていますし、さらに別の本や動画とセットにした価格も出ていてしかもこれからも時間が経つごとにセットや値段が変化していく、という複雑な構造になっているのです。

(もしかしてこれが複雑さを生きる、ことか?)

 

私自身はお金の余裕さえあるのなら飛びついて購入したのですがさすがに3万4万という金額になるととても購入することができません。

なので仕方なく図書館で岩波書店版を借りることにしました。

 

定価は2200円+税となっていますが確かにこれは解説付きでないととても理解できる内容ではないと思います。

もし以前にその値段で購入していたとしても何も判らずに棚にしまい込んでしまったに違いありません。

が、「一月万冊」で安冨氏の話を聞いているととてもわかりやすいのですね(いや確かに難しいですが)

私が先日書いた「無形」の部分はたまたま安冨氏がれいわ新選組山本太郎氏について語っていたので「そういうことか」と飲み込めましたが、他の部分はさっぱりわからないのです。やはり「これはこういう意味で書いている」という解説なしには理解不能かもしれません。

(清水氏は読んで理解されたのだからやはり凄いとしか言えません)

「一月万冊」版が売れたら図書館への寄贈も考えているとのことなので私と同じように読めないでいる方は辛抱強くお待ちください。とはいえ解説動画は販売のみとのことなので・・・清水さんの気持ちが変化して「解説がないとやっぱりわからないですよね」ってことで何かの形で観れるようになるといいのですが・・・。

現在は動画のみだと3万何千円かで売られているそうですので10人で購入して回す、というのは違反ではないですよね?

(友達いないんでできませんが)

(10人の同好の士を集めるのが困難)

 

下が先日書いた記事です。

gaerial.hatenablog.com

 

安冨歩さんの考えは自分の人生のためにとても参考になるものだと思います。

現在生きるだけでも困難なこの日本社会で安冨氏の考えは何らかの手掛かり、突破口になるのでは、と私は感じています。

 

さて、図書館から借りた本なので期間内せっせと読みましょう。

 

学校をなくそう

いつの頃からか「学校、という仕組みはもう無くしたほうがいいのではないか」と考えるようになりました。

生徒同士だけでなく教師から生徒、あるいは生徒から教師、そして教師対教師のいじめ虐待、暴力、ハラスメント、様々な言葉で表現される怖ろしい関係は終わることもなく繰り返されています。

それは一般社会と断絶されるかのように学校という仕組みの社会の中だけはどうしても変化できずにいるからだと思います。

 

そんな折『一月万冊』で安冨歩教授が「学校なんかなくしたほうがいい」と何度も言われているのを聞いてますます思いを強くしています。

しかし残念だったのは先日の動画で不登校児だった清水さんがそれに賛同しながら安冨氏に「ではどうしたら良いでしょうかね?」と問うと教授がそれに明確な返事がなくて「とりあえず就職の際に出身校を聞いてはいけない」と答えただけだったことでした。

 

確かに一気に学校を廃止してしまうのは無理でありそれに代わる学業のシステムを考え施行するのは至難です。

私は以前、生徒それぞれが個人でプログラムを作り(難しいなら政府がコースを作って選択させればいい)様々な場所、いわば勉学を教えるだけの塾のような場所、で勉強し政府が出すテストに合格したら進級していって卒業。その中には数人が集まって運動会や修学旅行やボランティアなどのプログラムを選択するなどもある、みたいなやつをこなしていくだけでいわゆる集まる学校はない、とすればいいのでは、と考えました。

 

しかしそれすら難しくて今の学校での勉強を続行しなければいけない、というのであれば「言葉」だけを変革したらと思います。もちろん意識の変革ということになるのですが。

まずは「学校」という名前を変えてください。別にそのままでもいいのですがどうしても名前が同じだと意識が変化させづらいのです。「塾」「学問所」でも良いのですが今までにない名前の方が「まったく違うもの」という意識にしやすいのではないでしょうか。

なんでもいいのですが意識として「学習の場だけの意味」を持たせたいのです。むしろ何の意味も無い言葉にしてもいいかもしれません。

 

「先生」「生徒」と絶対に呼ばない。「教師」「教諭」などの肩書も全部なくします。公務員であるのは変える必要はないと思いますが評価によって給料は変わるかもですね。

そこは個々のこどもたちが学習をしに来るだけの場でそこにいる大人はその補助をする役のために存在して給料をもらうだけです。

ですから「先生のいうことを聞きなさい=さからうな」という意識は存在しません。

子供たちは学習でも人生の悩みでもそこに設置された担当員に質問することができます。無論納得できなければ別の人に再び質問すればいいのです。

 

現在の「学校」の価値観は歪みすぎています。

立派な先生を求めすぎ、優秀な生徒を求めすぎていますがそんな人はいません。

「いじめをなくそう」という言葉自体が間違っているのです。

いじめがなくなることは永久にないのです。それなのにそのことばをスローガンにするのは奇妙です。いじめをなくそうと思ってしまうから「それは本当にいじめにあたるのか?」という問題ばかりに気をとられ「いじめはなかった、と判断しました」というおぞましい発表があるのです。

大切なのは「いじめられた、と感じた子供を救う」システムを作ることです。どんな些細なことでも「いじめられた」と思う子供がいたらその気持ちを救ってあげる。状況は様々なのでそれに応じて救援していくのみなのです。

 

「いじめをなくそう」ではなく「いじめは絶対にある」ところから始めなければ永久に「それはいじめにあたるのか?」「いじめではないことにしよう」という結論ばかりが繰り返されます。

たぶん学校をなくしてもいじめはなくならないでしょう。暴力ハラスメント虐待などが無くなることは永遠にない。なぜなら受けたと思えばそれは存在するからです。いじめがあったかどうか、ではなくいじめられたと感じた時、すでに存在するからです。

ですからできるのはそうしたいじめハラスメントなどの暴力を受けた人・子供を救助するシステムをつくることだけです。

 

学校をなくそう、と思っても学習する場所を一気に変更するのが困難であれば「学校」という名前、「学校に関係する名前」をなくそう。

先生、生徒は勿論、校則をなくします。制服はもちろん髪の長さとか靴はこれとかそうした規則が私たちの心を殺していくのです。

 

『複雑さを生きる』安冨歩 第4章 動的な戦略 一 無形

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いきなり第4章ですがどうしてもここを書きたかったのです。

 

つまりネタバレになりますのでご注意を。

 

 

 

この「無形」という言葉については以前安冨教授ご自身がれいわ新選組山本太郎氏について語られていた時に説明されていたのを聞きました。

安冨氏は孫氏の兵法を元にして「軍隊の形の最高の状態は、形のないことである」と書いています。

日本の政治が様々な形を繰り返してもなお突破口を開けないでいる時山本太郎という「無形」の人物と出会い安冨氏は日本社会を変えていく可能性を感じられたに違いありません。

私自身安冨教授の考えを知らないまま山本太郎の演説を聞いて「なにかが変わる」という希望を感じました。

事実彼は参議院選挙で二議席を勝ち取り自分ではなく車椅子に乗った障害者である舩後・木村両氏を参議院議員にするという快挙を成し得ました。今までにこのような戦い方はなかったわけです。これは本当に感激でした。まさに「無形は最高の戦法」を描いたものだったのです。

 

ところでこの「無形」の戦法という話を聞いた時、私は「そんな考え初めて聞いた!」ではなく「よくある話だったなあ」という感想でした。

別にこれは知ったかぶりをしているわけではなく私たちが子供の頃はそういう話が結構多かったのです。と私は記憶しています。

 

実は私は安冨歩教授と同じ年齢なのです。とはいえ安冨氏は非常な勉強家だったと想像しますので私と同じようなアニメやマンガを知っておられたかどうかはわかりません。もしかしたら氏はまったくそうした経験をされてはいないのかもしれませんが私の子供時代の少なくとも男の子向けのマンガアニメはやたらとそういう「無形の戦法」の話が出てきていたのです。

その頃の少年向けのマンガアニメドラマの主人公は必ずと言っていいほど大人の言うことを聞かない破天荒な少年で他のおとなしく真面目な子供たちが驚くような悪さばかりしてしまいます。もちろんそれで学校の先生とか和尚さんとかから大目玉を食らってお仕置きされたりするのですが一向に懲りない。

そして何らかの試合だとかケンカだとかになって強力な相手と戦うことになるのですがこの無茶苦茶な主人公はちゃんとした稽古も練習もしていないのでとんでもない戦法を使ってその強者をやっつけてしまう、ということになり先生や和尚さんが「なんて奴だ」あっけにとられるという結末になるのです。

たぶんそれらの作者はそれこそ孫氏の兵法をもとに物語を作っていたのでは、と私は思っています。

昔の少年向け物はほとんどそうだった、といっても過言ではないと思いますが判りやすい例としてはちばてつやおれは鉄兵』があります。

70年代後半のマンガなのでそうした無形の主人公の後期とも末期ともいえるでしょう。

たぶんもうすでにそうした無形の主人公が少なくなった時期にちばてつや氏が堅苦しくなってしまった社会をぶち壊す主人公を作り上げたのだと私は思います。

 

『鉄兵』はまさしく無形の主人公で何をやらかすかわからない。彼の父親は名門の家に生まれ大蔵省に勤めるまでになりながら家を出て埋蔵金発掘にのめりこむという人生を選んだ男です。

妻と子供たちは名家に残してきたものの幼い息子鉄兵だけを連れ出してしまったため彼は勉強もせず野生児のように育ってしまった、というわけでした。

申し訳ない言い分ですが安冨歩教授は鉄兵ではなく彼の父親とイメージが重なります。

もし氏が読まれていなかったら是非読んで欲しいマンガ作品です。ちょっと嫌かもしれませんが。

 

ちばてつやさんの作品は安冨歩氏が語る「学校で勉強しなかった」タイプの主人公がほとんどなのではないでしょうか。

「無形」の彼らは型通りに生きている人々を驚愕させます。

なにを考えているのかわからないし本当にとんでもないことをしてしまうので全く予測がつかないのです。

それでもなぜか読者は鉄兵が好きでたまらなくなってしまうのです。

 

物語で昔は多かったが現在無形の主人公はいなくなった、かのよう書きましたが本当は今は今なりの無形の主人公たちを描いているのがマンガアニメとも思っています。

鉄兵のように型破りではない、むしろ型通りに生きてはいても自分のどこかに「無形」の力が眠っているのを願っている、そんな主人公が現在の姿のように思えます。

何かのきっかけでその無形の力が目覚めて欲しい。

どうにも頼りない現在の主人公たちですが私自身鉄兵ではないと自覚してしまいますし、彼になれるわけもありません。

それでもそんな「無形」の戦法に憧れもするのです。

 

 

 

なお『複雑さを生きる』は図書館で借りて読みました。

 

 

『贖罪』黒沢清 その2

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第四話と最終話を観終わりました。

小泉今日子さんがとても素晴らしく見ごたえありました。

しかしこれは俳優の魅力と言うのは結局監督の演出力であるという証明でそれは当たり前ですね。

 

 

ネタバレになりますのでご注意を。

 

 

第四話、小川由佳。池脇千鶴が演じています。昨日書いた「こんな怖ろしい目にあっておかしくならない人がいたらおかしい」と言うのが彼女でした。

と言うのは元々がおかしいからなのでした。

ところがこのおかしい彼女だけが堂々と生き抜いてしまうわけでやはりこの社会はおかしい人だけが生き抜ける、おかしくないと生き抜くなんてできない社会だというわけです。

男の物語と女の物語の違いはここで主題として描かれている妊娠出産にまつわるものがほとんどです。

その描写は残酷で凄惨になる場合が多く苦手です。年を取ってかなり耐性ができましたがそれでも平気では観られません。

このシリーズの第四話の主人公はそうした女の特性を全開にした活躍を見せてくれます。いわば真実の女子力というものです。

彼女は友人の母親が言った戯言など気にも留めません。あふれだしてくる嫉妬を止めることなど全くせずいわば「女の武器」を最大限活用して生き抜いていく姿はあっぱれとも言うべきでしょう。

妊娠してお腹が大きく膨らみゆさゆさと歩かねばならないことすら彼女は戦うための武器として考えていきます。

我が子を見殺しにしたと恨む母親・足立麻子がこれまでの女性たちと違って彼女にだけ許しと励ましの言葉を与えるのは彼女が麻子そのものだったからです。

それが判るのは次の最終話を観てからでしょう。

 

最終話、足立麻子。小泉今日子が演じています。

15年前一人娘のエミリを何者かに凌辱され殺された母親は当時一緒に遊んでいた四人の友人たちに「犯人を見つけなければ他の方法で償え」と言い渡します。

15年後の彼女には当時の娘と同じ年齢になった息子がいました。つまり娘が死んだ後、彼女は再び妊娠出産をしたことになります。そのことも彼女の強さを表しています。

第一話から三話までは殺された友人の母親に言い渡された呪いの言葉によって人生を狂わせた3人の女性たちのそれぞれの苦しみが描かれました。

第四話からこのシリーズが他の凡百のドラマと違ってきます。第四話でははっきりと「自覚した悪女」が描かれます、

そして最終となる第五話の主人公、足立麻子は「自覚できない悪女」ということでしょう。

四話目の小川由佳は何もかも意識して悪事ともいえる行動を繰り返してきました。男を誘惑しそれを利用し生活し嫉妬をして復讐を遂げてきたわけです。

怖ろしい悪女ですが明確にそれを意識しているだけでも納得できるかもしれません。

それと対照的に麻子は意識のない悪女です。

大学時代の女友達は彼女が行動さえすれば死なずにすんだのに放置しました。

三人の女性たちの人生を破壊してしまったのも彼女ですが彼女自身は「当然の事よ」と思い続けてきたのでした。

別の男との間に出来た子供だと自覚しながら夫には話さないことも「当然」であり愛する夫と息子がいても自分の怒りを優先することが当然だったのでした。

すべてを自覚しないまま行動してきた麻子がそれを自覚した時、茫然としてしまうのはまさしく当然のことです。

 

彼女は自分がまったく悪事をしていないと思いながら悪事を続けてきた女性でした。

 

ということがわかればはっとするのは自分のことです。

「私は何も悪くない」とあなたは思っていませんか。

もしかしたら・・・麻子と同じように何も自覚しないままに他人の人生を破壊してきたのかもしれません・・・。

 

ふっふっふ・・・

 

 

ところでこの作品に新井浩文氏がちょい役刑事役で出ていました。

彼の行った犯罪は決して許されるものではない、のですが彼の演技のファンだったものにはとても残念なものでした。

まあ、このドラマの刑事役が他の役者にはできない演技、というほどのことはないのですが。

しかし彼のせいでももしかしたらこのドラマが一般には観られなくなっているのだとしたら勿体なくもあります。

『贖罪』と言うタイトルの番組で彼の姿を垣間見たというのも意味ありげなことではあります。

そしてネタバレ中のネタバレになりますが、香川照之氏は逆に好きではないのですが黒沢清監督作品ではやはり良いので不思議です。

と言っても彼は『鬼が来た!』から知っているんですがねー。

 

 

 

『贖罪』黒沢清 その1

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ネットフリックスにて鑑賞。原作は未読です。

 

全部観終えてからだと忘れそうなので途中で書き留めておきます。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

「いかにも現代日本らしい幕の内」弁当的物語となっています。

冒頭小学校で遊んでいた数人の女児たちに声をかける怪しげな男。一番可愛らしいと思える女児ひとりに「仕事を手伝って欲しい」と頼む。他の女児が「一緒に手伝う」というのを断って男はひとりの女児だけを連れて校舎に入っていく。

しばらくしても戻ってこないのを心配した女児たちが声を掛けにいくと体育館に死体となった女児が横たわっていた。

亡くなった女児の母親は「私は絶対にあなたたちを許さない。あなたたちは犯人を見つけ罪を贖うのよ」と生き残った女児たちに告げる。

物語は一話ごとに一人ずつその後の成長した彼女たちを追っていく。

 

とりあえず3話まで観たのですが人間のというべきか日本人のいかにもいそうな人々のいかにも言いそうなセリフが続きます。

自分も含めてでありますが人間(日本人)というのは皆ヘンテコな人しかいないのではないかと思えてきます。

脇役だけではなく主人公も誰もかも考え方が奇妙なのです。

皆が奇妙ならそれは奇妙ではないのでしょうか。

いったい何が正しいことでどんな行動が正しいものなのか。よく判らなくなってしまいそうです。

第一話、菊池紗英 は15年前の事件の恐怖から逃れることができません。彼女はすべての男性に対し嫌悪感を抱き恋人作りや結婚に否定的に生きてきただけでなくまだ月経がはじまっていないのでした。

そんな彼女は押し付けられたお見合いから一人の裕福な男性と結婚してしまいます。

その男は人も羨む地位と財産を持つ良い人に見えるのですが実は人形しか愛せないという人格を持っていました。そんな彼には月経がない紗英は理想の女性だったのです。

演じるのが蒼井優森山未來ということもあってなかなか見ごたえありました。人間というのは嫌がっているとなぜかそういう「変な人」に魅入られてしまうように思えます。引き寄せてしまうのです。

男がおかしいのは一目瞭然なのですが菊池紗英のほうもおかしいのです。

しかし幼いころに友人が性的な殺人をされてしまう。そしてその子の母親に「絶対に許さない」という枷をはめられて「おかしくない人生」を歩めるひとがいたらそちらのほうがおかしいのかもしれません。

 

第二話、篠原真紀。小池栄子演じる小学校の教諭となった彼女もまた15年前の事件を背負っていますが一話目の紗英が逃げていたのに対しこちらは真っ向からその敵と戦おうとしてきました。剣道部に所属し、水泳の時間に侵入してきた加害者を棒で打ちのめします。一旦英雄と称えられた後、剣道練習中に幻覚を見て相手を過剰に叩き続けたために今度は逆に激しく断罪されます。

学校を題材にした物語は必ずこうした暴力と謝罪する教師たちという話になります。学校と言う場所から離れて10年ちかくなりますが現実本当にここまで歪んだものなのでしょうか。いろいろな意味で「学校」というものはもうなくなってしまったほうがいい、と考えているのですが(もともとそう思っていたところに安冨歩教授の考えまで聞いてしまって完全に学校廃止を望んでいます)このドラマが真実の姿ならいったい学校を存続する意義があるのでしょうか。

これも主人公の篠原真紀自身もおかしな教師、として描かれています。彼女自身がそのことを自覚していないのが恐ろしいのです。

 

第三話、高野晶子。安藤サクラの怪演がみどころです。

さて加瀬亮演じる兄はほんとうに養女に手を出そうとしていたのか、ということになるのでしょうが、もちろん晶子自身が体験していたからこそそう思ったわけです。

この話の中で「身の丈に合った」という言葉が出てくるのですが、その言葉にぞっとしました。

よくぞこの言葉を選びましたね、と思います。

ついこの前まで存在した安倍政権で萩生田大臣が使った言葉ですが私はこの言葉を聞いてぞっとするとともに本当にこの政権は国民一部を除いた多くの国民を蔑ろにするのだと思ったのです。

「身の丈に合った」と言う言葉はむしろ良識のある判断として称えられそうな言葉ですが反面というか明確に「つけあがるな」という言う意味なのだとこのドラマで思い知らされます。

「身の丈に合った生活をしましょう」などと正論めいていわれたらぺっと唾を吐きましょう。それはあなたを排斥する言葉です。結果がどうであれ生きたいように生きていいのです。

体を衣服に合わせられるわけがないのです。

 

晶子は逆に一見おかしな人間なのですが心は逆にまっとうです。しかしまっとうな人間はこの日本社会では生きていけない、と言うお話でした。

 

まだ続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『エヴァ』ブノワ・ジャコー

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最近の日本の観客は簡単に答えが見つからない作品を酷く嫌う。以前はまだ難解な映画を有難がる一派もいたのですが1990年頃を境に答えがすぐに見える作品でないと罵声を浴びせるようになってしまいました。

 

この映画作品などはその最たるものかもしれません。見えている事象はさほど難しいことではないのですが登場人物の心理があっさりとはわからない。これを嫌がるのです。

「金を出して観ているのにきちんとサービスを受けられない=なにがなんだかわからない」のは何事だ!というわけです。

しかしまさに現実は、目の前にいる人間はなにを考えているかはわからない、わけです。

いやだからこそ映画くらいは解りやすくして欲しい、ということでしょうか。

 

しかし観るべきはこうした映画ではないかと私は思っています。

少なくとも私にはとても面白い興味深い作品でした。ギャスパー演じる若く美しい青年が「おばあさん」といってもいいような年齢の売春婦にのめりこんでしまう、なんて設定は無理すぎる、という感想が多いのですが「いかにも、当たり前」の若くきれいで善人の男女の恋愛を観ていて面白いのか、と思ってしまう私の方がおかしいというのなら仕方ないのかもしれません。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

主人公の男はハンサムで優し気な性格に思えるのですが実は性根が腐っていて救いのない最低の人間なのです。

この感じは黒沢清が描く一見良い人そうなのに嫌な男に通じるように思えます。

エヴァと名乗る年のいった売春婦もなんとも掴みづらい複雑な造形です。ステレオタイプでないと安心できないみなさんにはこれを観る資格がないということです。

事実いかにもな恋人役の綺麗な婚約者女性はこの(映画)世界から抹殺されてしまいました。

 

青年とエヴァは互いに互いを殺そうとまでしてそれでもそれゆえに認め合い別れ難い関係になっています。

奇妙なラストではありますが二人の関係はこれからも続いていくのです。

 

主人公はもともと老人男性の相手をしていて(明らかに性的な)ハプニングで彼の書いていた戯曲を盗んで自分の作品にしてしまう、という人間です。

なので年を取った売春婦にのめりこむのも別に不思議ではありません。

老人と関係を持って何かのおこぼれをもらおうとする人格なのでしょう。エヴァとの場合は彼女とのやりとりを作品にしようとしてうまくいかないのですが。

 

殺人は最初はハプニングだったのが次は自ら手を下そうとしてしまいます。ありがちなことです。そして金づるに思えた婚約者は事故死してしまい彼は途方にくれますがあのままだったほうがどうなるのか怖ろしいように思えます。

そうした経過もありきたりではなく構成されていくので謎めいて見えるのですが案外現実にこういう事例があるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

『新世紀エヴァンゲリオン』庵野秀明

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ネットフリックスにて鑑賞。再鑑賞の部分もあります。

 

エヴァ』をリアルタイムでは観ていませんし、後日観る機会があった時ちらりと見て反感があったためかなり長い間観ずにいました。さらに後日ある程度観ることができましたがやはり最初に感じた嫌悪感に近いものは間違っていませんでした。

さらに後日新劇場版になってからは以前感じていた嫌悪感がすっと消えてしまったのです。

つまり私は最初のテレビ版には反感があるのですが新劇場版は共感を持って見ることができるのです。(大好きではないのですが)これはおかしなことでしょうか。

しかし一般的にエヴァファンは最初のテレビ版こそがエヴァなのであって新劇場版になってからはかなりの罵声を聞きました。

「これは私の(俺の)エヴァではない。エヴァは破壊されてしまった」などなど。

ということはその逆である私もいるのですから明確に何かが違う、ということなのです。

 

 

ところでこの『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメ作品は私にとって好きになれない作品ではあるのですが非常にわかりやすい作品でもあります。

もしかしたらあまりにも理解できる作品だったからこそ奇妙な反感と嫌悪感が生まれてしまったのかもしれません。

つまりはこれ庵野秀明という一人の人間がぶつぶつつぶやきながらごっこ遊びをしている、という作品ですね。

小さい子供がよくやりますね。人形を持ってその中に自分を乗り移らせ「おまえは誰だ。宇宙の敵だな。やっつけてやる。えい。やあ。くそ、次は必ずやっつけてやるぞ」みたいな。

女の子なら「ステキなドレスでしょ?ケーキを食べていかない?」みたいなお人形さん遊び。あれをアニメでやってる感じです。

シトはヒト(人)だし、オタク人間なら世界中のすべての人が敵(シト)なのは一目瞭然なのはすぐわかる。14歳のころは思春期で第二次成長期、性の目覚めもあって多感で不安で臆病なのに親からは世界との戦いを命じられていく。

ガンダムが現実の世界での戦争を描くのならエヴァは自分の中の戦争を描いているものなのです。

それは非常に面白いアイディアでした。特に男性はガンダムのようなリアル世界を模した作品は高評価しやすいのですがエヴァのようなメタ認知的な世界は敬遠してしまうものです。

エヴァの技法は明らかに「少女マンガ」世界を取り入れたものです。ですから少女マンガを読んできた人間には非常にわかりやすい表現なのですが少女マンガを見過ごしていた男性たちには特に斬新な演出として感じてしまったのではないでしょうか。

などということを何十年も経った今さら話しても詮無いことではありますが。

 

とはいえそのエヴァはいまだに完結を迎えていません。いや作品はもしかしたら完結したのかもしれませんがそれを観るには至ってないわけです。

さてその終末はどうなっているのでしょうか。

私はたぶんこの作品をすっかり好きになることはもうないと思うのですが(あまりにもキャラクターを好きになれな過ぎます)新劇場版になってからはかなり興味は湧いています。

 

それにしてもエヴァがこれほど評価されても同じように精神世界を描いたものはほとんどないのは残念にも思えます。

女性の作品、男性的技術を超えた女性的な作品というものももっと生まれて欲しく思います。