ガエル記

散策

学校をなくそう

いつの頃からか「学校、という仕組みはもう無くしたほうがいいのではないか」と考えるようになりました。

生徒同士だけでなく教師から生徒、あるいは生徒から教師、そして教師対教師のいじめ虐待、暴力、ハラスメント、様々な言葉で表現される怖ろしい関係は終わることもなく繰り返されています。

それは一般社会と断絶されるかのように学校という仕組みの社会の中だけはどうしても変化できずにいるからだと思います。

 

そんな折『一月万冊』で安冨歩教授が「学校なんかなくしたほうがいい」と何度も言われているのを聞いてますます思いを強くしています。

しかし残念だったのは先日の動画で不登校児だった清水さんがそれに賛同しながら安冨氏に「ではどうしたら良いでしょうかね?」と問うと教授がそれに明確な返事がなくて「とりあえず就職の際に出身校を聞いてはいけない」と答えただけだったことでした。

 

確かに一気に学校を廃止してしまうのは無理でありそれに代わる学業のシステムを考え施行するのは至難です。

私は以前、生徒それぞれが個人でプログラムを作り(難しいなら政府がコースを作って選択させればいい)様々な場所、いわば勉学を教えるだけの塾のような場所、で勉強し政府が出すテストに合格したら進級していって卒業。その中には数人が集まって運動会や修学旅行やボランティアなどのプログラムを選択するなどもある、みたいなやつをこなしていくだけでいわゆる集まる学校はない、とすればいいのでは、と考えました。

 

しかしそれすら難しくて今の学校での勉強を続行しなければいけない、というのであれば「言葉」だけを変革したらと思います。もちろん意識の変革ということになるのですが。

まずは「学校」という名前を変えてください。別にそのままでもいいのですがどうしても名前が同じだと意識が変化させづらいのです。「塾」「学問所」でも良いのですが今までにない名前の方が「まったく違うもの」という意識にしやすいのではないでしょうか。

なんでもいいのですが意識として「学習の場だけの意味」を持たせたいのです。むしろ何の意味も無い言葉にしてもいいかもしれません。

 

「先生」「生徒」と絶対に呼ばない。「教師」「教諭」などの肩書も全部なくします。公務員であるのは変える必要はないと思いますが評価によって給料は変わるかもですね。

そこは個々のこどもたちが学習をしに来るだけの場でそこにいる大人はその補助をする役のために存在して給料をもらうだけです。

ですから「先生のいうことを聞きなさい=さからうな」という意識は存在しません。

子供たちは学習でも人生の悩みでもそこに設置された担当員に質問することができます。無論納得できなければ別の人に再び質問すればいいのです。

 

現在の「学校」の価値観は歪みすぎています。

立派な先生を求めすぎ、優秀な生徒を求めすぎていますがそんな人はいません。

「いじめをなくそう」という言葉自体が間違っているのです。

いじめがなくなることは永久にないのです。それなのにそのことばをスローガンにするのは奇妙です。いじめをなくそうと思ってしまうから「それは本当にいじめにあたるのか?」という問題ばかりに気をとられ「いじめはなかった、と判断しました」というおぞましい発表があるのです。

大切なのは「いじめられた、と感じた子供を救う」システムを作ることです。どんな些細なことでも「いじめられた」と思う子供がいたらその気持ちを救ってあげる。状況は様々なのでそれに応じて救援していくのみなのです。

 

「いじめをなくそう」ではなく「いじめは絶対にある」ところから始めなければ永久に「それはいじめにあたるのか?」「いじめではないことにしよう」という結論ばかりが繰り返されます。

たぶん学校をなくしてもいじめはなくならないでしょう。暴力ハラスメント虐待などが無くなることは永遠にない。なぜなら受けたと思えばそれは存在するからです。いじめがあったかどうか、ではなくいじめられたと感じた時、すでに存在するからです。

ですからできるのはそうしたいじめハラスメントなどの暴力を受けた人・子供を救助するシステムをつくることだけです。

 

学校をなくそう、と思っても学習する場所を一気に変更するのが困難であれば「学校」という名前、「学校に関係する名前」をなくそう。

先生、生徒は勿論、校則をなくします。制服はもちろん髪の長さとか靴はこれとかそうした規則が私たちの心を殺していくのです。