ガエル記

散策

『ユリ熊嵐』幾原邦彦

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『さらざんまい』を観ていたらイクニ作品をもう一度観ていきたくなり後退する形式で本作をまず鑑賞してみます。

イクニ作品と言えば『少女革命ウテナ』『輪るピングドラム』『ユリ熊嵐』『さらざんまい』ということになると思います。どの作品も単なる筋書きの物語ではなく心象風景の描写に焦点があると言って過言ではないのですが特に本作は心理をどう表現するかに重きが置かれています。

 

ゆえにどうしても地上のドラマに置き換えないと理解できない我々はあれやこれやと一般常識による言葉をかき集めて分析せずにおれません。

「スキ」という言葉で表される「ユリ」と欲望を持つ「クマ」がこの作品の重要なキーワードです。そしてその二つの大切なものを見えなくしてしまうのが「透明な嵐」というものです。この「透明な嵐」に立ち向かうのがユリと熊が合体した「ユリ熊嵐」なのです。

 

そしてさらに物語の表現に他の多くの方も様々な解釈分析をされておられるわけですがここでそれらのまとめをしても仕方ないのでできる限り自分なりの方向を見つけてみたいと考えました。

 

私が本作で直接感じたのはこの作品の中の最も忌むべき言葉「透明な嵐」が「差別意識」によるものではないかということです。

本作世界では女性同士の恋愛は正当として描かれているので同性愛差別は感じられませんし女性ばかりが登場するので性差別も描写されません。

登場人物の外見は髪や目の色の違いはあれそこに差異を見つけているようでもなく統一した人種に見えるのですがそれでもなお登場人物たちは誰かを排除しようと「悪」の存在をあぶりだそうとします。

とはいえただ一人違う意見を述べてしまえばその人物もまた排除されてしまうのです。

これは学校内の「いじめ」をそのまま表現しています。

現在、有名人の「過去のいじめ自慢話」が批判されていますがそのいじめの内容は障碍者在日朝鮮人へのものでした。こうした社会のおける「弱い立場」の人へのいじめは顕著なものだと考えられます。

本作の登場人物は目に見える障害は感じられません。

もしかしたら外見上はほとんど変わらず判らない人種差別、具体的にはやはり在日外国人もとい在日アジア人への差別なのではないかと思ったのです。

 

そういえば『少女革命ウテナ』ではインド人少女と思える容姿のアンシーがウテナの相方として登場します。

幾原氏は物語に現実的な問題を取り込む作家性があります。

日本の中の強い女性差別問題そして女性の自立できない意識問題を幾原氏は『少女革命ウテナ』で訴えたのは明確です。

インドでの女性差別そして主人が死亡した時に存命中の妻が共に葬られてしまうという風習があったという事実が『ウテナ』の中で取り込まれていたのではないかと考えられます。

 

その流れで行けば本作『ユリ熊嵐』で日本人と韓国人・朝鮮人の関わりが描かれたとするのも奇妙ではないと私には思われます。

そこで私は韓国・朝鮮では熊がどう考えられているのかと検索してみました。

そうしたら驚いたことに韓国・朝鮮人の王様の先祖は熊だというのです。

 

hukumusume.com

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これはまったく知らなかったので驚きました。

韓国・朝鮮は無論もともと同一国です。古朝鮮の神話では虎と熊が人間になりたいと神に願ったのですが虎は言いつけが守れず熊は守ることができたので人間の女性になった、というのです。

人間の女性になった熊は恋人を欲したので神様が青年に変身し二人から生まれたのが朝鮮の王様になった、というわけです。

 

勝手な決めつけですが「熊」が人間になったら普通男性を想像してしまいそうですがこの場合は出産育児と重ねての想像だったのでメス熊である必要があったのでしょう。

それにしても朝鮮の先祖が熊女と神様の子どもだったとはなんとも不思議です。

 

が、ここでもとに戻って『ユリ熊嵐』と重ねて考えるとますます不思議です。

やはりほんとうにこの物語は幾原氏が日本と朝鮮のかかわりとして描いたのでしょうか。

それとも「熊女(ウンニョ)」の神話は偶然なのでしょうか。

 

本作に当てはめてしまえば「熊」が韓国・朝鮮人、「ユリ」が彼らと仲良くしようと思っている「ステキな日本人」そして彼らを排除しようとする「透明な嵐」=「排除の儀」を行う「おぞましい日本人」ということになりそうです。

ルルたちの王国は韓国朝鮮本土で(だから最初から熊)でありユリーカ先生は在日であり、銀子は何らかの理由で日本人であるクレハの母レイアに育てられた朝鮮人なのでしょう。

 

 

私としては驚きの一致に納得してしまったのですが本作では特別にそうした暗示をしているわけではないので単なる思い込み、と言われてしまうかもですが、実際には幾原監督はその一点だけにこだわったのではなくさまざまな差別意識からくるいじめ、という表現にしたかったのだとも思いますので絶対に「韓国・朝鮮と日本」の関係のみに落とし込んでしまわなくてもいいのかと思います。

落とし込んでしまわなかった理由はそうしてしまえばそれこそ「透明な嵐」による「排除の儀」が起きてしまうからです。

 

 

もちろん熊=欲望という図式も大切なキーワードとして存在します。その二つ(もしくはもっと)が絡み合いながら『ユリ熊嵐』は吹き荒れたのです。