いきなり第4章ですがどうしてもここを書きたかったのです。
つまりネタバレになりますのでご注意を。
この「無形」という言葉については以前安冨教授ご自身がれいわ新選組の山本太郎氏について語られていた時に説明されていたのを聞きました。
安冨氏は孫氏の兵法を元にして「軍隊の形の最高の状態は、形のないことである」と書いています。
日本の政治が様々な形を繰り返してもなお突破口を開けないでいる時山本太郎という「無形」の人物と出会い安冨氏は日本社会を変えていく可能性を感じられたに違いありません。
私自身安冨教授の考えを知らないまま山本太郎の演説を聞いて「なにかが変わる」という希望を感じました。
事実彼は参議院選挙で二議席を勝ち取り自分ではなく車椅子に乗った障害者である舩後・木村両氏を参議院議員にするという快挙を成し得ました。今までにこのような戦い方はなかったわけです。これは本当に感激でした。まさに「無形は最高の戦法」を描いたものだったのです。
ところでこの「無形」の戦法という話を聞いた時、私は「そんな考え初めて聞いた!」ではなく「よくある話だったなあ」という感想でした。
別にこれは知ったかぶりをしているわけではなく私たちが子供の頃はそういう話が結構多かったのです。と私は記憶しています。
実は私は安冨歩教授と同じ年齢なのです。とはいえ安冨氏は非常な勉強家だったと想像しますので私と同じようなアニメやマンガを知っておられたかどうかはわかりません。もしかしたら氏はまったくそうした経験をされてはいないのかもしれませんが私の子供時代の少なくとも男の子向けのマンガアニメはやたらとそういう「無形の戦法」の話が出てきていたのです。
その頃の少年向けのマンガアニメドラマの主人公は必ずと言っていいほど大人の言うことを聞かない破天荒な少年で他のおとなしく真面目な子供たちが驚くような悪さばかりしてしまいます。もちろんそれで学校の先生とか和尚さんとかから大目玉を食らってお仕置きされたりするのですが一向に懲りない。
そして何らかの試合だとかケンカだとかになって強力な相手と戦うことになるのですがこの無茶苦茶な主人公はちゃんとした稽古も練習もしていないのでとんでもない戦法を使ってその強者をやっつけてしまう、ということになり先生や和尚さんが「なんて奴だ」あっけにとられるという結末になるのです。
たぶんそれらの作者はそれこそ孫氏の兵法をもとに物語を作っていたのでは、と私は思っています。
昔の少年向け物はほとんどそうだった、といっても過言ではないと思いますが判りやすい例としてはちばてつや『おれは鉄兵』があります。
70年代後半のマンガなのでそうした無形の主人公の後期とも末期ともいえるでしょう。
たぶんもうすでにそうした無形の主人公が少なくなった時期にちばてつや氏が堅苦しくなってしまった社会をぶち壊す主人公を作り上げたのだと私は思います。
『鉄兵』はまさしく無形の主人公で何をやらかすかわからない。彼の父親は名門の家に生まれ大蔵省に勤めるまでになりながら家を出て埋蔵金発掘にのめりこむという人生を選んだ男です。
妻と子供たちは名家に残してきたものの幼い息子鉄兵だけを連れ出してしまったため彼は勉強もせず野生児のように育ってしまった、というわけでした。
申し訳ない言い分ですが安冨歩教授は鉄兵ではなく彼の父親とイメージが重なります。
もし氏が読まれていなかったら是非読んで欲しいマンガ作品です。ちょっと嫌かもしれませんが。
ちばてつやさんの作品は安冨歩氏が語る「学校で勉強しなかった」タイプの主人公がほとんどなのではないでしょうか。
「無形」の彼らは型通りに生きている人々を驚愕させます。
なにを考えているのかわからないし本当にとんでもないことをしてしまうので全く予測がつかないのです。
それでもなぜか読者は鉄兵が好きでたまらなくなってしまうのです。
物語で昔は多かったが現在無形の主人公はいなくなった、かのよう書きましたが本当は今は今なりの無形の主人公たちを描いているのがマンガアニメとも思っています。
鉄兵のように型破りではない、むしろ型通りに生きてはいても自分のどこかに「無形」の力が眠っているのを願っている、そんな主人公が現在の姿のように思えます。
何かのきっかけでその無形の力が目覚めて欲しい。
どうにも頼りない現在の主人公たちですが私自身鉄兵ではないと自覚してしまいますし、彼になれるわけもありません。
それでもそんな「無形」の戦法に憧れもするのです。
なお『複雑さを生きる』は図書館で借りて読みました。